進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

4.2.a われ選ぶ、ゆえにわれあり (上) ~ わたしの内なる声としての自由

 

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内面的自我とアイデンティティ

人間以外の動物は、自我という観念をもっていません。

もちろん、犬だって猫だってカモノハシだって自分の利益や安全を気づかいます。

でも、わたしはいま自分らしくないとか、自分を自分自身と感じられないとか、そういう感覚をもつ生き物は人間以外にいません。

つまり人間だけが、アイデンティティを持ったり見失ったりすることができるのです。

また同じように人間だけが、自由という概念をもち、自分のことを自由または不自由であると反省的に捉えることができるのです。

だとすれば、自我やアイデンティティというテーマもまた、自由の哲学的考察において扱ってみる必要があるでしょう。

 

もともとアイデンティティとは、アメリカの心理学者エリクソン(1902-94)が「アイデンティティの危機」という専門用語として使い始めたもの。

ところが、使い勝手がよかったのか、現代人の心に「刺さる」言葉選びだったためか、分野をこえて、文学やポップカルチャー等々にまで使われる流行語となったものです。 

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とはいえ、このブログは哲学解説ブログ。なので、このアイデンティティの概念もまた、哲学的考察に落とし込んでみましょう。

そのために以下では、自我(英:self、羅:ego、独:Ich、仏:moi)の哲学史を参照してみます。

 

自我とは何か。いわばそれは「わたしを見るわたし」です。

古代哲学と区別される近代哲学は、この「わたしを見るわたし」を、純粋に内面的な存在としてうち立てることから始まります。

内面的自我の最初の哲学的表現は、デカルト(1596-1650)の「われ思う、ゆえにわれあり」という格言によって与えられました。

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デカルトは、すべての存在の確実性を「方法的に」疑ってみることにしました。

目に見えるものが真実とはかぎらない。

地球が太陽のまわりを回っているのに人間の目には逆に見えるように、外的感覚はわたしを欺くかもしれない。

鮮明な夢を見ることがあるように、いまわたしは現実のなかにいるつもりでいて、じつは夢を見ているだけかもしれない。

でも、そう考えているわたしが存在することだけは、いっさいの疑いもさしはさめないほど、絶対に確実なことだと、デカルトは発見したのです。

......すべてを偽りと考えようとしているあいだも、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならないことに、わたしは気がついた。そして、この「われ思う、ゆえにわれあり」という真理は、まことに堅固かつ確実であり......これをわたしが求めていた哲学の第一原理として受け取れると判断した。

デカルト方法序説』第4部

www.iwanami.co.jp

 

この「考えるわたし」は、純粋に内面的な自我です。

外から入ってくる知覚は、存在するとはかぎりません。五感とともに快や不快といった印象を受け取る身体は、誤った知覚や混乱した情念をもつかもしれないからです。

でも、わたしの心、わたしの魂、わたしの精神、わたしの思考は、外からの要因なしに、わたしの意志のみによって、ひとりでに作動することができます。

だから、外から与えられる知覚がどれほど誤っていようとも、内面としての「わたし」だけは確実に存在しているデカルトは考えることができたのです。

こうしてデカルトは、人間の外面と内面のあいだに、生身の「わたし」と精神的な「わたし」とのあいだに、乗り越えがたい断絶を設けたのでした。

いわゆる「心身二元論」です。

 

もしデカルトのいうように、内面的な「わたし」が外面的な「わたし」とは区別されるのだとすれば、ひょっとしたら両者は、同じ「わたし」とはかぎらないのではないでしょうか?

内面的自我は、生身の「わたし」が自分の意志したとおりに手や足を動かすのを見るとき、これはわたしだと認めるでしょう。

でも、人間は複雑な生き物です。社会のなか、他人との関わりのなかでは、自分の思い通りに生きられないことが少なくありません。

そういう状況において、ひょっとしたら内なる「わたし」は、外面的な「わたし」が自分の意志のとおりに動いていないと感じるのではないでしょうか。

いわゆるアイデンティティの危機とは、哲学的にはそういう風に説明できそうです。

 

ユミルと離れたヒストリアは、まさにこういう状態に陥りました。

内面的な自我が動かしているはずの、外面的な、生身の「わたし」を、自分とは感じられなくなってしまったのです(54話)。 

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54話「反撃の場所」

 

アイデンティティと記憶

ではヒストリアとは何者か。クリスタをやっていたころは、かのじょは自分自身ではなかったのか。

これについては、次のような見解もありえます。

自分を誰と名乗ろうが、クリスタとヒストリアは同一人物である。

「あのころの自分はわたしじゃない」というのも、それを自分と同一人物だと認識しているからこそ言えることにすぎない。

 

ではそもそも、現在の自分と過去の自分とは、何をもって同一人物だと言えるのか

このように問うことは、決して無意味ではありません。

生物学的には同じ人間が、まったく違う人格に変貌してしまうことだってあるのですから――たとえば「戦士のライナー」と......

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42話「戦士」

 

......「兵士のライナー」みたいに。

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46話「開口」

 

上の疑問に答えを与えた哲学者は、ジョン・ロック(1632-1704) です。

時間をこえて、ある人格の同一性を担保するものを、ロックは「意識」に見出しました。

どんな場面においてであれ、ある者が自分自身と呼ぶものは、他人から見れば同一の人格であろう。......意識によってのみ、人格は現在の自己をこえて、過去のそれへと拡張される。

ロック『人間知性論』2.27.26

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これは平たく言うと、記憶が人格の同一性を作るという立場です。

10歳のころのわたしは、それを現在のわたしが自分自身として覚えているがゆえに、わたしと同一人物なのです。

とはいえ、酔っ払いが記憶をなくしている間にバカをやったからとしても「あれはわたしのせいじゃございやせん」と言い逃れはできないぞと、ロックは釘を刺しています。

物忘れとか、酔っぱらって記憶が飛んだとか、そういうささいな記憶の欠落は本質的なことではありません。

「わたし」の連続性を、時をこえて首尾一貫した自我を作り出すもの――それが記憶なのです。

 

思い出が「わたし」を作る。

「さよならを言うあたし」こそが自分である。

スタンド能力で作り出された某知的生命体は、まさにロックの人格=記憶説によって自分のアイデンティティを確認したのでした。

(遅いけど、祝・第6部アニメ放映決定!)

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二人の人間が合成されて、どちらの記憶も断片的にしかもたない、新しい人格ができたよ! なんて話もジョジョにはありますけど。

これもまあ、人格=記憶説を外れてはいないですが。

books.shueisha.co.jp

 

ロックの説でいけば、自分を見失ったヒストリアは、クリスタをやっていたころの自分を覚えているのだから、どちらも同じ自分だと認めるべきなのです。

マーレの「戦士」に戻ったライナーだって、壁内人類の「兵士」に人格分裂したころの自分を覚えていたのだから、ライナーはどちらも自分として受け入れねばならないのです(かれは受け止めきれずに自殺を試みたこともあったけど)。

 

他方、作中で人格=記憶説を模範的に示しているのは、やはりユミルでしょうね。

かのじょは言います。「偶然にも第2の人生を」手に入れたが、それでも「元の名前」を名乗りつづけるのは「ユミルとして生まれたことを否定したら負け」だからだと(40話)。

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40話「ユミル」

 

え、『進撃』の世界では知性巨人をもつ者が前の保持者の記憶を引き継ぐけど、それはどうなるんだって?

アルミンがアニ大好きになっちゃったのは、かれが頭ベルトルトになっちゃったから?

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112話「無知」

 

エレンの記憶なんて、グリシャの記憶、エレン・クルーガーの記憶、フリーダの記憶、それに描かれてないけどタイバー家のそれも混ざっているし、さらには自分の「未来の記憶」や、別次元から誰かさん似のギークとゴスの面影まで入り込んできて、もうしっちゃかめっちゃか。

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120話「刹那」

 

それでも人格=記憶説は有効です。

だって、アルミンもエレンも、これは自分の記憶、これは別の人の記憶って、識別ができるのですから。

どれほど他人の記憶が自分の性格や言動に影響を及すのだとしても、人は生身の他人からだって影響を受けるのですから、それと本質的な違いはありません。

 

そうなると、ある人間が人格の同一性を失うのは、記憶によって過去と現在を結びつけることができないほどに精神そのものが錯乱してしまったとき――法的に責任能力を問えない「心神喪失」に陥ったとき――ということになるでしょう。

ニュータイプみたいに。

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こんな風に精神が決定的に壊れてしまわないかぎり、あなたはあなた以外の何物でもないのです。

ロックは「人格」を「法廷用語」と定義しました(ロック『人間知性論』2.27.26)。

かれのいう同一人格とは、みずからの行為に法的または道徳的な意味で責任を負えることと同義なのです。

 

「わたしはわたし」なんて思い込み?

でも、責任能力をもつ同一の人格としての「わたし」という観念は、ヒストリアのようにアイデンティティを見失った人の助けには、なりそうにありません。

内面の「わたし」は、生身の「わたし」を眺めて、こんなの自分じゃないと感じてしまう。

このギャップにそんなに苦しんでいるなら、いっそ「わたしはわたし」なんて思い込みなんだと割り切ってしまえばいいのでは?

つまり、ここでも「逆に考えるんだ理論」を使って、問題の立て方そのものを変えてしまえという試みもありうるわけです(0.8.a スピノザの自由観を参照)。

 

そのような自我へのアプローチもまた、もちろんすでに哲学者が試みています。

その哲学者は、こう教えます――逆に考えるんだ、アイデンティティなんてあげちゃっていいさと考えるんだ、つまり生身の「わたし」を統御する内面の「わたし」なんて存在しないと考えるんだ、と。

その哲学者によれば、われわれが自我と思い込んでいるものは、もとを辿れば、すべて外からやってきたもの、つまり感官に与えられた「知覚」の集まりでしかないのです。

自我とは「知覚の束」であると断じたのは、啓蒙時代の懐疑主義者ヒューム(1711-76)。

かれによれば、自我とは「想像を絶する速さでたがいに継起し、絶え間のない変化と動きのただなかにある、たがいに異なる諸知覚の束」にすぎないのです(ヒューム『人間本性論』1.4.6.4)。

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でもそうなると、人間のやることなすことすべて、外的感覚に対する受動的な反応にすぎないのでしょうか?

ヒューム自身が書いた立派な分厚い哲学書も、意識の外部に由来をもつ無数の「知覚」が「束」になって動き回った結果、出てきたにすぎないと言うのでしょうか?

ヒュームにいわせれば、そうなのです。かれは次のように主張します。

思考とは、人がみずから、自発的に、何の原因もなく開始しうる、内面的な活動だと哲学者たちは考えてきたけれど、そんなの嘘だと。

思考の材料となる「観念」ですら、外から与えられた「印象」の再現にすぎないのだからと。

 

それじゃあ、われわれが内面的な「意識」とか「自我」とか見なしているものは何なの?

ヒュームの答えは明瞭簡潔。

それは思い込みでしかないよ、とかれは教えます。

この言い方が気に入らないなら、あるいは心の習慣といえばいいよ、つまり人間の都合にあわせて作られた便宜的なものということだよ(意訳)、とかれは教えます。

そもそもヒュームに言わせれば、自然法則とか因果関係とかいわれているもの自体、人間精神の習慣がこしらえたものにすぎません。

観察や実験を繰り返して、だいたいのところ規則的に同じ結果が得られたと思ったとき、そこに因果法則が働いていると、人間が勝手に信じているにすぎないというのです。

科学的に確証された因果関係と呼ばれるものですら、本質的には経験則と、たとえば「コーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実じゃッ!」って言っているのと変わらないのだと、そうヒュームは見なすのです。

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変化する自分と揺るがぬ自分

だからといってヒュームは、因果とか自我とかいう概念を、無意味と断定したいわけではありません。

自然の因果法則なるものは、永遠普遍の真理としては通用しないだけで、その額面どおりに、つまり人間の都合にあわせて作られた便宜的なものとして扱うなら、それでいいのです。

同じように自我も、実体としては存在しないけれど、人間の主観を説明するための便宜的な用語でしかないと分かっていれば、使ったところで支障はないのです。

www.kinokuniya.co.jp

 

そういうわけで、あなたはヒュームにならって「わたしはわたし」なんて思い込みだよね、そのときそのときの意識状態を「わたし」と呼んでおけば都合がいいよね、と割り切ってしまうことができます。

そうすれば、前向きで健康的なメンタリティになれそうですね。

人生風まかせ、なるようになるさ、ケ・セラ・セラの風来坊の生き方です。

状況が変化するように自分も変化する、だからその都度その都度ちょっとずつ違っている自分をぜんぶ受け入れちゃえ! 変化する自分を楽しんじゃえ! みたいな。

 

でも、あなたが気まぐれな風に流されるどころではなくて、荒波のような運命に翻弄されているとしても、相変わらず、どんな自分でもバッチコイ! なんて言っていられるでしょうか?

それこそヒストリアの半生は、体制の都合で幼くして命すら奪われかねなかった、激動の人生です。

そんな人生ですら風来坊のようにひょうひょうと潜り抜けられる人がいるとすれば、むしろ人並外れたタフな精神の持ち主と呼ぶべきです。

 

つまり何が言いたいかというと、ヒュームの「アイデンティティなんてあげちゃっていいさ」説(自我=「知覚の束」説)を実践する者には、むしろ確固とした揺るがぬ意志揺るがぬ自分が必要なのではないかということです――その「自分」を何と呼ぶかはおくとして。

だとすれば、自分の意志が揺らぎまくっちゃっているような人、たとえばユミルを失った直後のヒストリアには、ヒュームの助言もまた役には立たないでしょう。

「胸張って」「元の名前を名乗って」生きろと、かのじょを励ましてくれたユミルなくして、ヒストリアはどうすれば「自分」を取り戻せるのでしょうか?

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40話「ユミル」

 

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