進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

2.3.a 「特別なわたし」の自由またはファウスト的自由 (上) ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由

 

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ロマン主義と非モラリズム

アルミンはマキャベリストを目指しながら、エルヴィンはエゴイズムを貫きながら、二人とも根本的にはある種のロマン主義者であったという点から、考察を再開しましょう。 

かれらの行動原理には、二つの要素があります。

ひとつはロマン主義

もうひとつは非モラリズム(amoralism)。

ただしアルミンの場合、かれのロマン主義と非モラリズム(マキャベリズム)は外的な関係、すなわち目的と手段の関係にしかありません。

それにたいしてエルヴィンの場合、かれのロマン主義と非モラリズム(エゴイズム)とは内的な、切っても切れない関係にあったと言えます。

 

この点をふまえつつ、筆者は次のような仮説を立ててみようと思います。

実存主義とは、非モラリズムを通過した先においてしか到達できない、価値ある自由または倫理的自由を追い求めるロマン主義である、と。 

この構図によって『進撃』を読み解くことで、アルミンやエルヴィンが実演した自由の本質を見抜くことができるのではないかと考えます。

 

ファウスト的自我または「特別なわたし」

ロマン主義と非モラリズムの妖しい関係、ロマン主義者に対して非モラリズムが放つ誘惑の香りは、近代文学の古典的テーマと言えるでしょう。

ここで筆者が想定しているのは、ゲーテの『ファウスト』です。

生の有限性を嘆き、人間の生が経験しうる全てを知りたいがために悪魔メフィストフェレスと契約した、あのファウスト博士の物語です。

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ファウストが体現するのは、経験の名において、世界のすべてを支配するまで飽き足らない、ロマンティックかつエゴイスティックな自我です。

平凡な人間たちはおろか、学知を究め尽くしたエリートたちすら知らない、人間に到達可能なかぎりもっとも崇高な生の充実を体験すること。

そのような経験に、ファウストは激しく、狂おしく渇いています――そのために俗世の善悪を顧みず、一切のためらいもなく悪魔と契約するほどに。

かれに究極的な充実を味あわせようとしてメフィストフェレスが提供するのは、きわめて私的な愛の喜びと苦しみから(グレートヒェン)、古代ギリシアの神話的世界の追体験をへて、一国の主になることにいたるまで、多種多様で落差の激しいもろもろの経験です。

恋をすることや君主になること自体ではなく、それらにおいて得られる内的体験の強さや深さが、いやむしろ、その特別さ、その固有性、その単独性こそが、ファウストにとって重要なのです。

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悪魔との契約――フランツ・ジム(F. Simm)による『ファウスト』挿絵

 

このファウスト的自我、自己を「特別なわたし」として実現しようとする自我、極めつきのロマン主義者かつエゴイストであるような自我。

まさにエルヴィンの自我はこれと同じものであるとは言えないでしょうか。

ファウスト的自我とは、わたしだけに許された特別で崇高な瞬間を追い求めて、世にいう善悪から離れ、わたしにとっての善へとかならずや至るであろう道を孤独に歩みつづけていく、そのような旅人です。

旅人はかならずや苦難と挫折に直面することでしょう。

しかし、まさにそのような苦痛と絶望の体験は、究極的な自己充足に到達するために払わねばならない代償なのであって、むしろ旅人が目指す崇高な体験の構成要素をなしているのです。

 

ファウスト的自我のなり損ねとしてのキース

「特別なわたし」に到達するための苦難の旅として、自分自身を生きること。

このロマンティックな自我の旅の、なんと魅力的なことでしょう。

しかしこの魅力は、人を欺くものでもあります。「特別なわたし」になる素質のない者に、それがあると思い込ませてしまうかもしれないのです。

そう、調査兵団の指揮官エルヴィンの前任者であった、キース・シャーディスのように(71話)。

 

自分を「特別なわたし」と信じようとするキースの欲求は、当初は無自覚なものでしたが、壁の外からやってきた男、エレンの父グリシャ・イェーガーの一言をきっかけに、自覚的な信念へと押し上げられます。

巨人と戦う勇敢な調査兵団を、グリシャは「特別な」「選ばれし」者と呼んだのです。 

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71話「傍観者」

 

でも残念ながら、グリシャの言葉はキースを虚しい思い込みに誘うだけでした。

まあ、かれには素質がなかったですね。

比較的高い戦闘能力のほかに取りえがなかったことや、リーダーにふさわしい指導力や判断力を欠いていたことだけが問題ではありません。

キースは自己の特別さ、非凡さ、偉大さを信じているくせして、ふさわしい自己評価の尺度や指針をもたず、それをありきたりな世間の評判に委ねていたのです。

自分が高みに立っていると感じるために、キースは凡庸な俗人を見下すことしかできませんでした

真に特別な才能をもつ人間には、自己確認のために他人を見下す必要などないでしょう。エルヴィンがそんなことをしたでしょうか?

そのうえ、自分はいずれ名誉を手に入れるだろうという根拠に乏しい信念は、意中の女性(後にエレンを産んだカルラ)にモテたいという満たされない願望の、屈折した表現でもあったのです。うーん、この俗っぽさ。

ちょっとキースのダメダメっぷりには弁明の余地がありません。

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71話「傍観者」

 

そんなキースは挫折すべくして挫折します。

成果の上がらぬ遠征帰りに、自分の無根拠な虚栄心を呼び起こした男と結婚してしまった意中の女性が、赤ちゃん連れで現れて「死ぬまで続けるんですか?」なんて言葉をかけてきた日には、そりゃあ、涙目になって女性に「手当たり次第男に愛想を振りまき酒を注いで回るしか取り柄の無い者」なんて暴言でも吐いてなきゃ、風前の灯の自尊心を保てませんよ。

まあそのセリフで、自分の器の小ささをさらに際立たせてしまうのですけれど。

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71話「傍観者」

 

たしかにキースは、自由を渇望する勇敢な兵士でした。

たしかにキースは、自分の信念を実現しようとして命を懸けることができる人物でした。

でも、命を懸けること自体は、個人の非凡さや偉大さの証明ではありません。

むしろ死を恐れぬヒロイズムですら、ときとして自分をだます「ごまかし」になりうるのです。

 

若き日のサルトル、一介の文学者として名を挙げたばかりの時期にドイツとの戦争に駆り出されたサルトル、自己を一世紀遅れでこの世に生を享けたロマン主義文学者とみなすサルトルは、このことを鋭く洞察し、駐屯地でしたためた日記に書き残しました。

......ドラマの時が過ぎ去ってしまい、たえず死のことを考えながらみじめったらしく生きねばならなくなったとき、ヒロイズムの昂揚の一つ一つが結局のところ、自分を安心させるなんらかの無邪気な方法を隠しもつ、ごまかしとなるのだ。......戦争は存在の正当化として役立ちうる。戦争は「そこに在ること」(être-là 現存在)の重さを軽減し、その言い訳となるのだ。いまや、死もやはりその重さを軽減されるということがわかる。少しも正当化されることなくただ生きるだけ、ということはそれほど難しいのだ。

サルトル『奇妙な戦争』1939/11/30

わたしとは何の支えも後ろ盾もなくそこに在る実存でしかないことを、そのことが人生にもたらす重みを、勇敢さやヒロイズムは、かえって軽減してしまうのだとサルトルは見抜きました。

死の恐れすら自分を自分から遠ざけてしまうほどに、人が実存的自由を全面的に引き受けながら生きることは難しいのです。

 

「特別なわたし」から「人間賛歌ッ!!」へ

こんなにもダメダメっぷりが過ぎる元指揮官に、ハンジさんがマジギレするのも仕方がありません。

しかしエレンは、キースの痛い思い出話を聞いて、むしろ納得ができました。

巨人化という特別な能力をもつ自分は、しかし実際には「特別でもなんでも」なく、ただ「特別な父親の息子」だったにすぎない。

そのことが「はっきりわかってよかった」と、エレンは言います(71話)。

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71話「傍観者」

 

エレン自身も、巨人化の能力に開眼した当初は「オレって特別、畜群はオレの足をひっぱるな」的な、ニーチェ的超人風の慢心に半ば染まっていたのですが(1.1)、でもその慢心はレイス家騒動において、一度、決定的に打ち砕かれていたのでした(1.4.b)。

こうして、キースとは違って早いうちに欺瞞的な虚栄心から脱出できたエレン。

そんなかれにキースは、かつてカルラがかれに与えた祝福の言葉を伝えます。

特別じゃなきゃいけないんですか?
絶対に人から認められなければダメですか?

私はそうは思ってませんよ 少なくともこの子は...
偉大になんてならなくてもいい 人より優れていなくたって...
だって... 見て下さいよ こんなにかわいい

だからこの子はもう偉いんです
この世界に 生まれて来てくれたんだから (71話)

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71話「傍観者」

  

こうしてエレンは、自分が特別でなくても、かけがえのない祝福された存在なのだと感じることができたのです。

生まれて来た時点で満点なんだよ~!

www.kadokawa.co.jp

 

カルラの祝福は、某ペンギンさんが現代人に与えてくれる、ストレスフルな日常を耐え忍ぶ自己肯定のための励ましとは、同じようでちょっと違うものです。

エレンにとって、母からの祝福は、それ以上のものでした。

それは、すべての人間がそれぞれに特別な存在であること、そしてそれこそが人間の自由の根本条件であることを、エレンに気づかせてくれたのです。

その証拠に、このエピソードを境に、あの常軌を逸したフリーダム・ファイターであるエレンは、急に少年漫画の主人公っぽいセリフをぽんぽん言い出すようになります。

だからオレ達は 自分にできることを何か見つけて

それを繋ぎ合わせて大きな力に変えることができる

人が人と違うのはきっと こういう時のためだったんだ (72話)   

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72話「奪還作戦の夜」

 

そして、以前にも引用した「人間賛歌は自由の賛歌ッ!!」ですね。 

オレにはできる ...イヤ オレ達ならできる
なぜならオレ達は 生まれた時から 皆 特別で 自由だからだ(73話)

こんな殊勝なセリフをエレンが吐けるようになったのは、母の祝福により、ファウスト的自我への執着から解き放たれたからです。

キースとは異なり、素質のない人間を騙し込むファウスト的自我への妄執から、エレンは手遅れになる前に脱却することができました。

しかしそれは、かれが一度は俗世のモラリズムに反抗し、そして「特別なわたし」という思い込みに身を浸してみなければ、決して到達しえなかった心境なのです。

 

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