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村に取り残された少女への共感
サシャが自由人なようでいて、実は居心地悪さをこらえ、自分を押し殺しながら森の外の人間たちと接していたということは、すでに見ました。
時は移り、巨人が出現した村に取り残された少女(カヤ)を、サシャが助け出そうとする場面に戻ります(36話)。
奇妙にも、少女は窮地のなか、まるで焦りも恐怖も感じていません。
サシャが「もう大丈夫」と言えば「何が?」と聞き返し、馬が逃げたせいで慌てふためくサシャを見れば「何でそんなしゃべり方なの?」と尋ねるという、どうにも変な調子。
不意に少女は、事情を説明します。足の不自由な母親とともに、自分は隣人に置き去りにされたのだと。
だからもう何をしても無駄だと言わんばかりに。
どうやら、絶望と、差し迫る恐怖とに耐えきれずに、少女の心は、外界に対して自我を遮断することを選んでしまったようです。
そんな少女の精神状態がかいま見えた瞬間、サシャの脳裏には、ユミルとクリスタとの会話が蘇ります。
たしかにそれは、サシャ自身がいうように「取るに足らない」日常の思い出でしかありません。
でも、まさにその日常的なやりとりにこそ、自己を解き放つための気づきが含まれていたのです。だからその記憶は、サシャの心に留め置かれ、呼び起こされるのを待っていたのでしょう。
何がサシャに、この記憶を想起させたのか。
それはおそらく、サシャが少女を自分と重ね合わせたからではないでしょうか。
状況も要因もぜんぜん違うけれど、ある面において、サシャは少女に共感したはずです。
外界に取り残されたという点において。
そして、外界を恐れ、内なる自我を外界から守ろうとしている点において。
あわれみと共感
この共感こそ、ルソーのいう「あわれみ」に違いありません。
かれは言います。あわれみとは「同じように弱く、同じように不幸になりやすい存在」に対して、人が思わず抱いてしまう共感なのだと。
......あわれみは、われわれと同じように弱く、同じように不幸になりやすい存在にはふさわしい素質であり、......あらゆる熟考の習慣に先立つほど普遍的で有益な美徳、ときには獣さえその兆しを示すほどに自然な美徳である。
ルソー『人間不平等起源論』第1部
ルソーによれば、あわれみ、つまり他者への共感とは、自然の感情、自然の美徳、すなわち人間の自然本性に属する善さです。
たしかにそれは、文明社会が助長する、贅沢や名誉などを欲する人為的で不自然な情念によって、しばしば歪められています。
しかし、そういう人為的情念によって完全に支配されていないかぎり、他者への共感は、どんな人間の心にも自然に湧きおこる感情なのだと、ルソーは断言します。
サシャの「良心の声」と自己解放
少女を自分自身として見てしまった以上、サシャは「内なる声」を聴き取らずにはいられません。
自分自身としての少女を救わねばならないという意欲が、その心に湧きおこったはずです。
少女の自己喪失をみずからの苦しみとして感じる心の素地が、サシャにない訳はないでしょうから――泣きむせびながらも調査兵団入りを決意したかのじょには(21話を参照)。
だとすればサシャは、みずからの「内なる声」が命じるままに動くしかありません。
ユミルが言ったように、恐怖や居心地悪さをこらえて自我を押し殺さなくていいし、そしてクリスタが言ったように、他人との交わりを欲する自分を否定する必要もないのです。
ただ、少女を励まし、少女を救い、それによって自分自身を救えばいいのです。
良心とは魂の声である。情念とは肉体の声である。......良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない。
あらためて少女に「大丈夫だから」と言葉をかけるサシャ(36話)。
その声色には、もはや恐怖も、ぎこちない響きも含まれていません。
かのじょは続けます。
「この道を走って」「あなたを助けてくれる人は必ずいる」「会えるまで走って!」
外界への期待と信頼を、そして自分自身を取り戻せと、サシャは励ましを与えているのです――少女に、そして自分自身に。
弓矢を構えながら、サシャは生来なじんだ方言で、かのじょ自身の言葉で叫びます。
「走らんかい!!」
サシャの心からの叫びは、ついに少女の心に響きました。なにかが弾けたかのように、少女は駆け出したのです。
こうしてサシャは少女を、そして自分自身を解放したのでした。
ちょうど近くに駆けつけていたサシャの父親たちに助けられた少女は、涙を流し、自分を取り戻すことができています。
そして、父親にようやく「ただいま」と言うことができた、サシャ自身も。
当初、このエピソードでサシャは死ぬ予定だったそうですね。
作者の計画が変わってよかったです。その結果、サシャが等身大の自分を取り戻せたことが、ちゃんと描かれたのですから。
相変わらず組織の規律より食欲に忠実なかのじょですが(51話)、もうサシャの言動にぎこちなさはありません。
心の赴くままに、かのじょは敬語と方言を自然にスイッチしてしゃべるようになりました(たとえば67話とか)。
こうしてサシャは、情念の支配を、そしてアイデンティティの危機を克服し、内的感情を解き放つことができました。
すなわち、良心の声に従うことによって、かのじょは巨人への恐怖に打ち克つだけでなく、ついに本来的自己を獲得しえたのです。
ありのままの自分と、他者とともにありたい自分とを、かのじょは一つの自我に統合しえたのです。
サシャは「森を彷徨った」のか
しかし4年後、サシャは戦争のなかで命を落とします(105話)。
かのじょが本来性に達しえたことも、その良心が恐怖を克服できたことも、結局は、戦争という憎しみの応酬に身を投じ、自分自身をも滅ぼすためでしかなかったのでしょうか。
そう考えると、サシャの自己解放も良心も、無意味なこと、虚しいことに見えてくるかもしれません。
でも、そんなことはないのです。
サシャの生きざまは、そしてかのじょの良心は、きちんと意味を残したのですから。
サシャを森の外に出させた両親は、悲しみをこらえ、教訓を引き出します。
そのなかで娘が兵士として「他所(よそ)ん土地」で殺し合わねばならなかったこの世界こそが「巨大な森ん中」であり、娘は「森を彷徨った」結果、殺されたのだと。
だから「せめて子供達はこの森から出してやらんといかん」と。
かれらに復讐をやめるよう諭された元マーレ兵のニコロもまた、自分はサシャに救われたと、かのじょのおかげで本当の自分自身を知ることができたと言います(111話)。
そして、命の恩人であるサシャを「お姉ちゃん」と慕うカヤと、サシャを殺した当人であるガビ。
カヤは「お姉ちゃんみたいな人になりたい」という願望からガビとファルコを助けようとしますが(109話)、その「お姉ちゃん」を殺したのがガビだったと知ったときには、復讐に駆られるほどの怒りを抑えられませんでした(111話)。
でもそのガビに、あとでカヤは助けられます。
ジークの叫びにより現れた巨人(哀れにもナイルでしたが)に襲われ、絶体絶命のカヤ。その場に危険を顧みず飛び込んで、ガビはカヤを救ってみせたのでした。
そんなかのじょに、カヤは「お姉ちゃん」の面影を見ます(124話)。
他方のガビにだって、内面化したマーレの洗脳教育とは別に、サシャを恨む理由がありました。かのじょを気遣ってくれた門衛のおじさんたち(マーレ人)をサシャに射殺されたことです。
でもガビはパラディ島に渡り、そこで憎しみに眼が曇っていない人(カヤなど)や、憎しみの応酬を脱する道を探る人(サシャの両親)や、そして自分が他人にぶつけるのと同じ憎しみを鏡のように跳ね返してくる人(サシャの死の真相を知ったカヤ)に出会いました。
それがきっかけとなって、ガビは憎しみの本質に、そして自分自身の内なる「悪魔」に気づくことができたのです。
だからこそガビは、かつてのサシャと同じように、内なる「良心の声」に突き動かされて、巨人に襲われる少女を命がけで救うことができたのでした。
次のように結論づけられるでしょう。
サシャの解き放たれた自我、解き放たれた良心は、かのじょの死後も、敵味方の区別なく、さまざまな人間を感化し、かれら自身の内なる良心に働きかけたのだと。
たしかに父親が言ったように、サシャは兵士としては、憎しみあう人類の世界という「巨大な森ん中」を「彷徨った」のでしょう。
それでもサシャの魂、サシャの良心だけは、ルソーがいうように、決して道に迷うことなく、目指すべき場所に辿りつきました。
物語の結末においてサシャの魂は、生き残った調査兵団の仲間たちとともに、憎しみという「壁」の向こう側を見ることができたのです(139話)。
「良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない」
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