5.3.a 生まれないことが奴隷の幸福というジークの信念について (上) 〜 自由になることと人間であること
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よっしゃはじまったジョジョアニメ!
もちろん『進撃』アニメ続きも普通に楽しみ。もうすぐね。
反出生主義? 裏返しの優生思想?
いきなりなんですが、ちょっと過去記事の訂正をさせてください。
ジークについて、最初のほうの記事で、こう書きました。
「ジークの安楽死計画は、多くの読者に反出生主義だと勘違いされているようですが、むしろ「裏返しの優生思想」というべきでしょう」。
「エルディア人という「劣等人種」は生まれないほうがいい。この考えを、エルディア人である彼自身が実行に移す」。
「だとすれば、ジークの「安楽死計画」は「裏返しの優生思想」あるいは「裏返しのジェノサイド」と呼んだほうが正しいでしょう」。
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ジークの思想は反出生主義ではないと キッパリ言い切ったのに…… スマン ありゃ ウソだった
でも まあ あれはブログ開始直後で 解釈の方向性が固まっていなかった頃だから 良しとするって事でさ…… こらえてくれ
訂正したいのは、ジークを反出生主義者とみなすのが「勘違い」だと断言してしまったことです。
「裏返しの優生思想」というのは、当たっていると今でも思っています。
しかしながらジークの思想において、反出生主義と「裏返しの優生思想」は両立していると見たほうが正しいと、後で気づきました。
巨大樹の森でリヴァイに囚われた後、巨人保有者の身体再生能力に命運をかけた自爆攻撃を仕掛けようとするシーンで、次のようにジークは言っていました。
俺は… 救ってやったんだ
そいつらから生まれてくる子供の命を…
この… 残酷な世界から… (114話)
ここをちゃんと読まずに、かつての筆者は、ジークは反出生主義者ではないと断言してしまったのです。
ぱおん。
毒親育ちのジーク(0.4 参照)は、自分のことを、望んでもいないのに生を享け、親や「残酷な世界」に苦しめられた被害者と考えています。
したがって、ジークの共感の対象は子供です。
自分と同じように苦しむ子供を救いたい。
でも、この不条理な世界を、エルディア人の子供たちにとって苦しみのない世界へと変えることは不可能である。
だとすれば、無数の不幸な子供たちにとって最善の利益は、生まれないこと、これしかない。
ジークの生を呪われたものにしているのは、かれをエルディア復権派の道具にした毒親グリシャとダイナの、とくにグリシャにまつわる、忌まわしい記憶。
それにくわえて、マーレの一般市民からの迫害。
幼いころのジークの心にとくに深く刺さったのは、両親に水を浴びせののしった、あの清掃員の言葉でした。
「どうしたまた悪魔を産んだ!?」(114話)
かつてクサヴァーさんとの会話をきっかけに「安楽死」の可能性を思いついたとき、ジークはこの言葉を、あの清掃員の姿とともに脳裏に浮かべていたようです。
生まれないほうが幸せだった子供たち。
ならば、かれらがほんとうに生まれないようにすればいいのだ。
それは「始祖の巨人」の力で実現できる。
この思いつきを聞いて、クサヴァーさん自身も、みずからの生を呪わしく感じてきたのだと告白します。
こうして、見つけたばかりの使命に確信をもつジーク。
「世界の人々を巨人の恐怖から解放」するとともに「エルディア人を苦しみから解放」するのだと、かれは決意を固めました。
それをジークは、かれとクサヴァーさんが二人で考え出した「安楽死計画」と名づけます。
うん、こりゃもうバッチリ反出生主義ですね。
ただし、救済の対象が「子供」一般ではなく「エルディア人の子供たち」に限定されるという点においては、それは同時に、筆者が名づけたところの「裏返しの優生思想」でもあります。
たんにジークは、生まれること、生きることの価値を否定しているだけではありません。
滅ぼされるべき「悪魔の民」エルディア人という人種主義的な優生思想に、かれの魂は屈しているのです。
奴隷的なパターナリズム
エルディア人は奴隷として生まれるしかないと、ジークは諦めきっています。
マーレで生まれれば人種隔離と軍事利用の犠牲者であり、他の国でも例外なく迫害され、パラディ島に生まれても世界中の憎悪の標的としていつか滅ぼされる。
エルディア人に生まれることは、生来の奴隷として生まれること、消えない呪いを生まれながらにかけられること。
だとすれば、奴隷の幸福とは生まれないことしかありません。
過去記事(0.5 参照)で述べたとおり、反出生主義とは、いわば「裏返しの功利主義」。
一人でも多くの奴隷が生まれないようにすることが「最大多数の最大幸福」に貢献するのです。
やはり過去記事(0.5 参照)で述べたとおり、このことをジークは深く確信してしまったので、かれが救済の対象としているはずのエルディア人を殺すことに、ちゅうちょがありません。
大部分のエルディア人たちが生きたがっているとしても、ジークに言わせれば、生まれないのが「真の」解放であることを、かれらは知らないのです。
だから、当人たちの意志に関係なく、ジークはエルディア人を無価値と断定し、その生命を奪ってしまうのです。
これこそ最悪の保護者主義(パターナリズム)。
それは、何が幸福かを「知らない」と見なされた他人のために、他人に代わって決定し、それを他人に強制すること。
この強制が悪意よりも善意から、利己主義よりも利他主義から発するものだとしても、かえってそれゆえにこそ、パターナリズムは人間の自由を根本から否定するのです。
※ 併せ読みがオススメ
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みずからの生を呪いつづける、悲しい奴隷としてのジーク。
そのかれは同時に、どんな暴君よりも人間の生命と自由を軽んじる、最悪のパターナリストでもあるのです。
優生学的な反出生主義
奴隷的パターナリストとしてのジーク。
このような二面性をかれが帯びるのは、その思想が、反出生主義かつ優生思想である(あるいは優生学的な反出生主義である)からに違いありません。
反出生主義者は、かならずしもパターナリストとはかぎりません。
言論のレベルで反出生主義を支持する人は、子を産むべきではないという考えを広めるだけであり、同意しない相手に反出生主義を実践せよと強要することはないでしょう。
それとは対照的に、優生思想とは、実践的思想または政策思想です。
つまり、劣った人間が生まれるのを阻止すべきという考え方です。
そのもっともマイルドなものは産児制限の奨励でしょうけど、しかし日本でも旧優生保護法のもとでおこなわれたように、それは強制不妊や強制中絶というかたちで実践されてきたもの。その極限が、ナチスのガス室です。
したがって、少しもパターナリズムを含まない優生思想なるものは、想定不可能です。
優生思想は、ある意味で、奴隷制よりも徹底的に人間性を否定するものです。
そのことをうまく説明してくれるのは「構造主義」の思想史家フーコー(1926-84)でしょう。
フーコーによれば、伝統的な身分社会における支配者は「死なせるか生きるままにしておくという古い権利」もつのに対して、近代国家の権力とは「生きさせるか死の中へ廃棄するという権力」であります(『知への意志』第5章)。
「生きるままにしておく」ではなく「生きさせる」というというのは、人間を有用な、役立つ存在として活用することを意味します。
古い権力者にとっては、臣民は、反抗せず、従順にしていればよく、そうしない反逆者を「死なせる」ときに権力をふるえばいい。
ところが近代国家は、国民を活用するため、かれらをより生産的にするために、社会生活のさまざまな方面において行政的な権力を行使します(経済、健康、出生、教育、等々)。
しかしその一方で、どうしても有効活用できない生命を、近代国家は「死の中へ廃棄する」のです。
つまり死刑であり、優生学的な「断種」です。
身分制権力と近代国家権力との区別はさておいて、この「死の中への廃棄」という発想は、ジークの考え方を克明に表現しているといえるでしょう。
エルディア人は生まれるべきではないとジークが信じるのは、かれがエルディア人への優生学的なまなざしを内面化してしまったからです。
だとすればジークが目指しているのは、子供がエルディア人として生まれないようにすることだけでなく、より積極的に、エルディア人を民族全体として「死の中へ廃棄する」ことではないでしょうか。
当の諸個人が自分をどう価値づけているかは関係ない。
かれら巨人に変身する民は「死の中へ廃棄」しなければならない。
このような信念から、ジークの奴隷的パターナリストという人物像が作り出されるのです。
ジークの奴隷的意識に弁証法が働かない理由
そんなジークの奴隷的意識のなかに、自由への欲求は、自己解放への希求は、生じてこないのでしょうか?
ちょっと前の記事で、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を紹介しました(5.1 を参照)。
ヘーゲルによれば「命をかけること」のできる自由な自己意識に対して、死を恐れる意識は奴隷として服従せざるをえない。
しかし奴隷は、労働をつうじて、みずからの自立性が客観化されるのを見ることができる。
だから「真に自立的意識であるのは奴隷の意識」であって、奴隷の「労働する意識は、自立的存在を自分自身として直観するに至る」というわけです(ヘーゲル『精神現象学』「自己意識の自立性と非自立性――主人と奴隷」)。
他方でジークは、計画を実現するために命をかけることができます。
リヴァイに捕まったときには、かれは「クサヴァーさん見ててくれよ!!」と自爆攻撃を敢行したのでした(114話)。
だとすればジークは、ヘーゲル風にいえば、自分の命を投げだすことができる「自由な自己意識」ではないのか。
ところが、そうではないのです。
マーレのエルディア人として奴隷的境遇にあるというだけでなく、ジークはその精神そのものにおいて、その実存そのものにおいて奴隷なのです。
ジークが自分の生命を軽んじるのは、他人の生命を軽んじる理由と同じ。
かれが優生学的な反出生主義に染まり切っているからです。
だとすれば、ジークが命をかけることは、かれの意識が自由であることではなく、かれが自分を無価値と呪っていることをしか証明しません。
他方でジークは、ヘーゲルにおける奴隷のように、みずからの自立性を外界において客観的に実現することもできません。
かれは他人に奉仕するどころか、どんな暴君よりも最悪のパターナリストであり、なにか価値あるものを作り出すどころか、かれが無価値と見なした生命を滅ぼすばかりなのですから。
以上が、ジークの奴隷的意識には弁証法が働かないことの理由です。
優生学的な反出生主義に囚われつづけるかぎり、ジークはいつまでも奴隷的パターナリストでありつづけるでしょう。
ジークの魂が解放されるのは、民族的「安楽死」というかたちでエルディア人の否定=自己否定を達成するときのみです。
つまり皮肉にも、かれが自分の奴隷らしさを完全に実現するときだけなのです。
「道」でのエレンとの対決におけるジークの敗因も、かれが奴隷的パターナリズムを脱却できなかったことにあります。
始祖ユミルに対して、ジークは王としてふるまいました。
かれ自身の魂が奴隷的であるのに、終わりのない奴隷労働を課された始祖ユミルの苦しみを、ジークは理解できませんでした。
かのじょが「奴隷でも神でもなく人間」だと告げたエレンとは対照的に、この奴隷的パターナリストは、始祖ユミルに「俺の命令に従え!!」「今すぐやれ!!」と怒鳴りつけることしかできませんでした。
みずからを奴隷として完成させることが、真の自己解放である。
そのようなジークのニヒリスティックな信念を、自由になりたかった奴隷ユミルは、最終的には拒絶したのです。
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