自由に値する人間であるために ~ 「進撃の巨人・自由論」結語にかえて (上)
マンガ『進撃の巨人』を自由の哲学で読み解いてみようという、誰が得するのかあまり分からない趣旨を、このブログは貫いてきました。
そんな自己満ブログですが、おかげさまで、思ったより多くの方に読んでもらえたようです。
読んでもらえること、そして反応がいただけることが、月並みないいかたですが、心の励みになりました。深謝!
しかし、いい加減ネタ切れです。もう書けません。
燃え尽きました、真っ白に。
アニメ最終クールが始まる前には終わっているかなと思っていたのですが、だらだら続いてしまいました。
こうなったら、アニメ最終回といっしょに終わりかな? と思っていたところ、こんどはアニメのほうが最終回まで進まず、次期におあずけ決定。
こうして本ブログは、けっきょくアニメ派には読まれにくいネタバレサイトのまま終わることになった次第です。(笑)
アニメが全話おわったら、ぜひまた読んでね!
『進撃』における自由とは?(おさらい)
けっきょく『進撃』の自由とは、哲学的にみて、どういう自由なのか?
「残酷な世界」に、生の無意味さに、ニヒリズムに立ち向かう自由だと、まずはいえるでしょう。
では、どんな種類の自由をもって「残酷な世界」を克服するのか?
それは登場人物や場面ごとに、さまざまでした。
無意味な世界に意味を作り出すのはわたしだと、絶望に抗う自由な意志をもって状況と対決する者たちがいました。
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決断の繰り返しを恐れず、無意味を無意味のまま受け入れ、不安が人間の避けがたい条件であることを直視する、実存的自由の極致とよぶべき精神がありました。
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大事なものを捨ててでも、さらには人類すべてを一世一代の大博打に巻き込んででも、崇高な目的を達成することを自由だと信じる者たちもいました。
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自分への言い訳をやめて、状況が浮かび上がらせる「本来のわたし」をあえて選び取ることにより、若き魂たちはみずからを解放しました。
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自分自身にすら不可解な「良心」の声に、他者と共鳴せずにはいられない内的感性に導かれた者たちもまた、みずからの魂を解き放つことができたのでした。
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そして「残酷な世界」に翻弄される奴隷たちですら、みずからを人間として証明しようと意志したとき、すでに自由な存在であったのです。
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かれらがそれぞれに表現してみせた、さまざまな哲学的自由は、とうてい一言では要約できません。
だから本ブログの読者には、各自の推しキャラの生きざまに、「残酷な世界」に立ち向かう自由の哲学を見出してもらえればと望みます。
でも、これで結論を済ませてしまうのは、ちょっと物足りません。
そのかわりに、本作品において最後まで「自由の翼」の理想を追い求めつづけた集団の自由を、すなわち、調査兵団が体現した自由を、結びとして考察してみましょう。
理念としての調査兵団・再論
人類のために「心臓を捧げ」ることを誓う調査兵団。
かれらの誓いの意味は、同じ宣誓をおこなう他の兵団とは、じつは異なります。
誇張なしに命がけの任務を引き受け、壁外調査のたびに多数が命を落としてきた調査兵団。
しかしかれらは、王政との戦いより前までは、壁内人類にはほとんど感謝されてきませんでした。
それでも調査兵団は、現実の壁内人類のためだけに命をかけてきたのでしょうか。
かれらのいう「人類」とは、むしろ普遍的な人類を意味していたはず。
すべての人であると同時に特定の誰でもない人類を、意味していたはず。
そして、この「人類」は、お仕着せの大義ではなく、個々の兵士が、みずからの心に問い、みずから選び取った理念であったはず。
だから、終盤で団長ハンジさんが、エレンの人類みなごろしを止めなければ命を捧げた仲間に顔向けできないと考えたとき、かのじょは調査兵団の理念にまったく忠実だったのです。
壁外に人類がいるとは知らずに死んだ仲間たちもまた、人類を救うべきと考えるだろうと述べたとき、ハンジさんは仲間たちと共有してきた理念を確認したにすぎないのです。
※ 併せ読みがオススメ
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もっといえば、調査兵団は、現時点でそうあるとおりの人類ではなく、いまよりも善い、いまよりも価値のある生を実現できるであろう、未来の「人類」のために命を捧げてきたのでした。
だから、より善いもののために命を散らした仲間、この「残酷な世界」に意味を残してくれた仲間は、みな調査兵団と同じ理念を共有する仲間なのです。
ハンジさんの言葉に触発されて、ジャンが見出した同期の訓練兵マルコも、ミカサが見出した駐屯兵団精鋭イアン(アニメでは削られてたっぽくて残念)も、かれらにとっては「調査兵団」なのです(127話)。
「地鳴らし」発動後の混乱した状況のなかで自分を見失ったコニーとアルミンも、調査兵団の一員としての矜持を忘れ去ることはありませんでした。
みずからの不甲斐なさを見つめなおしたあと、かれらは決意します。
「困っている人を助けにいこう」と(126話)。
その一方で(組織崩壊前の)調査兵団からも、フロックをはじめ「イェーガー派」が多く出たことは事実。
かれらは「悪魔」としてのエレンを指導者と仰ぎ、島の安全と自由だけを至上目的としました。
祖国を守るという点において、かれらには大義があります。しかしかれらは、外部から襲ってくる脅威に対抗するために、力と恐怖によって内部を統合しようとする、一種のファシズムに流れてしまいました。
※ 併せ読みがオススメ
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かれら「イェーガー派」は、島内から巨人が一掃され、島外の人類との対立が明らかとなった局面で、命をかけることを選択した者たちなのでしょう。
――いまよりも善い未来の「人類」のためにではなく、いまここに存在するとおりのパラディ島の人類のために。
だから、ハンジさんたちと「イェーガー派」の世代とは、同じ組織に属していても、忠誠を捧げる理念が根本的に異なっていたのです。
「幸福に値する」人間であるために
上にみた調査兵団の精神、調査兵団の理想には、カントの自由観=道徳観に通ずるものがあります。
自由観=道徳観というのは、カントにとって自由と道徳的であることは同義だからです。
かれのいう自由=自律とは、自然的傾向(欲望、情念、気分)に支配されるのではなく、みずからの意志に服従することです。
そのとき、意志決定の根拠は、自分の利益ではなく(それでは欲望に振り回されているのと同じだから)、みずからが正しいと認める道徳法則でなければなりません。
こうして、首尾一貫した道徳規則をみずからに課す者だけが、つまり自己立法する者だけが、自由になれるのです。
このことについて、カントは次のようにも述べています。
すなわち、道徳とは幸福になるための教えではなく、幸福に値する者になるための教えなのだと。
最高善の概念のなかには、わたし自身の幸福もまた含まれているにせよ、しかし最高善をめざす意志を決定する根拠は、幸福ではなくて道徳法則である。
だから道徳論とは「どうすれば幸福になれるか」ではなくて「どうして幸福を受けるに値するようになるべきか」についての教えなのである。
カント『実践理性批判』
ここでカントがいいたいのは、欲望を押し殺せとか、私的な幸福を忘れろとか、そういうことではありません。
ただし、自分の欲望にそのまま従うだけでは、人間にふさわしい自由な存在とはいえなくなってしまう。
だから、自己に普遍的な法を与え、この法によって自己を律しながら、自分自身の幸福をも含んだ普遍的な幸福を追求すべきである。
そうすることで人は「幸福を受けるに値する」存在となれるだろう。
そうカントは説いたのです。
そしてカントによれば、道徳的であることと自由であることは同義です。
だとすれば、カントとともに、次のようにもいえるでしょう。
自由な人間とは、ただ幸福になろうとする人間ではなく、幸福に値する存在になろうとする人間のことであると。
みずからに誓いを立て、この誓いを実現することによって普遍的な幸福を達成しようと努める者こそが、自由に値する人間なのであると。
これは、まさしく「人類」への忠誠を誓い、人類の解放という目的をとことん貫いた、調査兵団に当てはまる自由の定式ではないでしょうか?
かれら調査兵団は、カント的意味において、幸福に値する人間であり、そして自由に値する人間であったのです。
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