進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

4.1 「お前... 胸張って生きろよ」 ~ わたしの内なる声としての自由

 

わたしは「何を」と、わたしは「誰か」

みなさんのおかげで筆者の自己満ブログにも訪問者がいてくれてありがとう!

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ほんとうは今ごろとっくにネタ切れのはずでしたが、なんだかダラダラ続いてしまいますね、このブログ。

年内に終わるかなあ? たぶん第5章が最後になりますが。

 

さて、第3章では「ほんとうのわたし」(実存主義の用語では本来性)と「普通の人間」というキーワードを使って、『進撃』の脇役たちが演じた自由のドラマを読み解きました。

この観点によれば、わたしが「ほんとうのわたし」として生きられるかどうかは、わたしは「何を」すべきかという問いに左右されます。

というのも、人間とは「状況内存在」であるから。つまり、本来のわたしに「こう生きるべき」と教える義務は、ただの「わたし自身」からではなく、つねに具体的な状況のなかに埋め込まれたわたしに与えられるからです。

このことをサルトルは、同時に「外からも内からもやってくる義務」と呼びました。

(ちなみにサルトルは前章では推しまくったので、本章では出しませんからご安心を。)

 

しかし「状況内存在」という観点においてはじゅうぶんに答えられない問題があります。

そもそも、わたしって誰? という問題です。

そもそも自分が誰だか分かっていないのに、自分が何をすべきかなんて、分かりっこありませんね。

要するに、アイデンティティの問題ですよ。

自分が「誰か」を見失っている人は、状況の内部で「何を」と自問し、本来の自己を選び取る、なんてことができる段階にありません。

いまここにいる自分を自分自身とは思えない、そういう内面的状態にある人間には、ほんとうの自分とか嘘の自分とか、そういう見分けがつかないでしょう。

それに対して、日常性のなかに安住する非本来的な実存には、自分を自分だと思えないという感覚はないでしょう。むしろ、他の誰とも違いのない平凡な人間としての生活に、それが自分らしいと満足しているはず。

だから、いわゆるアイデンティティの危機または喪失は、実存主義にいう非本来性とも、自己欺瞞とも、異なる経験として扱う必要があります。

 

『進撃』においてアイデンティティの危機に陥ったキャラといえば、クリスタ・レンズことヒストリア・レイスです。

かのじょは当初、別人を演じ、そのことを放棄したあとには、こんどは自分が誰だか分からなくなってしまいました。

自分を自分だと感じられない人は、自由とはいえません。

消極的意味では自由であることに変わりはないでしょうが、しかし積極的な自己決定としての自由を喪失しています(0.1, 0.2 参照)。

そして、自分を見失ったままでは、実存的な意味において自由を引き受けることも、すなわち状況のなかで「ほんとうのわたし」を選び取ることもできないでしょう。

そんなヒストリアに、ユミルは言いました。「お前... 胸張って生きろよ」と。

わたしが他の誰でもない自分自身を「胸張って生き」ることとしての自由――それが本章のテーマです。

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66話「願い」

 

「良い子」のクリスタ

訓練兵時代のヒストリアは、つねにクリスタを演じていました。

罰で走らされたうえ夕食抜きのサシャに、自分の夕食を分けてあげたクリスタ。

そこに突然、ユミルが現れて「お前...「いいこと」しようとしてるだろ?」とクリスタの動機を問いただします。

つまり、自分が得られる「達成感」や「高揚感」を目当てに、利他的にふるまっているのだろうというのです。

クリスタは自分の動機を反省させられます。

でも「役に立つ人間だと思われたいから... なのかな...?」と、はっきり答えを出せません(15話)。

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15話「個々」

 

この時期のクリスタほど、自己欺瞞な登場人物は作中にいません。

「役に立つ人間だと思われたい」は、ズバリかのじょ自身の動機を言い当てています。

でもかのじょは「なのかな...?」と、疑問の語尾を継ぎます。自分が気づいていることを、目の前の相手、ユミルに言わせようとしているわけです。

なぜか?

こうすることで、気づいてはいるけど知らないふりをしたい自分自身の動機を、他人の一意見に留めておくことができるからです。

こうしてクリスタは、ひきつづき自分自身を騙して、利他的にふるまう「良い子」のクリスタを演じ続けることができます。

(とはいえ、かのじょがそうせざるをえない重い事情、すなわちクリスタという別人格でしか生きることを許されなかったということは、のちに露わになるのですが。それとついでながら、かのじょが自己欺瞞とは区別されるべきアイデンティティの危機という状態に陥るのは、ユミルを失った後のことです。)

 

自己矛盾的な利己主義者ユミル

この出会いのエピソードには、もう一つの、より興味深い点があります。

サシャに貸しを作ってパシリにするため、かのじょを助けるとユミルが言い出したことです(15話)。

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15話「個々」

 

このふるまいが面白いのは、サシャを利用すること自体がユミルの目的ではないからです。

ある意味での模範をクリスタに示すことが、ここでのユミルの狙いだと解するべきでしょう。

クリスタの行為の動機をいわば書き換えるために、つまりかのじょに対して、お前は他人の評価に自分の利益を見出しているのだ、ならばもっと率直に、他人ではなく自分の手で利己心を満たすべきだと示すために、そうしたのです。

 

でもそうだとすると、ここでユミルは、自分ではなくクリスタのために利己的にふるまっている、ということになります。

次のような構図が見えてこないでしょうか。

クリスタは、他人に認められたいという承認願望のために、利他的な「良い子」のクリスタとしてふるまう。

ユミルは、クリスタが(承認願望を満たすためという意味で)利己的にふるまっていることを見抜き、それをかのじょに自覚させるために、わざと利己主義をひけらかし、クリスタの行為を意味づけなおそうとする

ところが皮肉なことに、ユミルが利己主義を自覚的に実践することは、クリスタのための、つまり利他的な目的のための行為になっている。

こうして見ると、このエピソードは、じつはユミルこそが誰かのために生きたいという願望を抱いていることを、それとなくほのめかしています。

 

その後もユミルは、クリスタのことになると、つねに言行不一致です。

「良い子のクリスタ」を貫くあまり調査兵団に入ってしまうかのじょに「よしとけ」とか言いながら、かくいう自分も調査兵団に加入するユミル(21話)。

まあかのじょは、いざというときには知性巨人になるという切り札をもっている分、クリスタよりは恐怖は少ないわけですが。

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21話「開門」

 

そして時間は前後しますが、訓練生時代、雪山でダズを助けたエピソード(40話)。

クリスタは自分が「良い子」として死んでみせるためにダズを「巻き添え」にしようとしているのだろうという、けっこう深めに心をえぐるセリフを、かのじょにユミルは囁きます。

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40話「ユミル」

 

これにしたって、クリスタを自滅的な承認願望から解放してやりたいがために、ユミルはわざわざかのじょに粘着したのです。

その証拠に、この話は結局、なぜ自分がクリスタに執着し、なぜかのじょのために行動しているのかという、ユミルの打ち明け話に移ってしまいます。

そのうえで、ユミルは最終的にダズを救い、そのことによってクリスタをも救ったのです。

しかも、巨人の力まで使って。一応、クリスタに正体がバレないようにやったわけですが、どう見ても不自然で、一体ユミルとは何者? という疑惑を生まざるをえないやりかたでした。

 

ユミルの言行不一致は、これもまた自己欺瞞と見なされるべきでしょうか?

たしかにユミルは、言っていることとやっていることがちぐはぐです。

でも、クリスタに対して自分の動機を隠そうとはしていても、ユミルが自分自身を偽っている印象は受けません。

むしろユミル自身、ほんとうの動機が分かっていない節があります。

そんなかのじょの口癖は「よくわからん」。

雪山のエピソードでも、巨人たちに追い詰められた塔の上でも言っていましたしね(どちらも40話)。

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40話「ユミル」

 

内なる自我、または自然本性としての良心

まるでユミルのなかには、みずからを利己主義者と認めている自分のほかに、もっと深いところにいて、かのじょを自分自身でも説明のつかない行動へと導く、もう一人の自分がいるかのようです。

他方のクリスタにおいても、クリスタとしての人格と、これによって塗りつぶそうとしている本来のかのじょの人格とが同居しているのですが、ユミルはそれとはちょっと違うように見えます。

かのじょの場合、自分のアイデンティティを見失っているわけでも、クリスタ(ヒストリア)のように別の人格を演じているわけでもないのに、時として、もう一人の自分に動かされたかのようにふるまうのです。

 

精神的病理のせいでそうしているわけではないでしょうから、無意識という概念をユミルに当てはめるのは適切ではありません。

むしろここでは、内なる自我という概念を採用してみましょう。

 

これから参照するのは、啓蒙思想の全盛期において文明を批判し「自然に帰れ」を唱えた哲学者、ジャン=ジャック・ルソー(1712-78)です。

近代的自我に文学的、哲学的な表現をはじめて与えた、最初のロマン主義と評されるルソーは、いくつかの著作で、内なる自我について語っています。

ここでは、かれの代表作である教育哲学の古典『エミール』より、かれがかつて実際に交流をもった司祭に仮託して書かれた「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白」を読んでみましょう。

 

ルソーは「助任司祭」の口をかりながら、人間の内面に語りかける「心」の声について、次のように述べます。

わたしは、自分がしたいと思っていることについて、自分の心に尋ねるだけでいい。わたしが善いと感じることは、すべて善いことなのだ。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

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ルソー『エミール』初版本

 

わたしの心が「善い」と感じることは、すべて善いことである。そう「助任司祭」(ルソー)は断言します。

え、それじゃあ、自分にとってよいことは何でもしていいの?

他人を押しのけてでも欲しいものがあれば、取ってもいいの?

たとえば、ゲーセンで遊ぶのが自分にとっていいことなら、カツアゲしてでもゲーセンで遊ぶ金を作るのもアリ?

 

もちろん、ルソーが言いたいのはそういうことではありません。

かれは内的に感じ取られる「善さ」を、たんなる外的感覚の「善さ」とは区別します。

心が感じたとおりにするとは、ありのまま、自然体の自分でいることだと、一般には思われているでしょう。

でもルソーにいわせれば、そのとき「自然」が「われわれの感官」つまり外的感覚に作用しているのか、それとも「われわれの心」に、つまり内的感性に働きかけているのかが問題なのです。

かれによれば、外的な快楽に導かれる者は、自然に、ありのままに生きているように見えて、実際には「自然に逆らっている」にすぎません。

それは、心に対して、内的感性に対して自然が「語りかける」ことと同じではないというのです。

われわれは自然の衝動に従っていると思っているが、実は自然に逆らっているにすぎない。自然がわれわれの感官に語りかけることには耳を傾けるが、われわれの心に語りかけることは無視しているのだ。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

 

このことを、ルソーは「良心」と「情念」の違いとして言い換えます。

つまり、心が「善い」と感じるままに生きるというのは、情念に駆られることではなく、良心に、みずからの内なる声に従うことであると、かれは考えるのです。

良心とは魂の声である。情念とは肉体の声である。......良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

 

「良心に従う」と聞くと、ハイデガーが論じた「良心の呼び声」も想起されるところ(2.5)。かれによれば良心とは、みずからに固有の存在可能性を自覚することです。

他方で、ルソーのいう良心とは、人間の自然本性を意味します。

良心は人間本性に属していると、かれは信じて疑いません。現実には良心のかけらも示さない人がいるとしても、それは習慣によって、文明によって、つまり人為的なものによって、自然が歪められ、良心が曇らされたせいなのです。

 

それゆえにルソーは、自由とは良心=自然本性に従うことであると考えます。

かれいわく「わたしにとって善いことを望まないでいる自由はない」。

むしろ「外部のなにものによっても決定されずにそれを望むこと」にこそ、人間の自由はあるというのです。

外的感覚の影響を退け、純粋に内面から湧きおこる意欲にのみ従うべし。

それがルソーの自由観――あのカントに「わたしはルソーから人間を尊敬することを学んだ」と言わしめ、かれに深い影響を与えた自由観――なのです(カントの自由観については 0.9.a を参照)。

 

ユミルとヒストリアの「内なる声」

自分のために生きるべきと称しながら「よくわからない」動機に駆られるユミル。

かのじょもまた、ルソーのいう「良心」あるいは「内なる声」「魂の声」に突き動かされているのではないでしょうか。

たしかにユミルは、サシャをパシリにしたり(16話)、教会で金品を拝借したり(40話)、といった小悪をはたらきます。それは「情念」「肉体の声」に従うユミルです。

それでは、ユミルが頼まれてもいないのにクリスタを気にかけ、かのじょに「胸張って生きろよ」と促すのも、自分の情念からなのでしょうか。

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40話「ユミル」

 

クリスタの動機、つまり自分の承認願望を満たすことは、情念に由来する動機です。

同様にユミルもまた、なにかしら自分の願望を満たすためにクリスタを助けていると言えるのかもしれません。

しかし、クリスタとユミルには大きな違いがあります。

クリスタがつねに承認願望のために行動しているのだとすれば、クリスタの目的とは、つまるところ自分なのです。

ユミルの場合、クリスタを気にかけることがかのじょ自身の満足にもなるのかもしれませんが、でもそれは副次的な満足にすぎません。

クリスタがどうなるかが、ユミルにとってはつねに重要なのです。

クリスタという他者が、ユミルにとってはつねに目的なのです。

他者の人間性を「つねに同時に目的として用い」よという、以前にも引用したカント先生の教えが(0.9.a)、ユミルには当てはまるわけです。

他者の人格にもそなわる人間性を、つねに同時に目的として用い、決してただの手段としてのみ用いることのないように行為せよ。

カント『人倫の形而上学の基礎づけ』 

 

クリスタのためにという目的を、ユミルは誰かに命令されたわけでもないのに、あたかもそれが自分の義務であるかのように追求しています。

何がユミルをそのように義務づけているのかは、もはや明らかです。

自分以外のなにかを目的にせよと教えるものを、良心と呼んではいけない理由などあるでしょうか?

 

ユミルの良心は、その知性巨人としての正体を見せつけられたクリスタの心を揺さぶり、かのじょを深く感化しました。

ついにクリスタは、押しつけられた人格を捨て、自分自身を生きる決意を表明します。自分の本名がヒストリアだと、ユミルに打ち明けたのです(41話)。

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41話「ヒストリア」

 

ついに呪縛から解き放たれた、内なる自我としてのヒストリア。

かのじょの安全のために何をすればいいか迷うユミルに、こんどはヒストリアが呼びかける番です。

誰かのためではなく「私達のために生きようよ!!」と(50話)。

こうして、ユミルの良心に呼び起こされたヒストリアの「内なる声」は、こだまのように、ユミルの心に反響したのでした。

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50話「叫び」

 

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