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unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com
外的感覚と内的感情
自分を見失ったヒストリア(ユミルとの別離直後の)に人生の指針を示してもらうため、デカルト、ロック、ヒュームという、三名もの大哲学者にご助言をいただいちゃいましたが、どうもうまくいきません。
デカルトいわく「われ思う、ゆえにわれあり」。
――でもヒストリアは、外的現実における生身の「わたし」が思考する「わたし」からかけ離れてしまっており、だから「われ思う」の教えでは自分を取り戻せません。
ロックによれば、あなたが誰かを教えるのはあなた自身の記憶である(人格=記憶説)。
――でもヒストリアは、記憶の混乱に陥っているわけではないのに、現在の自分を過去のいかなる時点の自分とも結びつけることができません。
ヒュームによれば、そもそも不動の「内なる自我」なんて存在しない(自我=「記憶の束」説)。
――でもヒストリアは、ヒュームのように割り切って、自己を不確かな存在として受け入れられるような精神状態にはありません。
さあ困った! 大哲学者たちの教えも、失意のヒストリアには響かない。
でも考えてみれば、それは仕方ありません。
ここまでに見た哲学者たちは、自我の問題を、意識(=内面の「わたし」)と感覚(=生身の「わたし」)との関係という構図において扱ってきました。
(ヒュームだけは、この構図を否定するために取り上げたという違いはありますが。)
この構図の問題は、感覚を外側からしか、生身の「わたし」をつうじてしか受け取れないこと、これです。
意識または内面的自我(ヒュームにおいては「知覚の束」)は、結局のところ、外部から与えられたものを処理するにすぎないのです。
あなたとは、外から与えられた意識なのである! ......と力説されても、失意のヒストリアに響いてこないのは当たり前の話ですね。
ヒストリアに必要なのは、自我が存在するかどうかではなく、とにかくもそこに在る自我を内側から規定するものは何かを示すことではないでしょうか。
それを示すことができるのは、すでに登場したルソーです(4.1 も参照)。
文明を批判し「自然に帰れ」と呼びかけたルソーは、生身の「わたし」が受け取る感覚とは別に、内面的自我に固有の感覚があると考えます。
感覚とは、受動的なもの、つまり外的な刺激に対する反応です。
ただし、デカルトらの構図においては、内面的自我は外からの刺激を間接的にしか、つまり身体的な五感をつうじてしか受け取りません。
ところがルソーによれば、外的感覚としての快苦、寒熱、明暗、軽重、等々のほかに、わたしの内面が直接に受け取る感覚すなわち感情があるのです。
つまりは「心で感じる」ってやつですね。そういう感情や感受性に哲学的根拠を与えようとしたのがルソーなのです。
かれは言います。あなたが心から感じることは「肉体とは別の根源」をもっているのだと。
空間は君をはかる尺度にはならない。……君の感情、君の欲求、君の不安、君の傲慢さでさえ、君がそこに繋がれていると感じている、その狭苦しい肉体とは別の根源をもっているのだ。
したがって、ルソーのいう「内なる声」「魂の声」とは、外的感覚が引き起こす情念とは区別された、内的感情のことを指します。
情念とは、たとえば殴られて痛かったとき、おのずと湧いてくる怒りです。
情念とは区別されるべき内的感情とは、なにか辛いことを経験するなり見聞きするなり思い出すなりしたときに、外的な痛みがないのに心が感じる痛みです。
ヒューム風にいえば、心の痛みなんて存在しない、外的な痛みを心のなかで再現したにすぎない、ということになるかもしれません。
しかしルソーにとっては、感情が身体感覚には還元されないこと、内的な由来をもちうること、それ自体が重要なのです。
だからわざわざ、かれは身体感覚に連動する情念から、内的感情を区別するのです。
内なる「わたし」と状況における「わたし」
ただし内的感情を、外部の環境や状況とはまったく無関係なものと誤解すべきではありません。
デカルトやロックは、泣いたり苦しんだりする生身の「わたし」の不確かさを克服するために、外的な存在から一枚の膜で隔てられた自我に、自己の確たる根拠を与えました。
そういう内的自我こそが、生身の「わたし」をコントロールするのです。
しかしルソーによれば、生身の「わたし」と同じように、内なる「わたし」もまた泣いたり苦しんだりします。
つまり内的自我は、外界に、具体的状況に、開かれているのです。
わたしがただ痛みというシグナルに反応して泣いているなら、それは生身の「わたし」が泣いているのでしょう。
わたしが悲しむべきことに直面して泣いているなら、それは内なる「わたし」が泣いているのでしょう。
つまり、こういうことです。
外的感覚そのものは、苦、明暗、寒熱、軽重、痛み、音、臭いなどの、抽象的なシグナルでしかありません。それを意識が情報処理するのです。
ところが内的感性には、外界のできごとが、具体的状況として与えられます――喜ばしいできごと、悲しいできごと、甘美なできごと、怒らずにはいられないできごと、恐ろしいできごと、共感できること、反感を覚えること、等々として。
こうして、内なる「わたし」とは状況のなかの「わたし」である、ということが判明します。
ヒストリアの「内なる声」とアイデンティティ
ヒストリアがアイデンティティを見失った件に、話を戻しましょう。
ユミルと一緒なら「どんな世界でも怖くない」(50話)と宣言した瞬間、ヒストリアは生身の個人としても、その内面においても、活力にあふれていました。
かのじょの内的感性が、ある状況によって、すなわち、かのじょを「胸張って生きろよ」と励ましつつユミルが自分の正体をさらけ出したことによって、揺さぶられたからです。
しかしこのとき、ヒストリアの自分自身に忠実であろうとする意欲は、ユミルが本当の自分をさらけ出したことへの反応として出てきたものです。
言い換えれば、ヒストリアの自己同一化は、半分はユミルへの同一化だったということ。
だからこそ、理由も分からないままユミルが去ってしまったことで、ヒストリアは自分自身を見失ってしまったのです。
こうなってしまっては、ヒストリアにかのじょが何者かを示すことは誰にもできません。
かのじょは他人の呼びかけに反応するのではなく、みずからの心の声を自分自身で聴き取るしかないのです。
内なる「わたし」を解き放ち、生身の「わたし」と一致させるしかないのです。
自分を見失った人に、自己解放なんて無理な話かもしれません。
でも、ある種の状況が、わたしの「内なる声」を増幅させたとすれば、どうでしょうか。
そういう状況においても、抗いがたい心の叫びに従うかどうかは、わたしの自由な選択に、もちろん委ねられています。
しかしながら、そうであればこそ、わたしは自己を必然的な存在として引き受けながら、かつ自由な存在としても確信することができるのです。
こうして、わたしはアイデンティティを獲得することができるでしょう。
ついにヒストリアがみずからの心の声を聴き取ったのは、父親ロッドの求めに応じて、かのじょが「始祖の巨人」を継承しようとしたときでした(66話)
この状況において、父の意向どおりにエレンを喰って「始祖」の継承者になるか、それを拒否するかは、究極的にはヒストリアの選択に委ねられていました。
前者を選択することで、かのじょは欲しつづけてきた他者の承認を、父親ロッドからの承認として得られたことでしょう。
しかし、かのじょの心は「拒否せよ」と叫びました。
父親を投げ飛ばし、「私は人類の敵」「最低最悪の超悪い子」と宣言するヒストリア。
この瞬間、この行為をもってヒストリアは、内面の「わたし」を生身の「わたし」と一致させることができたのです。
われ選ぶ、ゆえにわれあり
ほんとうの「わたし」とは、わたしの「内なる声」として、わたしの必然性として、状況のなかで浮かび上がってくるものである。
ほんとうの「わたし」とは、それにもかかわらず、わたしがそれを自由に選ぶことでしか成立しない。
このことは、実存主義の側においても説明する準備ができています。
サルトルばかりも飽きるので、ここらで別の実存主義者にも登場してもらいましょう。
精神病理の現象学的研究を突き詰めた結果、哲学者になったヤスパース(1883-1969)です。
ヤスパースは言います。自由とは、たんなる「恣意的」な、つまり気まぐれな選択とは違うのだと。
そうではなくて、自由とは「わたしはせざるをえない」という「必然性」のなかにあるのだと。
「わたしが選ぶ」という行為において、決断の意識は本来の自由と出会う。だとしても、この自由は恣意的選択のなかにあるのではなく......「わたしはせざるをえない」という意味で「わたしは欲する」と言われるところの、あの必然性のなかに存する。
ん? 実存主義者は、人間が偶然的存在であるという前提から出発するんじゃありませんでしたっけ?
そういうツッコミが出るかもしれませんが、ここでいう必然性とはそういうものではなく、状況依存的な必然性、つまり、この状況ではこうするのが正しいということを意味します。
ルソーのいう「内なる声」も、すなわち状況への反応としての心の叫びも、そういう状況依存的な必然性に含めていいでしょう。
さて、そのうえでヤスパースは続けます。
「そうせざるをえない」という心の叫びが、わたしにはどれほど必然的だと感じられるとしても、それを外的、客観的な意味で必然性たらしめるのは、わたしの自由な決断をつうじてでしかないのだと。
わたしは存在する、わたしはせざるをえない、わたしは欲する、わたしは選ぶ、などのすべての表現は、自由の表現として総括される。......決断なくしては選択なく、意志なくしては決断なく、必然なくしては意志なく、存在なくしては必然性もない。
わたしが決断するのは(偶然性)、わたしが「そうせざるをえない」からである(必然性)。
だがその一方で、わたしが「そうせざるをえない」のは(必然性)、わたしが存在するかぎりにおいてである(偶然性)。
つまり、わたしの存在の必然性は、わたしを自由な存在たらしめる決断または選択がなされたあとで、はじめて意味をもつのです。
このような過程として把握するかぎりで、わたしがみずからの「内なる声」に従うことは、わたしの自由の実現である、と述べることが可能になるのです。
デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言いました。
それをもじれば、実存主義の標語は「われ選ぶ、ゆえにわれあり」です。
「わたしが選択することによってわたしは存在するのであり、わたしが存在しないならわたしは選択しないのである」(ヤスパース『実存開明』第6章)。
そしてルソーの教えは、選ぶべき「われ」が何であるかの指針を与えてくれました。
すなわち、わたしが「内なる声」に従うことは選択であり、この選択をつうじてわたしはわたしになることができるのです。
心の叫びを「地鳴らし」として実現してしまったエレン
ルソーは言いました、あなたが心の叫びを聴き取ったなら「そうせざるをえない」はずだと。
ヤスパースは言いました、あなたが「そうせざるをえない」のは(必然性)、あなたが「存在する」からであり(偶然性)、したがって「そうせざるをえない」の実現はあなたの自由に属するのだと。
さて、この自由の価値を、どう見定めたものでしょうか。
「内なる声」が教えるのは、つねに善いことだとルソーは考えていました。
ヒストリアの自由、すなわち、みずからの心の叫びに従って「始祖」の継承を拒否したことについては、レイス家の思想がどんなものかを知っている読者としては「よかったね」と評価するのが穏当でしょう。
でも、同じように心の叫びに従った結果、人類の8割を踏みつぶしてしまった某主人公については、それを「よかったね」と褒める気になれるでしょうか?
それをかれは「何でかわかんねぇ」けど「どうしても」やりたかったというのです。
自由に生まれついた者として、そうするしかなかったというのです(139話)。
たしかにそれは、エレンの深い内面的葛藤の末に導き出された真剣な決断でありました。
虚栄心のような人為的な欲求や願望ではなく、純粋に自由でありたいという願望からなされた決断でした。
ただし、かれ自身の主観を尺度とすればエレンの選択は理解できるとしても、客観的にみてそれをどう評価できるかは別の話。
かれが自分のアイデンティティを貫くために踏みつぶされるなんて、不条理にも程があります。
したがって、人間の「内なる声」「自然の声」「心の叫び」は「つねに善である」というルソーの教えを、額面どおりに信用するのは難しいかもしれません。
しかし少なくともそれは、わたしが何者であるかを、わたしという存在の真実を、告げ知らせてくれることは間違いないでしょう。
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