5.7.d 補論 ミカサの後日談は『めぞん一刻』を参考にすべきだった説
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以下、またちょっとミカサのキャラ造形に文句を言ってしまいますので、苦手なかたはスルーしていただけましたら。
どうして墓場にマフラーをもっていった?
最後に話題にしたいのは、単行本で最後に加筆された一シーン。
ミカサが天寿をまっとうしたあと、あのマフラーを巻いたまま葬られた描写のことです。
あれ、余計なんじゃないかなと筆者は思ってしまいました。
というのも、あのマフラーは、ミカサが「居場所」としてのエレンに執着していたことの象徴でありましたが、しかし最後の対決で、そのマフラーの意味をミカサは変えることができたのです。
それなのに、あれを死ぬまで巻き続けるというのは、自己解放を達成するまえのミカサに戻ってしまったように、筆者にはどうしても見えてしまうのです......。
もちろんミカサは終生、エレンを忘れはしなかったでしょうけど、それでも別の男性(ジャンっぽい後ろ姿)と結婚したことが、やはり加筆で描かれています。
ミカサが他の親密な人と「居場所」を作ることは、エレンを忘れないというミカサの決意と、別に矛盾することではないのです。かのじょの幸せはエレンも願っていたし。
家族を作ることができたミカサは、試練を越えたミカサです。
それに対して、死ぬときにエレンがくれたマフラーを巻くというのは、試練を越える前のミカサがやりそうなことではないかと思えます。
あれでは、ミカサはいまだに「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系の主役に都合いいヒロインのままじゃないか、と筆者は感じてしまうのです。
作者・諌山も自分の「萌え」から自由ではなかったか。
いまなお高橋留美子には学ぶことがある
『めぞん一刻』の音無響子さんと五代くんの関係を考えてみてください。
音無響子さんがミカサ、かのじょの急逝した前夫・惣一郎さんがエレン、それで五代くんがジャン(多分)ですよ。
(毎度ながら例が古くて恐縮ですが、知らない人はウィキペディアであらすじでも見てください。)
すったもんだをくりかえしつつも、響子さんは、自分が五代くんを愛していることをだんだん自覚するようになるのですけど、それでもやはり惣一郎さんへの想いを整理しきれません。
惣一郎さんを愛した自分の想いが「ウソになりそう」と思ってしまうのです。
でも五代くんは、ようやく響子さんとのゴールインが決まったあと、最終回まぎわ、惣一郎さんの墓を前に言います。
早逝したかれは、すでに「響子さんの心の一部」になっているのだと。
だから「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と。
その一言を聞いて、五代くんに会えてよかったと、心から感じた響子さん。
きっとその後も、惣一郎さんのことは忘れなかったのでしょうけど、でも今を生きている五代裕作くんを、最愛の人として心にもちつづけただろうと思うんですよね。
ミカサの場合も、けっこう長くエレンを引きずっていたようですね(かれの期待どおり)。
でも単行本加筆の墓参りの様子なんかを見ると、ジャン(多分)も五代くんのように、エレンを想うかのじょをひっくるめてミカサを愛する度量をみせたんじゃないですかね。
だとすれば、そんなジャン(多分)に支えられて、ミカサもちゃんと今を生きる人に愛を注ぐように、自然となっていくはずではないでしょうか。
昔の想い人を忘れないことと、今を生きる人たちとのあいだに親密な愛情を育んでいくことを両立できるように、やがてきちんと心の整理がついただろうと思います。
だからどうしても、ミカサが墓場にまでマフラーを巻いていったという描写には、あまり説得力を感じられないんですよね、筆者には。
もっともらしさのない、むしろ作者の「萌え」というか何というかが強く出過ぎたシーンに見えてしまうというか。
「深淵を覗くとき...」
......と、ここまで書いたところで、筆者はふと、恐ろしいことに気づいてしまいました。
ミカサのキャラ設定を、他のマンガのヒロインまでもちだして事こまやかに分析し、作者・諌山の性癖「萌え」にケチをつけてきたのが、じつは両刃の剣だったということに。
つまり、それが同時に筆者自身の「萌え」を、別にそんなものに興味のないブログ読者にさらしてしまう行為でもあったということに。
まさにあのニーチェがいっていたとおり。
「他人の「萌え」を覗くとき、他人もまたお前の「萌え」を覗いているのだ」
嘘です。正しくはこうです。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」
うん、哲学解説ブログっぽくまとまりました。
そういうわけで、エレミカの話はおしまい。
ミカサについては文句が多くてごめんね。
でもエレミカエンドは尊いよ。
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