5.9.c 鳥になった少年 (下) 〜 自由になることと人間であること
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エレンは「鳥の自由」をファルコに託した?
自由を奪う世界=自由を奪われた自分自身を超え出るため、エレンは身も心も悪魔になりおおせてしまったのか?
そうではないということは、原作を完読した方々には明らかでしょう。
人類大虐殺という地獄の先に、エレンは「巨人のいない世界」という希望を見ていたのでした。
この点をふまえると、前記事でみたエレンの「悪魔への自己超出」についても、違った見方ができそうです。
すなわち、エレンもまた悪魔ではなく、ほんとうは鳥になりたかったのではないでしょうか?
もし状況が許すなら、かれもまた鳥の自由が欲しかったのではないでしょうか?
そして、この自分が達成できない自由を、エレンはファルコに託したのではないでしょうか?
飛ぶことを試そうとしたとき、ファルコはいいました。
ジークの脊髄液で巨人になったためか、自分には「顎」だけではなく「獣」の特質もまた発現しているのかもしれないと。
さらにはその影響か、巨人になってからジークの記憶を夢にみるようになったと。
そして「一番よく見る記憶」は「雲の上を飛んでいた記憶」であり、しかもそれが自分にもできるように思えるのだと(133話)。
ここからは筆者の推測です。
これはたしかに過去の「獣」保有者の記憶で、それがジーク経由でファルコにも伝達されたと見るのが妥当でしょう。
でも、ファルコがことさらにこの記憶を想起するようになったのは、たんなる偶然ではないのではないでしょうか?
つまり、エレンが「始祖」の力でもって、ファルコがこの記憶を見るように働きかけているからではないでしょうか?
そう推測する根拠を説明するために、いままでは禁じ手にしていましたが、アニメでの改変を考慮に入れます。
アニメのファイナルシーズン第1話(第60話)の冒頭で、倒れていたファルコが救出されたあと、なかば意識もうろうとしたまま、とんでもないことを言い放ちました。
「さっきまで剣持って飛び回ってなかったか?」
「ギューンッ! てさ 巨人を…」
周知のとおり、これは原作91話には片りんもなかったセリフです。
この物議をかもす改変は、作者・諌山の意向ではないかとか(これは同意)、ファルコがエレンの「進撃」を継承することの伏線ではないかとか(これは原作未読の方の見解でしょうけど)、さまざまな推測を呼んでいますね。
実際のところ、これが未来のエレンのしわざであることは多分まちがいないでしょう。というか、それ以外には説明がつきません(この時点でファルコは巨人保有者ではないので)。
「始祖」にはすべてのエルディア人の記憶や身体構造に、しかも時をこえて干渉できる力があります。
この力を掌握したあと、たとえばエレンは、ウォールマリアを破った直後のベルトルトに近づいた、ダイナの巨人を操ったりしました(139話)。
この力を使って、エレンは近い過去のファルコに、近い将来のできごと(レベリオ襲撃あたり?)をかいま見せたのではないでしょうか?
それと同じように、エレンは巨人を継承したあとのファルコに「お前は鳥になれるぞー、空を飛べるんだぞー」と毒電波を飛ばした過去の「獣」の記憶を想起させたのではないでしょうか?
なんなら、エレンは「始祖」の力をもってすれば、ファルコが同時に受け継いだ「獣」の特質にはたらきかけて、鳥の能力を意図的に発現させることすらできたのでは?
そう考えたほうが、ジークの脊髄液の影響だけでファルコが鳥になった理由を説明するよりは、強引さが少ないかもしれません。
そして、もしこの推測が当たっているとすれば、エレンは自分のめざす「巨人のいない世界」という結果を得るために、調査兵団の仲間たちだけでなく、ファルコをも必要としていたのではないでしょうか。
つまり、104期の仲間に自分と戦うよう仕向けたのと同様に(133話)、エレンはファルコをも自分との戦いへと仕向けた、とは考えられないでしょうか。
ファルコに自己投影するエレン?
エレンがファルコに目をかけたのは、たんに自分の計画に都合のいい役を演じてくれると期待したからでは? と思う読者もいるかもしれません(レベリオ区から仲間に手紙を送ってもらったこと、最終決戦で鳥の巨人になってミカサたちを助けたこと)。
でも筆者は、それ以上のものをエレンはファルコに託したのではないかと考えます。
ところで、ガビはエレンに似ていると、よく指摘されていました(作中ではアルミンにも)。
でもよく考えると、二人が似ているのって、敵への憎しみが強いことと、殺るか殺られるか的なメンタリティくらいですよね。
しかもガビにはマーレのイデオロギー教育が大きく影響しているはずですが、エレンの場合は、巨人に母親が喰い殺される前から、殺るか殺られるかの精神を素で発揮していました(6話)。
だからまあ、いうほどガビはエレンに似ていないのです。
むしろエレンは、ファルコにもう一人の自分を見出したはず。
え、二人のキャラぜんぜん違うじゃん? エレンはヤバい奴だけどファルコは聖人じゃん?
いやいや、二人の性格の違いにもかかわらず、エレンがファルコに自己投影できる点が二つあるのです。
第一に、好きな女の子が自分より強くて劣等感を抱えていること。
はじめてファルコと腰をすえて会話したとき、かれのいう「戦士候補生」が意中の女の子であることを、すぐにエレンは察知しました(97話)。
まったくエレンも成長したものだ。かつての鈍感野郎(マルロと同列)だったころのかれでは、考えられなかったことですね。
このとき、エレンは自分とミカサとの関係を連想したはず。
すでにエレンは、ミカサにかばわれる自分にコンプレックスをもつ段階は乗り越えているので、むかしの自分をファルコに投影した、といったところでしょう。
その一方で、エレンは自分がめざす未来に到達するため、ミカサを突き放そうと決意していました。
自分とかのじょの恋は叶わないものと、すでに諦めていたのです。
(しかも島を出るまえに勢いでヒストリアとヤッちゃって、ちょっと自己嫌悪だったかもしれない、第4章補論を参照。)
そんなエレンは、自分が叶えられない恋物語を、純真な少年ファルコがかわりに叶えてくれればと願ったかもしれません。
それに、その少年の想い人が「サシャを殺したガキ」になることは、エレンは予知していなかったようですし(105話を参照)。
そして第二に、ファルコが「鳥の自由」を欲する少年であること。
筆者が鳥の自由と呼んできたのは、自由であるがゆえに争いあう、そんな愚かしい人間性そのものからの解放です。
ファルコ自身は、そういう自由への切望を明確に意識していたわけではありませんし、エレンもまた、ファルコについて少しばかりのことを知ったにすぎません。
ただし、次のことをエレンは予知していたはずです。
すなわち、最終決戦まで生き残ったファルコが、鳥の姿になって、ミカサたちを助けるであろうことを。
いま自分のことばに感化された、眼前の純真な少年こそ、自分が「地獄の先」に見ている「希望」の鍵である。
それを分かっていたエレンが、この大空に羽ばたくであろう少年について、とくになにも感じ取らなかったとは考えられません。
悪魔の自由を行使しようと決意しているエレンは、ひょっとしたらこの少年に、自分が達成できない自由の象徴を見出したのではないでしょうか。
すなわち、人間を縛りつける大地から解放され、人間どうしを隔てる壁を自由に飛び越える、そんな鳥の自由を。
というのも、エレンにとってのファルコは、かれ自身には叶わない希望の担い手であり、かれ自身に許されない自由の体現者であるからです。
その初々しい恋を、ファルコが成就すること。
その精神にふさわしい鳥の姿になって、ファルコが憎しみという壁を飛び越えていくこと。
それはエレンにとって、かれ自身には実現不可能な自己解放の代償として映ったのではないでしょうか。
「籠のなかの鳥」としてのエレン
エレンのめざしたものが本質的には鳥の自由であったということは、実際に、作中で何度も、シンボリックに描き出されています。
かれが「始祖」の力を掌握するあたりから、何度も意味ありげに挿入される、大空をはばたく鳥のシーンに注目してください。
人間どうしが殺し合い、あるいは巨人が兵士たちを喰っている地上を、壁のはるか上空から見下ろす鳥の群れ(120話)。
この鳥たちはまさしく、おたがいを分け隔て、滅ぼしあうためにしか自由を行使できないという、人間の宿命的な愚かしさからの解放を象徴しています――そしておそらく、エレンが真に欲しているのはそのような解放だということをも。
もっと分かりやすくエレンの願望を代理表象しているのは、エレンと超大型巨人の群れを先導するかのように、世界連合艦隊を見下ろしつつ洋上をはばたく、一羽の白い鳥(130話)。
先のシーンとは対照的に、ここでは一羽だけで描かれている鳥は、エレンの自由への願望を、その一身に表していると見るべきでしょう
そして、船上でアニと話すアルミンを見つめる、一羽のかもめ(131話)。
この場面の直前では、エレンはアルミンに「会いに」来ていました(139話を参照)。
そのことをふまえると、このかもめは、アルミンたちの様子を窺おうとしているエレン自身の眼の代わりではないのか、とさえ思えてしまいます(設定上はありえないですが)。
ミカサの意識に干渉したときにも、エレンが逢瀬を終わらせようとする瞬間、鳥がかれらの頭上を過ぎていきました(138話)。
この鳥は、エレンがミカサに告げた別れと、かのじょに自由になってほしいという願いとの表現といったところでしょうか。
そして、いちばん大事なことを忘れてはいけません。
巨人にすべてを奪われる前の少年時代、すでにエレンは「籠のなかの鳥」だったのです。
かれの精神は、みずからを閉じ込めるものを憎みつつ、大空にはばたきたいと檻のなかでもがく翼であったのです。
オレはずっと鳥籠の中で暮らしていたんだって気付いたんだ
広い世界の小さな籠で わけのわかんねぇ奴らから自由を奪われてる
それがわかった時 許せないと思った(73話)
だとすればエレンは、人類世界を滅ぼす「地鳴らし」の発動によって、ついに「鳥籠」から解き放たれたというべきでしょう。
かれは悪魔の自由をもって、籠から放たれた鳥になろうとしたのです。
エレンは欲していた自由を得られたのか?
でも、そうすることによってエレンは、求めていた自由を味わうことができたのでしょうか?
「地鳴らし」が作り出す地獄絵図を見下ろしながら、かれは自由を胸いっぱいに感じているように見えます。
ただし、幼児退行しながら。
つまりエレンは、無知な少年に戻ることでしか、自由を実感できなかったのです。
世界を、人間たちを踏みつぶしながら、ずっと渇望してきた自由を呼吸することは、成長した姿のままでは到底、不可能だったのです。
世界そのものを否定する自由を、エレンは欲していました。
それにもかかわらず、もはや自分はそのような自由に満足できる無邪気な悪魔ではないことにも、かれは同時に気づいていたのです。
こうしてエレンの精神は、耐えがたい矛盾に引き裂かれています。
「この世に生まれてきてしまった」者たちの自由
どうしてわたしは、これほどにも狂おしく自由に恋焦がれるのか?
それは「オレが!! この世に生まれたからだ!!」(14話)
――これこそが少年エレンの原点をなす確信でありました。
この信念は、わたしの内なる声、抑えきれない渇望にこそ、わたしの生の真理があるのだと告げます。
この真理は、わたしにとって何よりも価値があるもの。
そのために、わたしの命すら賭けるに値するもの。
またしたがって、わたしが世界のすべてに逆らってでも勝ち取るべきもの。
しかし、わたしには何よりも輝いてみえるこの自由は、ほんとうに価値のある自由でしょうか?
わたしがそう信じるものが、真に尊い自由であるかどうかを、何によって確かめればいいのでしょうか?
結局のところ、それは他の実存をつうじてしかを知ることができません。
望むと望まざるとにかかわらず、同じ「世界」または「状況」をわたしと共有している、他の実存たちをつうじてしか。
望むと望まざるとにかかわらず、同じ「わたしは人間である」という条件を存在する、他の実存たちをつうじてしか。
このこと、すなわち、わたしの自由の価値を確証してくれるのは他者の自由でしかないことは、サルトルが論じるように、実存としての人間にとって、自由の刑に処された人間にとって、逃れられない条件なのです。
われわれは自由を欲することによって、自分の自由がまったく他人のそれに依拠していることを、他人の自由が自分のそれに依拠していることを発見する。......状況への参加〔アンガジュマン engagement〕が行われるやいなや、自分の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。
向こう見ずな少年は、無知であるだけ、わたしの自由にこそ何よりも価値があると信じていられます。
しかし、成熟した人間精神は、他者がわたしと同じ自由な実存であることに、そして、わたしの自由の価値は他の実存をつうじてしか確認しえないということに、目を背けてはいられません。
「地鳴らし」実行を決意したエレンは、まさにそのような成熟した精神の域に達しています。
他の実存が、しかも故郷を滅ぼそうとする敵の主導者にほかならないヴィリー・タイバーが、生存と自由を欲するのは「私がこの世に生まれてきてしまったから」と述べたとき、エレンの心はそれに共鳴せずにはいられませんでした(100話)。
わたしは「この世に生まれてきてしまった」。つまり偶然的な存在でしかない。
このことから、次のような結論を引き出すことは可能です。
不条理な世界がわたしに強いる滅亡を、受け入れるべき必然性など存在しない。
したがって、わたしを否定する人類世界を逆に否定することが、人間で満たされた地表を無人の荒野に変えてしまうことが、わたしの自由の実現である。
こうしてエレンは、悪魔の自由を実行に移しました。
しかし、わたしが偶然的存在であることを突き詰めれば、世界を滅ぼしてしまうことで自由になれるという信念が、どれほど誤っているかは明白となります。
わたしが「わたし」であるのは偶然の結果でしかないとすれば、わたしはこの人であったかもしれないし、あの人として生まれていたかもしれません。
だとすれば、わたしが世界を滅ぼすことは、この人であったかもしれないわたし自身や、あの人であったかもしれないわたし自身を、滅ぼすことに等しいのです。
それに、この愚かしい自由は、わたしが否定したいと欲する不条理な世界を超え出る自由であるどころか、この世界におけるありふれた自由と同種でしかないのです。
つまり、わたしは悪魔の自由をもって人類世界の愚かしさから解放されるどころか、この愚かさをくりかえすだけに終わるのです。
だから、悪魔の自由を手段とするかぎり、ついぞエレンは人間の愚かしさから解放されませんでした。
しかし同時にかれは「地獄の先」の「希望」をめざしていました。
すなわち、ファルコの翼によって運ばれたミカサが自分を断つことによって、世界が巨人から解き放たれるという未来を。
この「希望」をめざしたかぎりにおいて、エレンは人間の愚かしさから自由になろうと欲し、実際にそう企てたといえるのです。
鳥の自由をもって「壁の向こう側」に到達し、そこでほんとうに人間らしい自由を呼吸することを、エレンは欲していたといえるです。
とはいえ、自分自身では「壁の向こう側」の空気を吸えないであろうことを、エレンは知っていました。
それでもかれは、自分の代わりに親友アルミンがそこに到達してくれるだろうと信じたのです(139話)。
人に戻った少年と鳥になった少年
いわばエレンは、かれ自身が実現することは許されなかった鳥の自由を、二人の幼馴染と、そしてファルコとをつうじて達成したのでした。
または次のようにもいえるでしょう。
すなわち、自分自身が断たれることをもって、ようやくエレンはみずからを「鳥籠」から、あるいは人間の愚かしさから、解き放ちえたのだと。
その瞬間、エレンの願望の投影である少年の翼は、崩れ去っていきました。
少年は、ほかの巨人たちとともに、人間に戻ることができたのです。
人間に戻った少年は、悪魔になった少年が諦めた恋を、かわりに別の少女と成就させることができそうです。
それは悪魔になった少年の魂を慰めることでしょう。
そして、鳥になりたかったけど悪魔になるしかなかった少年は、その身を仲間たちに滅ぼされたあと、ほんとうに鳥になったのです。
「壁の向こう側」をめざして故郷との和平交渉に向かう友人を、鳥になった少年は、一枚の羽根で励ましました。
そして少年は、もはや傍にいてあげることのできない最愛の女性に、マフラーを巻いてあげます。
狂おしく自由を求めた少年は、こうしてついに鳥の自由を享受しながら、人間らしい自由にも復帰することができたのです。
(「自由になることと人間であること」おわり)