unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
愛の等価交換の不成立
愛情の関係における自由――始祖ユミルが求めたもの、ミカサがエレンとの関係において到達すべきもの――とは、わたしの愛する行為とあなたの愛する行為との等価交換を成立させることです。
しかし、ミカサの愛する行為にエレンは応えられず、エレンの愛する行為にミカサは応えられません。
たとえ両者が相手をどれほど強く想っているとしても、行為と行為の等価交換が成立しないかぎり、愛は実現されないままなのです。
「愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にすることがなければ、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない」(マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿)
この等価交換が成立するときにのみ、エレンに対するミカサの愛は、またしたがってミカサに対するエレンの愛は、対等な二人の愛へと昇華されることでしょう。
真の愛、自由な愛へと。
ルイーゼのミカサへの崇敬が意味するもの
単独行動を決意したとき、すでにエレンは、ミカサを自分から「解放」しなければならないと考えていました。
他方で、ミカサがみずからの愛情を問いなおすのは、もっと後のこと、すなわち、エレンが「アッカーマンの本能」説を使ってかのじょを突き放した後です。
ただしそれより前に、ミカサには別のきっかけもまた与えられていました。
それは「イェーガー派」のルイーゼとのやりとりです。
ルイーゼは意図せずして、ミカサがみずからの愛する行為を客観視することを促したのです。
ルイーゼはかつてのトロスト区防衛戦で、ミカサによって救われた群衆のなかにいました。
あたかもエレンがミカサに「戦え」という掟を与えたかのように、ルイーゼはミカサに「力が無ければ何も守れない」と教えられたのです。
力への信念から、ルイーゼは「イェーガー派」に加わりました。
同時に、ルイーゼはミカサに対して、崇拝のような敬意を抱いています。
かのじょは軍紀違反で懲罰房に入れられるとき、ミカサに「近づきた」い一心で努力してきたのだと、ミカサに告白したのでした。
そのとき、なぜかミカサの脳裏に浮かぶのは、エレンにマフラーを巻いてもらった想い出(109話)。
さらに、懲罰房から去ろうとする瞬間のミカサに、頭痛とともにあの記憶がフラッシュバックします。
かのじょを救出するために人さらいをメッタ刺しにした、あの幼いエレンが。
返り血を浴びた、鬼気迫る恐ろしい少年の姿で。
このときミカサが動揺したのは、ルイーゼにとって自分が「戦え」という掟の立法者の役割を、図らずも演じたと知ったからです。
この掟は、幼少のミカサがエレンから受け取ったのと同じもの。
それをルイーゼは、ミカサに授けられたというのです。
しかも、ルイーゼのミカサへの感情は、恋愛の要素を含まないだけになおさら、疑似宗教的な崇拝として、力への信仰や大義への信奉と区別しがたい崇敬の感情として、純化されてしまっています。
このような崇敬が自分に捧げられるのを見て、おそらくミカサは意識させられたことでしょう。
自分がそれを愛だと信じているエレンへの感情は、実は、いまルイーゼが自分に向けている崇拝の念と同じものを、愛だと思い込んでいるにすぎないのではないかと。
なぜミカサはルイーゼからマフラーを取り返したか
こういう可能性をうすうす認識していたからこそ、エレンに奴隷よばわりされたとき、ミカサはエレンの作り話を否定できなかったのでしょう。
ジークとイェレナの真の計画を知ったアルミンが「エレンの目的がジークと同じはずはない、だからミカサの件も作り話だ」と言ってくれるまで、ミカサはほんとうに、自分がアッカーマンの本能によって動いていたと信じてしまっていたのです(118話)。
しかし、あれが作り話だったとしても、もうエレンをかつてのようには信じられないミカサ。
というより、自分はエレンを愛しているのだという確信を、もはや以前のようにはもてなくなったのでしょう。
それを表しているのが、襲いかかるマーレ軍に応戦する準備中、ミカサがマフラーを置いていったことです(118話)。
そのマフラーに、妙に感心を示したルイーゼ。
かのじょは戦いのあと、ミカサのマフラーを身に着けちゃっていました。
ちょっとこの人ストーカー気質入ってませんかね。
ルイーゼがそうしたのは、以前にエレンと話したとき、このマフラーをミカサに「捨ててほしい」とかれが願っていたからです。
他方で、ルイーゼにとってそれは、憧れのミカサのトレードマーク。
それを すてるなんて とんでもない!
他方で、さきほどの戦闘中にルイーゼが負った傷は深く、どうやらもう助かりそうにありません。
そこでかのじょは、憧れの人が身に着けていたアイテムを、本人がいらないなら墓場にもっていってしまうと考えたわけです。
ミカサの「返して」というつれない態度にも動じず、ルイーゼは去り際のミカサに告げました。
ミカサに憧れて戦ってきた結果、信念に殉じることになっても悔いはないと(126話)。
一連のできごとをつうじてルイーゼがミカサに見せつけたのは、ミカサがエレンに示してきた愛情の、ある一面です。
すなわち「掟」への服従と、立法者への崇拝です。
言い換えれば、ミカサの愛における他律的側面です。
わたしの愛の意味とは、これだけだったのか?
そうミカサは自問せざるをえなかったでしょう。
しかしながら、エレンの意向を伝えたルイーゼに、間髪入れずにマフラーを「返して」と強い口調で求めたその瞬間、ミカサの心には、小さくも頑強な反抗の意志が芽生えたように見えます。
ミカサとエレンとの愛の絆を象徴するはずのマフラーを、エレンは捨てるよう望み、そしてルイーゼは墓場にもっていこうとしている。
もしそうなるままに任せてしまえば、ミカサの愛の意味は、ルイーゼの純化された他律的な崇拝と同じものでしかなかったと、最終的に決定されてしまうでしょう。
わたしの愛はそんなものではない!
ミカサの心には、そういう反発が生じたに違いありません。
だとすれば、いまこそミカサは、かのじょの愛情に含まれているはずの能動的要素に、かのじょ自身の自由に、向き合わねばならないのです。
ミカサの後悔と「状況内存在」
エレンを止めようというハンジさんの提案にミカサが間髪入れずに応じたのも、エレンの意向に対する芽生えたばかりの反発からでしょう(127話)。
しかし同時に、ミカサの心には後悔が残っています。
ついに「始祖の巨人」の力を発動したエレンに目を奪われながら、ミカサの胸には次のような想いが去来していました。
ミカサや仲間たちが知っていたエレンは、かれの一部にすぎなかったのではないか。
単独行動をはじめたエレンは「最初から何も変わっていない」のではないか。
他の選択肢が存在したかどうかは分からない。
でも「あの時」つまり、エレンに「オレはお前の何だ」と尋ねられたとき、自分が「別の答えを選んでいたら 結果は違っていたんじゃないか」(123話)。
こうして、エレンの「地鳴らし」阻止に参加するミカサの心中には、エレンが自分を突き放すことへの反発と、かれがそうする前に自分の本心を告白しなかったことへの後悔とが、同居することになります。
エレンの意向は受け入れたくない。だからこそ、できることならやり直したい。
それがミカサの正直な願望だったことでしょう。
ここでのミカサの意識は、半分は自由、しかしもう半分は他律性に囚われたままです。
かのじょが自由であるのは、みずからの愛情の意味を他人に決定されたくないと、愛情の対象であるエレン本人にすらそうされたくないと、そう意志しているかぎりにおいてです。
しかし同時にミカサは、あのとき選択を誤らなければ、思い切って本心を告白していれば、自分はエレン=「居場所」を失わずに済んだのではないかと後悔しています。
この後悔が残るかぎり、ミカサの愛情の意味は、不確定なまま浮遊しつづけるでしょう。
実存主義によれば、人間がほんとうに自由になるためには、つまり本来の自己を獲得するためには、自分自身を「状況内存在」として実現しなければなりません。
その一方で、状況とは無関係に、心の願望が満たされることを夢想する者は、決して自由ではなく、むしろ状況に、そして本来の自己に、向き合い損ねているのです。
「状況内存在」としての自己を引き受けることが、いまだミカサはできていないのです。
※ 併読がオススメ
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
ルイーゼから取り返したマフラーを、最後の最後まで、ミカサはずっと身に着けないままでした。
これもまた、ミカサが状況を引き受けられていないことの表れとして読み取るべきでしょう。
かのじょはまだ状況に対して、すなわち「地鳴らし」を発動したエレンに対して、かのじょを想ってくれているはずなのにかのじょを突き放したエレンに対して、ミカサはまだ態度を決められずにいるのです。
エレンが捨ててほしいと望んでいるミカサのマフラーに、ミカサ自身がどんな意味を与えるべきなのかを、いまだ決められずにいるのです。
unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com