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実存主義者はニヒリストとはどう違うか
決断することをためらうな。
だが同時に、自分の判断が次の瞬間には誤りになることをつねに覚悟せよ。
――これこそリヴァイの生きざまから抽出される教えです。
ところで、この教えは、見ようによってはニヒリズムの教えとして読まれるかもしれません。
「何が正しいかは分からない」「悔いの残らないほうを選べ」と価値判断を留保し、真理や善悪について最終的、確定的な判断を下すことを許さないのですから。
でも、そのような指摘はリヴァイには当たりません。
かれは世界の不条理をよく知っていますが、しかし「この世に信じられる価値なんてない」というニヒリスト的な諦めには、みじんも囚われていません。
むしろこのことは、人間は自由ではないことはできないという実存主義的な真理を、リヴァイが身体感覚のレベルで理解していることの表れなのです。
実存的自由の極致たるリヴァイ。
実際のところかれは、ニヒリストどころか、その根本において理想主義者であります。
ここでいう理想とは、各人がでたらめに、好き勝手に選ぶ価値ではなく、倫理的要請を帯びた価値、誰もがそれを選ぶべきと見なされた価値を指します。
リヴァイが他の調査兵団古参兵士とともに追い求める自由は、世界に実現されるべき崇高な価値としての自由です。
この自由は「選ぶべき」理想としての輝きと重みをそなえています。
ここで疑問が生じます。
「自分で選ぶ」ことを徹底する実存主義者は、誰に強いられるわけでもないのに、なぜ「選ぶべき」理想を選び取る(ことがある)のでしょうか?
まったく偶然的にたまたま選ぶのでしょうか、それとも、なにかによって価値のある選択を促されるのでしょうか?
この問いに答えるためには、リヴァイや調査兵団の理想を、かれの育ての親、ケニー・アッカーマンの「夢」と比較してみることが有益でしょう。
ケニーの虚無感と「夢」
リヴァイの理想主義的側面は、彼の育ての親たるケニー・アッカーマンが率いた対人立体機動部隊との対比において、鮮明となります。
ケニーとその部下たちが体現したのは、世界は無意味で不条理なのだから自分が善いと信じたいものを追求すればいいという、価値相対主義的なニヒリストの信念でした。
ケニーの部下たちがすれっからしのニヒリストだからこそケニーの夢に惹かれたということは、すでに論じたとおり(1.2.b)。
それだけではなく、彼らを惹きつけたケニーの夢そのものが、かれのニヒリスト的な達観に由来するものでした。
暴力において誰にも負けないことを信念の源としていた若かりし頃のケニーは、壁の王であり「始祖の巨人」をもつウーリ・レイスに敗北しました。
この敗北が、というよりは、圧倒的暴力で自分を屈服させておきながら、平伏して(アッカーマン一族迫害の)許しを乞うたウーリとの出会いが、ケニーの価値観の動揺をもたらします。
ウーリの友となったケニーは、圧倒的強者であるウーリが運命への受動的服従を説き、病に伏せるのを見て、自分には窺い知れない内面的な苦しみを抱えていることを察しました。
ウーリが世を去り、その力が王族の娘フリーダに継承されたことで、ケニーの心には、ウーリの力を自分が継いだらどういう心境に達するのか知りたい気持ちがこみ上げます。
こうしてケニーは「始祖の巨人」の力を奪うという「夢」を抱くに至ったのです(69話)。
この夢は、かつてのケニーの「強い者が正しい」という価値観が崩壊したあとの空虚を埋めるものです。
かれ自身が巨人の前には無力であっただけでなく、もっとも強大であるはずの「始祖」継承者ウーリですら無力であったと知って、ケニーは虚無感に襲われたことでしょう。
でも、ウーリはなにかを知っていた。そのなにかは次の継承者に引き継がれた。
その何かを自分自身の目で見ることで、ケニーは心の空虚をふたたび満たすことができると期待したのです。
いな、むしろケニーの虚無感は、かれの宿痾(しゅくあ)であったと言うべきかもしれません。
かれの価値判断の尺度は、若かりし頃から一貫して、それが「面白い」かどうかでした(65話)。
それを信じれば、ただ生きるのではなく、意味のある生を生きていると感じられるのではないかという期待が、ケニーを突き動かしてきたのです。
つまり、キルケゴールがいうところの、人間の生それ自体の「危険」すなわち生が無意味であると知ってしまうことが、もとよりケニーには耐えがたかったのです。
そんなケニーは死に際に、自分の「夢」がどこから出てきたのかを思い出しながら「みんな何かに酔っぱらってねぇと やってらんなかったんだ...」と達観しました。
これはつまり、何を求めるかはどうでもよい、人が生きるためには欲すべきもの、信じるべきものをもつことが必要なのだ、という教えです。
そしてケニーは、リヴァイにも問いを投げかけます。「お前〔を酔わせるもの〕は何だ!? 英雄〔としての名誉〕か!?」と(69話)。
つまり、かれはこう言いたいのです。
「お前の目指すものは俺とは違うようだが、でも本質的には俺と同じものを、つまり「何かに酔っぱらって」いる状態を欲しがっているのだろう?」と。
「お前もまた、自分が善いと信じたいものを求めているだけのニヒリストなのだろう?」と。
「真に崇高なこと」に誓って
しかしケニーは、この価値相対主義的ニヒリストは、ロッドからくすねた巨人化の薬をリヴァイに託して死にました(69話)。
この行為は、ケニーが自分の「夢」をリヴァイに託したことを表現しています。
しかしこの「夢」は、かれが憲兵団の部下たちに見せた「酔わせる」ための「夢」ではありません。
ケニーは「夢」がなければつまらないとニヒリスティックにうそぶきながらも、ウーリとの友好をつうじて、自分が真に欲すべきなにかがあることを、ばくぜんと感じ取っていました。
ついぞ自分自身では発見できなかった真に価値あるものを、かわりに見つけてほしいと、そういう意味での「夢」を、ケニーはリヴァイに託したように見えます。
つまり、ケニーもまたほんとうは、ニヒリズムの先にたどり着きたかったのです。
ケニーもまた実のところは、自分にとって意味があるだけではなく、ほんとうに意味があるものとは何なのかを知りたかったのです。
そして、ケニーに「夢」を託されたリヴァイは、真に価値があるとかれが信じるもののために、すなわち人類の解放という理想のために、戦いつづけてきた人物です。
リヴァイは「何が正しいかは分からない」と言いながら、壁の外にある「真の自由」をいつか人類は獲得できると信じて、戦いつづけてきたのです。
エレンの「地鳴らし」開始により壁外人類滅亡の瀬戸際となった段階においてすら、この理想をリヴァイはあきらめていません。
そのようなリヴァイの心情をよく表現しているのが、次の独白。
自分の役目はもう終わっているかもしれない。でも、かつて夢を語りあった古参の仲間たちと同じ眼をしたアルミンを、あの時エルヴィンの代わりに助けたことは後悔していない、という独白です(136話)。
何が本当に正しいかは分からないと認める冷徹さ。
自分の判断を絶対視しない謙虚さ。
そして「たえず決断を改める」ことのできる強さ。
こうした特徴をそなえたリヴァイの尋常ならざる精神力は、しかし一本のぶれない軸によって支えられいたのです。
――かれの心のもっとも奥深くから湧き上がる「夢」によって。
「自分にとって価値がある」だけではなく「真に価値がある」と信じられるような理想を追い求めるリヴァイ。
そんなかれは、キルケゴールのいう「誓約」を胸に抱いているといえるでしょう。
だからこそ、リヴァイは「真に偉大な崇高なこと」のために全力を尽くすと同時に、自分が「役に立たぬ下僕」かもしれないという不安のなかを生き抜くことができるのです。
よきこと、真に偉大な崇高なことは、ひとたびこれを見きわめた人に対して、いわば誓約をさせるのである。……善きことは人間を高めるとともに、謙虚にもする。すなわち、よきことは人間に全力をあげるように要求し、しかも人間が自分の持つすべてをつくして行動した場合でさえ、それでもなお、役に立たぬ下僕と名づける権能をその手許にとどめているのである。
キルケゴール 『四つの建徳的講話』
* 併せ読みがオススメ
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エレンの孤独な決断
ところで主人公エレン。かれはリヴァイの一番弟子といえる立場にいます。
リヴァイの部下たちはかれに絶大な信頼を寄せていましたが、しかしかれの自由観をよく理解していたとは言えません。
その点、エレンは挫折を繰り返しながらも、リヴァイの「選べ」をかれなりに深く理解するようになりました。
リヴァイの実存的な自由観にもっとも深く影響され、そのぶんだけリヴァイを(恐れつつも)リスペクトしていたのがエレンなのです。
だからエレンは、マーレで単独行動をはじめ、レベリオで民間人を踏みつぶしながら戦ったあと、合流したリヴァイに「地下街で腐るほど見てきたクソ野郎」 と同じツラしているぞと言われたときには、さすがにハッとさせられた様子でした。
なんだかんだエレンは、リヴァイにこう言われたのがショックだったろうと思います(105話)。
リヴァイは状況しだいでは拷問でも殺人でもちゅうちょなく実行する人物ではあれど、人を無差別に巻き添えにするような武力攻撃を実行することは「クソ野郎」の所業と感じずにいられない、ということがここで判明します。
おそらくかれは、たんに人を殺したことではなく、無差別に殺したこと、つまり「なにも知らない」者すら自分たちの目的のために巻き添えにしたということに、嫌悪を感じたのでしょう。
それを某ギャングのいう「吐き気をもよおす邪悪」と感じたのでしょう。
でも、ここはあえてエレンを擁護してみます。
というのも、エレンが壁外人類みなごろしという選択肢に至ったことは、エレンなりにリヴァイの教えを反すうしながら「自分で選ぶ」という倫理的態度を貫こうとした結果とも言えるからです。
エレンによるリヴァイへのリスペクトっぷりがもっとも明確に表れているのは、シガンシナ区での決戦後、フロックとの口論のシーン。
「アルミンではなくエルヴィン団長が生かされるべきだった」と、なかなか反論しがたい主張を突きつけられた、なじみの104期生一同。
みずから「フロックが正しい」と同意を表明するアルミンを、エレンはリヴァイそっくりの口ぶりで諭します(リヴァイ自身が柱の陰で聞いていますしね)。
「オレにはわからないな 正しい選択なんて」と。
「未来は誰にも分からないはずだ」と。
そしてアルミンの夢、すなわち「炎の水」や「氷の大地」や「砂の雪原」を見つけるという夢を思い出させ、アルミンの目をかすかに潤ませます。
そして「きっと壁の外には 自由が――」と言いかけた、そのとたん。
かれの脳裏には、犬に食い殺された父の妹の無残な姿がよぎります。
急に険しくなるエレンの表情(90話)。
壁の外に出たとしても、自由という報いは得られない。そのことをただ一人、巨人保有者間の記憶伝達によって、生々しく悟ってしまったエレン。
もはやかれは「自由」を、調査兵団の仲間たちが理想とするものと同じ「自由」としては共有できません。
したがってまた、かれのもっとも親しい仲間とすら共有できない不安に、エレンは独りで直面せざるをえないのです。
これ以降、調査兵団の決断を共有することは、エレンにとっては「臆病」を意味することになってしまいます。
つまり「壁の外には自由があるはず」という期待に固執することは、エレンにとってはどうしても「決断を改める」ことをしない「臆病」にしかならないのです。
でもそれでは、この期待を放棄するかわりに、どんな判断が導き出されるのか。
壁の外の敵は「全部殺す」べきという結論しかないのか。
美しい海に到達し、束の間の自由を享受する仲間たちは、エレンの問いかけの深刻さを推し測りえず、ただ戸惑うしかありません。
その後数年間、エレンは孤独のなかで「決断を改める」ことをめぐる内面的葛藤を経験します。
それでも結局、敵にみなごろしにされるか敵をみなごろしにするかの二者択一以外に、選択肢は見つからなかった。
だから、エレンは「悔いが残らない方を自分で選ぶ」しかなかったのです。
(「ニヒリズムと実存的自由」おわり)