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自己実現的予言
自分自身の「未来の記憶」を予知し、未来の自分が意志することを目指して行動するエレン(ひょっとしたらグリシャも)。
このことは、自分を自由だと信じるエレンが、実は人知を超える大きな力によって操られていることの証拠なのでは? という疑念を引き起こすかもしれません。
しかしそうではない、エレンの意識において「未来の記憶」は、いわば自己実現的予言として作用するのだ、というところまで前記事で論じました。
じゃあ自己実現的予言って何よ? というのが、ここからの話。
自己実現的予言(self-fulfiling prophecy)とは、哲学というよりも社会学の用語で、マートンという20世紀の社会学者が最初に定義したものとされています。
かんたんにいえば、ある予想を与えられた人間が、その予想がなければとらなかったであろう行動をとることにより、予想どおりの結果をもたらしてしまう、ということ。
よく出される例を挙げれば、株価が下がるという予測を聞いた投資家たちが、予想に従い、その株を一斉に売り払ってしまうことによって、ほんとうに株価が下がってしまうとき、この予測は自己実現的予言として機能したことになります。
ほかには、お前○○ちゃんのこと好きなんだろ? と言われた人が、それをきっかけに○○ちゃんを意識してしまうようになった結果、ほんとうに好きになってしまう、とか。
そうはいっても、自己実現的予言の観念は、もっと古くからあるものです(そういう名では呼ばれてはいなかったにせよ)。
以前にも紹介したシェイクスピア(1564-1616)の戯曲『マクベス』(5.2.a を参照)では、まさに自己実現的予言がストーリーを動かすのです。
主役のマクベスとかれの友バンクォーは、戦争帰りに遭遇した三人の魔女に、マクベスは「いずれ王になる」と、そしてバンクォーについては「子孫が王になる」という予言を与えられます。
それを信じたマクベスは、当時のスコットランド王ダンカンを暗殺し、かれを恐れて逃げた王の息子たちに罪をかぶせて、王位簒奪に成功します(なお、本作ほかシェイクスピアの多くの作品は、史実に取材したフィクションです)。
しかし次には、マクベスはバンクォーの子孫が王になるという魔女たちの予言を恐れて、かれとその息子に向けて暗殺者を放ちます。
ところが、後ろめたさからバンクォーの亡霊を見るようになったマクベス。
不安に駆られる日々に耐えかねたかれは、あの魔女たちを見つけ出し、さらなる予言を求めます。
魔女の予言のなかに、有力貴族マクダフに気をつけろとあったので、マクベスはマクダフの城を奇襲しました。
ところが、マクダフ本人は難を逃れ、殺された家族の復讐を誓います。
亡命した王子の助力を得たマクダフに攻め入られ、配下に寝返られるマクベス。
そんなかれの唯一の頼みの綱であった「女の股から生まれた者には負けない」という予言も、マクダフが帝王切開で生まれていたという事実により覆されました。
こうして暴君マクベスは、反乱者の復讐の剣により散ったのです。
魔女たちの予言を信じなければ、マクベスは王やバンクォーを殺さなかったでしょうし、マクダフなる貴族に手を出すことも、またしたがって、復讐に燃えるマクダフ率いる反乱軍に殺されることもなかったでしょう。
魔女たちがマクベスに与えた予言は、まさしく自己実現的予言として機能したのです。
(ちなみバンクォーの系譜は、史実では後世のスチュワート王家につながっているので、バンクォーの子孫が王になるという魔女の予言は当たるのですが、しかしそれはバンクォーの死から300年以上も後のこと。)
『進撃』における自己実現的予言の最たるものは、パラディ島の「悪魔」がいつか世界を滅ぼすだろうという、全世界が信じた警告でしょう。
世界じゅうの人々、少なくとも有力者たちや諸団体は、パラディ島の意向を知ろうとすることなしに、島を滅ぼすべき脅威として一方的に決めつけることをやめませんでした――実際には、パラディ島は平和的解決の道を探っていたのに。
全世界の憎悪に直面して、島の派遣団があらゆる希望を失ったとき、世界中が恐れていた「地鳴らし」の実行を、エレンは決意しました。
つまり、世界が「島の悪魔」を一方的に脅威と見なし、憎んだことが、世界は「島の悪魔」に滅ぼされるという予言を実現させたのです。
遅きに失しながらも、そのことを理解し、深く悔いたのは、マーレ最後の飛行船部隊の指揮官でした。
かれは言います。
「我々が至らぬ問題のすべてを「悪魔の島」に吐き捨ててきた」結果として、あの「怪物」が、すなわち「始祖」の力を発動した「進撃の巨人」が「憎悪を返しに」やってきたのだと(134話)。
自己実現的予言としての「未来の記憶」
エレンにおける「未来の記憶」の影響に、話を戻しましょう。
かれが見た「あの光景」とは、未来の自分が「地鳴らし」を実行する光景であり、未来の自分の「世界を滅ぼす」という意志に違いありません。
そんな未来の自分の意志に逆らう自由は、エレンにはあったのでしょうか。
未来が決まっているなら、逆らうことなんてできないと思われるかもしれません。
しかしながらエレンには、その自由はたしかにあったと筆者は考えます。
『進撃』の作品世界が厳密に決定論的な世界であるとすれば、つまり未来が決定され、人間の行為は 変更できない世界なのだとすれば、エレンは「未来の記憶」を見ようが見まいが、最終的には「地鳴らし」に踏み切るよう決まっている、ということになります。
ほんとうにそう言えるかどうかを見るために、次のように仮定してみましょう。
もしもエレンが「未来の記憶」を見なかったとすれば?
それでも、エレンは最終的には「地鳴らし」しかないと決意したかもしれません。
しかしながら、そもそも「地鳴らし」がほんとうに実行可能であるという確信を、王家の血筋ではないエレンは、どこから得たのでしょうか?
自分自身の「未来の記憶」のほかに、そういう確信を与えてくれる情報源などなかったはず。
そもそも、エレンがみずからの目的を達成するためにジークを利用できるということも、それを「未来の記憶」で見ていなければ、あやふやな推測の域を出なかったはずです。
つまり、エレンは「地鳴らし」という選択肢の存在だけではなく、その実行可能性についても、一定の見込みをもっていなければならなかったはずです。
その見込みが一切なかったとすれば、はたしてエレンは、あれほどの強い目的意識をもって「地鳴らし」発動に向けた行動をとりえたでしょうか?
あれほどにも周到で首尾一貫したやりかたで、いっさいの迷いも動揺もなく、一心不乱にそれを追求し、成功させることができたでしょうか?
つまり、じゅうぶんな前知識がなければ、そもそもエレンにとって「地鳴らし」が選択肢たりえたかどうかも定かではないのです。
だから「未来の記憶」を見なければ、エレンが「地鳴らし」実行を選択しなかった可能性は大いにあったと筆者は考えます。
あるいは実行を決意したとしても、それを実現できる見込みはずっと少なかったでしょう。
だとすれば、エレンが見た「未来の記憶」は、決定された不動の未来ではありません。
エレンが自由な実存として「地鳴らし」実行を決意したさいに、その判断材料をなしたにすぎないのです。
むしろ「未来の記憶」は、確定的な未来ではなく、あの『マクベス』の魔女たちの口から発されたものと同じ、一種の予言として見なされるべきでしょう。
それを知らなければやらなかっただろうことを人に実行させる予言として、つまり自己実現的予言としてです。
それ以上の影響、たとえばエレンの意識そのものを乗っ取り、操るといった効果を、エレンに「未来の記憶」が及ぼしたとは、決して言えないのです。
「神は人間の自由に逆らえない」
いまや、次のように言うべきでしょう。
「未来の記憶」は、それを受け取った過去の人間を、サルトルのいう「自由の刑」から免除することはないと。
まさにそのことを『進撃』は描いています。
マーレに潜入した一行から離れて、エレンが街をさまよう場面を見ましょう(131話)。
かれが「未来の記憶」のとおりに「地鳴らし」を発動すれば、この活気のある街に暮らす人々はみな踏み潰され、地上から消え去ります。
それでも「地鳴らし」を実行してよいのかと思い悩みながら、街をそぞろ歩くエレン。
そうしているうちに、昼間に会ったスリの少年を見かけます。
通りの裏で、地元の商売人たちに殴られる少年。
そのときエレンは、この少年を「未来の記憶」で見たことに気づきます。
それと同時に、この少年を自分は助けるだろうということも、エレンは予知します。
ところが、そう知っていながら、将来みずから殺してしまうはずの少年を助けるなんて偽善的だと考えたエレンは、その場を立ち去ろうとしたのです。
でもけっきょく、少年を助けてしまったエレン。
未来は「変わらないらしい」と悟り、そんな自分はライナーと同じ「半端なクソ野郎」だと、むしろ「それ以下」だと自嘲します。
ついにエレンは涙を流し、事情が分からない少年に「ごめん」「ごめん」と泣いて謝ったのでした。
このときエレンは、変更不可能な未来に屈したように見えるかもしれません。
しかし、殴られている少年に背を向けて立ち去ろうとしたエレンに、振り返って少年を助け出すよう仕向けたのは、いったい何だったでしょうか。
かれが見た「未来の記憶」? 神とか運命とか呼ばれる、抗いがたい大きな力?
そのどれでもありません。
エレンを振り返らせたのは、かれ自身の心、かれ自身の意志でしかなかったはず。
それ以外のなにも、未来の自分自身から送り込まれた「記憶」ですら、立ち去ろうとするエレンの足を強制的に止めることが、できたはずはありません。
エレンが未来を変えられなかったのは、かれが少年を助けずに去るのを選ぶことができない人間だったからです。
自由な実存として、かれが少年を助けざるをえなかったからです。
自分が「地鳴らし」を実行する未来もまた避けられないとエレンが悟ったのも、それと同じ理由からというべきでしょう。
すなわち、自分自身の生きる価値を否定し、自己破滅に甘んじるという結末を、エレンは選ぶことができない人間なのです。
自分はそういう人間なのだと、かれは自覚せざるをえなかったのです。
だからエレンは、かれが助けておきながら殺してしまうであろうスリの少年に、ただ泣いて詫びるしかなかったのです。
未来は変わらない。
しかしそれは、わたし自身がそう決定するからである。
ほかの選択肢なんて存在しないと、わたしが判断を下したからである。
たとえいま意志する以外のことを、わたしは決して選択しえないとしても。
――こうしてエレンは、逃れられない必然性のなかで、それでも自由であるのです。
以前に紹介した、サルトルの神秘劇(5.3.b を参照)には、次のようなセリフがあります(しかもセリフをあてられた登場人物をサルトル自身が演じました)。
「人間の自由に逆らうことを、神はひとつもなしえない」(サルトル『バリオナ』第6幕)。
全能の神ですら、人間の自由に働きかけずには、なにも実行できないだろう――サルトルはそう言います。
エレンにおける「未来の記憶」についても、同じことが言えるでしょう。
予知された未来は、次のことを告げるにすぎないのです。
それは必然的な未来であると。
それは決定された未来であると。
それは確かに起こるはずのことだと。
にもかかわらず、自由な人間がそれを意志し、選ぶように仕向けること以外に、予知された未来があなたに干渉する方法は、一つもないと。
未来を知る人間は、それでも自由に未来を選ぶという点においては、他の人間とすこしも違わないのだと。
「すべてが最初から決まっていたとしても」
以上に見てきたことを、エレンはよく理解していました。
だからこそ、いよいよ「地鳴らし」を開始したエレンは、さまざまな記憶や感情が交錯する意識のなかで、自分にこう言い聞かせたのです。
どこからが始まりだろう
あそこか? いや… どこでもいいすべてが最初から決まっていたとしても
すべてはオレが望んだこと
すべては… この先にある (130話)
「すべてが最初から決まっていたとしても」――この部分は、自分が知っている以外の未来はありえないという、エレンの判断あるいは意識を表現しています。
それはすなわち、必然性を洞察し、これに従って行為しようとする、スピノザ的意識です。
「すべてはオレが望んだこと」――この部分は、自分が意志するだろうと知っていたことを、自分自身の自由と責任において実行するのだという、エレンの自覚または決断を表現しています。
それはすなわち、みずからの全実存をもって状況を引き受けようとする、サルトル的決断です。
こうして、冒頭で予告したことが証明されました。
自由のスピノザ的命題とサルトル的命題とは、未来予知という能力を与えられたエレンにおいて矛盾なく両立する、ということが。
エレンは未来予知の結果、必然性に支配されるのではない、ということが。
エレンは必然性を知るがゆえにスピノザ的意味で自由であるが、だからといってサルトル的な「自由の刑」を、つまり状況を引き受けるかどうかをみずから決定する自由を免除されるわけではない、ということが。
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