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人間的な、あまりに人間的な
哲学者たちは教えます。
人間らしく在ることと、自由であることは不可分だと。
ところが、哲学者たちは次のようにも教えます。
自分を自由だと思い込む者ですら、実は奴隷なのだと。
一体どっちやねん!?
でも読者のみなさん、どうか怒らないでください。
哲学者たちはでたらめをいっているわけでも、逆説をもてあそんでいるわけでもないのです。
むしろ、人間の矛盾に満ちたありかたを鋭く見抜いているのです。
このブログで使ってきたフレーズでいえば、こういうこと。
人間賛歌は「自由」の賛歌ッ!! 人間らしく在るとは「自分自身の主人」として自由に生きること(0.2 を参照)。
ところが人間は、いつのまにか運命に弄ばれ、選択肢を、そして尊厳を奪われたあげく、自分自身が「罪の奴隷」や「哀れな役者」になっていたと気づくかもしれません――ひょっとしたら「生まれるべきではなかった」者だったとすら(5.2, 5.3 を参照)。
この「残酷な世界」によって、自由を否定されてしまった人間。
状況のせいで、まるで奴隷のように自己決定を失ってしまった人間。
そんな人間は、心のなかに一片の自由でも残されているとすれば、いったい何を望むでしょうか?
ある者は、人間の域を超えた、悪魔のごとき強大な力そのものとなって、すべてを壊してしまいたいと夢想するかもしれません。
別の者は、いっそ人間なんてやめて、鳥のように空を飛び、すべてから解き放たれたいと憧れるかもしれません。
どちらにも共通するのは、もう人間なんてものにはうんざりだという厭わしさ。
あるいは、人間の条件そのものから自由になりたいという願望です。
おれは人間をやめるぞ! ジョジョーーッ!!
この願いは、人間にとって意味のあるものでしょうか?
人間が人間であるかぎり、人間の条件から解放されるなんて不可能なはず。
でも、犬が犬をやめたいと思うでしょうか? ネズミが猫になりたいと憧れるでしょうか?
だとすれば、人間なんてやめたいという衝動ですら、ある種の人間らしさを――またしたがって、ある種の自由を――表現しているのです。
ところで『進撃の巨人』には、まさにそのような、人間の条件から自由になりたいという人間的願望を表現する人物たちが登場します。
鳥になった二人の少年に、本ブログの最終節を捧げることにしましょう。
天を舞う鳥と天を仰ぐ少年
鳥になった少年の一人目は、マーレ編の冒頭で、天を舞う鳥に語りかけた、まだ幼い兵士ファルコ・グライス。
かれの人物像にかんして注目したい要素は、三つです。
第一に、善意、または言い換えれば、憎しみからの自由。
戦況が覆ったあと、負傷した敵兵をファルコが捕虜として助けた場面を見ましょう。
戦果を作れないかわりにそうやって評価を得たいのかと皮肉る戦士候補生ガビに、ファルコは「知るかよ」と答えました。
その敵兵にすら、かれはエルディア人への蔑視と敵意を突きつけられてしまったのですが(92話)。
ともあれ、これはガビの揶揄とは裏腹に、ファルコの二心のない行為とみるべきでしょう。そういうふるまいは、その後のかれにおいても一貫していることですし。
ファルコがマーレの大義に従順でありながら、心を憎しみに染めているわけではなく、他人の痛みに共感する人間らしさを保っていることを、このエピソードは表現しています。
第二に、鳥のように自由でありたいという、心の底の願望。
ファルコが知性巨人を継承する「戦士」の一候補生となったのは、そうするしかないからです。
マーレのエルディア人として戦争の矢面に立たされることも、一族のために体制に忠誠を示すことも(かれは兄コルトとともにエルディア復権派メンバーの親せきでしたね)、かれにとっては受け入れざるをえない運命です。
その一方で上記のとおり、かれの心は憎しみに屈折しておらず、人間らしい感性を保っています。
そうだとすれば、ファルコがはばたく翼に自分の願望を投影するのは、当然ではないでしょうか?
残酷な世界から脱したいと願うのは、あたりまえではないでしょうか?
第三の要素は、意中の少女への、劣等感が混じりつつも初々しい恋心。
「鎧の巨人」継承の最有力候補である戦士候補生の少女ガビに、かれは特別な好意を抱いています。
その想いの強さたるや、戦功をあげるための騙し討ちに成功したあと、敵の追撃のマシンガンから逃れるかのじょを、思わず身を挺してかばおうとするほど(91話)。
だからこそファルコは、ガビが巨人継承により余命を縮めることを望みません。
自分自身を残酷な目にあわせる世界を耐えしのぶことはできても、恋慕の情を寄せる少女にさえも命を投げうつよう強制する世界は、ファルコには受け入れがたいのです。
それにファルコは、否(いな)を突きつけざるをえないのです。
したがって この恋心は、少年ファルコの積極的動機、かれの行動原理、かれの能動性に違いありません。
あるいはルソー風にいえば、これこそがかれの「良心」あるいは「魂の声」なのです。
鳥のように天空へと飛び去ることが人間には許されないのだとすれば、ファルコはこの恋心=良心に導かれながら、残酷な運命にあらがい、あがいてみせるしかありません。
良心とは魂の声である。......良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない。
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「良心の声」と反ニヒリズム
少年ファルコの運命への抵抗は、しかしながら当初は、ごく微細なもの、心情的な抵抗にすぎませんでした。
ガビの「鎧」継承は覆せそうにない、そうすればかのじょの人生は長くて27歳までだと、ファルコは愚痴をこぼすことしかできませんでした。
しかしかれの内心を、ライナーは目ざとく察知します。
少年のうかつな発言を咎めつつ、かれの意志を聞き出すライナー。
最初は動揺しつつも、このときばかりは力のこもった目つきで、ファルコは宣言します。「鎧」を継承するのは自分だと。
ところが少年には意外なことに、体制に忠実な「鎧」の戦士ライナーは、こう返したのです。
「お前がガビを救い出すんだ この真っ暗な俺達の未来から...」(93話)
ここでライナーがファルコを励ましたのは、次のことを痛感しているからでしょう。
すなわち、マーレのエルディア人は、体制への忠誠を示し、外部の敵に憎しみを投影したところで「真っ暗な未来」からは抜け出せないということを。
かといって、そのかわりに何を目指せばいいのかを、ライナーが知っているわけではありません。
かれがファルコに示したかったのは、もっとばくぜんとした指針というべきでしょう。
すなわち、暗闇のなかで「良心の声」だけは見失ってはならないということです。
そのことをファルコは理解できると見て、ライナーはファルコを励ましたのでしょう。
他方のガビには、ライナーは決してそのような内心を吐露しません。
かれが本心を隠していると、ガビに察知されたときにすら(95話)。
ガビを突き動かす「善意」は、マーレの大義に照らして「善いエルディア人」でありたいとする意志。
しかしそれは「内なる良心」ではありません。「敵国の人間」や「島の悪魔」を、人間らしい共感の対象外に放逐してしまうからです。
ファルコに戻ると、かれはライナーに励ましを受けて、ガビを越えようと一念発起。
それでも努力が実る兆しは見えてきません。
心が折れそうになる少年に声をかけた、心的外傷のふりをする兵士クルーガー。
「クルーガーさん」=マーレに潜りこんだエレンがファルコに伝えたのは、「地獄の先」に掴みとるべき目標を見出そうとする、反ニヒリスト的な不屈の意志。
あらゆるニヒリスティックな諦念を克服せんとする、ニーチェ的な「力への意志」です。
エレンの真意を知るよしはなかったにせよ「クルーガーさん」の言葉に励まされて、ファルコの迷いは晴れたのでした。
鳥の眼と「良心の声」
とはいえ、ライナーのいう「暗闇」とは、本質的には何なのか?
そして「クルーガーさん」があえて「地獄」に飛び込もうとしているのは、どうしてなのか?
それをファルコが真に理解したのは、かれの仲介で二人の恩人が再開を果たした、その場面においてです。
「クルーガーさん」の正体と目的を知ったことで、そしてライナーの深い罪責の念を知ったことで、ファルコの視点は、鳥の目の高さにまで引き上げられたのでした(98-100話)。
このあらたな視点をファルコに自覚させたのは、狭い視野に閉じ込められたままの想い人の言葉。
エレンとパラディ島の兵士たちに故郷を破壊され、親しい人々を殺されたガビは、どうして敵はこんな酷いことをするのか理解できないと、怒りを燃やします。
敵には敵の動機があると知っているファルコがそう伝えても、ガビはそれを理解しようとしません。
「ちゃんと習ったでしょ?」「奴らは(......)残酷な悪魔」「私達とは違う」(105話)
この反応を見た瞬間、ファルコは悟ったのです。
「敵は私達とは違う」――この理解を拒む決めつけこそが、ライナーのいう暗闇の本質なのだと。
人類みなごろしを企てている最悪の敵すら、自分たちと「同じ」人間であり、わたしと同じように喜び、苦しみ、恐怖する人間なのであって、そう理解しないことが争い以外の道を閉ざすのだと。(註)
しかしファルコは、自分自身だけがそう達観して、満足するわけにはいきません。
いま想い人は、ついぞ「暗闇」から抜け出せないまま、それどころか「暗闇」のさらに奥深くへと迷い込んみながら、命を散らそうとしているのです。
だから、ファルコの目的は、かれ自身に「良心の声」が命じることは、まったく変わりません。
ガビを救いたいなら、そして、かのじょを無意味で無価値な殺し合いへと仕向ける「残酷な世界」に抗いたいなら、かのじょとともに「暗闇」から脱出しなければならない。
エルディアの飛行船に乗り込もうとするガビに、むりやりついていくファルコ。
かれは叫びます――「鎧の巨人」を継承するのは「オレだ!!」と。
ファルコが、かれの「良心」が自由であるためには、ガビを救い、そのことによってかれ自身を救わねばならないのです。
「暗闇」のなかの良心
それにしても、どうすればファルコやガビは「暗闇」から抜け出すことができるのでしょうか。
というのも、良心的な人間がかならず救われる保証も、かならず問題を克服できる保証も、存在しないのですから。
ファルコの先輩である、マーレの「戦士」たちを見てみましょう。
かれらはもっともマーレに忠誠を示していると評されていますが、だからといって体制に心から服従しているわけではありません。
かれら自身の意志があり、判断力があり、そして良心があります。
たとえば「顎」のポルコ。
上官の非合理あるいは筋違いな命令にたいして違和感を抱ける程度には、かれは自分の意見と意志をもっています。
かれよりも「戦士」の経験の長い「車力」のピークは、もっと冷静です。
マーレにたいして「善良さ」を証明しつづけてもエルディア人は救われないだろうと、かのじょは達観しています。
とはいえ、かれらの良心にはせいぜい、課された責務とのあいだに折り合いをつける事由くらいしか許されていません。
ピークはいいます。自分はマーレを信じていないが「一緒に戦ってきた 仲間を信じてる」と(116話)。
では、この信頼関係が、マーレのエルディア人の存続の保証になるのか?
そういう確信がピークにあるようには見えません。
ポルコの亡き兄マルセルの「良心」もまた、自分の責務とぎりぎり折り合いがつく範囲で実現されたものでした。
エレンとの戦いのさなか、ライナーとの接触をきっかけに、ポルコはついにマルセルの想いを知ります。
かれとライナーの最後の会話の記憶がよみがえったのです。
兄は弟を「戦士」の重荷から自由にしてやりたくて、ひそかに一計を講じたのでした(95話、119話)。
しかし良心は、いかなる外的強制すらないところでも、かれら「戦士」の意志を決定し、人間的なもののための行動にかれらを駆り立てます。
兄の想いを知った弟は、エレンとの戦いが終わったと見えたとき、巨人にされてしまった仲間の弟のために、自分の命を投げ出します。
そうやってポルコは、兄マルセルが遺した「暗闇」のなかの良心に、かれ自身の良心をもって報いたのです。
ピークもまた、みずからの良心に導かれながら「暗闇」のなかで歩みを止めませんでした。
地鳴らし発動により、マーレの壊滅が確実となったあとでも、かのじょは戦いを放棄しなかったのです。
マーレの体制は、いまや壊滅したも同然。
それどころか自分の故郷すら、もはや救うには手遅れ。
それでもピークは「死んだ仲間達に報い」るために「戦士の務めを果た」すと宣言し、地鳴らしを止める戦いに赴いたのです(132話)。
マルセルやポルコの、そしてピークの良心は、かれらをマーレのエルディア人の奴隷状態から解放したわけではありません。
しかしそれでも、かれらが「暗闇」のなかで途方に暮れて膝を屈することはありませんでした。
奴隷状態のなかで、それでもかれらは人間の尊厳を追求しつづけることができたのです。
「暗闇」のなかの良心は、少なくとも、人間であろうとする意志を見失わないための導き手、方位計なのです。
「良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない」(ルソー)
「暗闇」にはばたく翼
しかしファルコの良心は、かれ自身の方位計というより、それ以上の役割を果たしているように見えます。
すでに見たように、かれ自身の精神は鳥の視点を獲得しました。
だからかれは、少なくとも向かうべき場所を、すなわち憎みあいという「暗闇」の出口がどこにあるかを眺望することはできます。
そうだとすればファルコは、かれの良心は、他の人々を「暗闇」の外へと導く方位計になることができるのです。
暗闇の出口があることを、ファルコは想い人ガビに気づかせることができました(118話)。
パラディ島の人々との出会いと衝突をつうじて、自分のなかの「悪魔」に気づいたガビですが、ファルコの助けがなければ、せいぜい自分が殺されるまでに島の人間を殺して回ることしかできなかったでしょう。
ガビを少なくとも内面的には救うことができたファルコは、ジークの脊髄液を飲み、無残にも巨人にされてしまいました。
かれの役割は終わってしまったのかと思いきや、しかしポルコに「顎」を託されてファルコは生還します。
しかもファルコの巨人は、翼をもった鳥のよう。
かれの精神にふさわしい形態が、ファルコの巨人に与えられたというべきでしょう。
鳥になった少年ファルコが体現するのは、人間のもっとも愚かしい条件を、すなわち憎しみと争いという条件を、飛び越えていくための翼です。
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註
たったいま、現実世界において、ファルコのような視点に立って戦争を理解している被人が、少なくともそうしようという意志をもつ人が、いったいどれほどいるのかと問わずにはいられません。
敵はわたしたちとは違う、少なくとも敵の主導者はわたしたちとは違う、敵を理解しようとすることは敵に弱みをみせることだ。
――このような偏見に囚われることなく、殺し合いを真に回避し、解決するために、発言したり、交渉したり、報道したりする人たちの、なんと少ないことでしょうか。
それにこのことは、2022年にはじめて起きた事態というわけでもありません。たとえば2003年にだって、2011年にだって生じたことなのです。
とりあえず、次のような教訓だけを引き出しておきましょう。
21世紀の現在において「暗闇」から抜け出せていないのは、一部の「遅れた」人たちだけではありません。
グローバル化したといわれる現代世界に生きるわたしたち全員が、まだ「暗闇」から抜け出せていないのです。