0.3 積極的自由の光と影 ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』
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積極的自由の光と影
干渉されずに自己決定できる「権利」としての消極的自由にたいして、積極的自由とは、自己決定の「状態」に達することであり、そこには自由が人間を人間的たらしめる理想的な状態であるという含意もあります。
「人間賛歌は「自由」の賛歌ッ!!」
現代人は消極的自由の発想に慣れているが、しかし『進撃』のテーマは積極的自由ではないだろうか、というのが前回の話。
しかし、この自由観には光と影とがあります。
まずは光の部分から。
この自由は、個人の権利をこえた、人間の普遍的な目的として、崇高な光を放ちます。
ひとは、自分が人間らしくあるために、われ人間なりと証明するために、命をかけた闘争に挑むことすらあります。
ふたたび次のシーン。
ところで、記事 0.1 で述べたように、消極的自由の理念は、干渉や束縛がないことを重視する一方で、人間らしさを損なう状態、たとえば極度の貧困のせいで悲惨な生き方を強いられる問題については、無関心です。
しかし積極的自由の理念においては、たとえば貧困も問題となるのです。
貧しくても、人間らしく生きることはできる。口ではそう言えるでしょう。
でも、極度の貧困のなかでは、動物的な欲求を満たす以上の時間的および精神的な要求をもつことは難しい。
あるいは、貧しさをスティグマ化する風潮(貧しい家庭出身の子が学校で、身なりに目をつけられいじめをうける、みたいな)のなかで、周囲の否定的評価を内面化してしまうと、自己尊厳が、自己決定に耐えうる安定した精神が、育たないかもしれない。
だとすれば、だれもが自由であるためには、貧困や、貧しさを貶める文化を、改革しなければなりません。
こうして積極的自由は、自由を阻む状況を積極的・能動的に変えようとする態度を促す、理想あるいは希望となるのです。
しかしながら、人間らしくない状態とは何か?
これは観点によって、さまざまに解釈できてしまいます。
ふたたび引用すると、壁の中から出られなくても「メシ食って寝てりゃ生きていける」けど、それはエレンに言わせれば「まるで家畜」(1話「二千年後の君へ」)。
ここでエレンが言いたいことは、幸福に生きること自体の否定ではない。
自分たちが無慈悲な運命(壁外の巨人)に支配されているのに、そのことから目をそむけ、その日、その日の幸福に満足していることは、自由の放棄だ、という意味です。
ここでは、自由と運命の相克が問題となっていると見るべきでしょう。
運命への挑戦。これもまた、人間の自由を証明する崇高な闘いであります。
しかしながら運命とは、人間の意志には左右されないからこそ運命と呼ばれるのです。
どうすれば人間は運命から自由になれるのか?
積極的自由とマキャベリズム
ところで、運命に対する人間の自由を考えた思想家といえば、マキャヴェリ(1469-1527)です。
マキャベリズムといえば、目的のためには手段を選ばない冷酷無情な政治主義、といった意味あいが連想されるでしょう。
それは間違いではないのですが、しかしマキャヴェリの眼目がどこにあるかを理解しなければならない。
彼の『君主論』は、平和な時期に王冠を継いだ世襲の君主ではなく、イタリア戦争期の動乱のさなか、その権勢が不安定な国の玉座に就いた、新興の君主に捧げられたものでした。
新興の君主が、どうすれば荒れ狂う運命に対して権勢を維持し、その不可解な力から自由であることができるかを、マキャヴェリは説こうとしたのです。
この世の事柄は運命と神によって支配されているので、……世事には齷齪(あくせく)しても仕方なく、むしろ成行きに任せておいたほうが、判断としては良い……。
だがしかし、私たちの自由意志が消滅してしまわないように、私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が勝手に支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は、あるいはほぼそれぐらいまでの支配は、彼女が私たちに任せているのも真実である、と私は判断しておく。
わたしたちは自分の行為を、まあ半分くらいは支配できる。
じゃあ逆境のなかにある新興の君主は、どうしたらいいの?
答えは、あえて非人間的な手段を使う術を知れ、です。
......君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが必要である。
......君主は......可能なかぎり善から離れず、しかも必要とあれば断固として悪のなかにも入っていくすべを知らねばならない。
ここでマキャヴェリは「可能なかぎり善から離れず」と言います。
彼は善悪がどうでもいいと称するのではなく、人間的な手段ではうまくいかないときは、いつでも非人間的な手段にスイッチせよと主張しているのです。
君主あるいはその権勢=国家(lo stato)が、運命の支配に抗して、自由であるために。
こうして、正しい意味でのマキャベリズムは、自由は善悪に優先する目的だから、あえて悪をなせ、と人に命じるのです。
ここで問題となっているのもまた積極的自由です。つまり、自己支配の状態としての自由です。
ただしマキャベリズムにおいては、自由をめぐるジレンマが現れます。
目的は、人間を人間的たらしめる自由=自己支配の状態に達すること。
しかしそのための方法には、人間を野獣たらしめる非人間的手段さえもが含まれる。
運命に抗して、自由=人間的であるためには、状況次第で、人間性を捨てねばならない。
それがいやで、人間性を失いたくないというなら、状況次第では、人間らしい状態=自己支配としての自由を放棄することに甘んじるしかない。
自由と人間らしさが、いつのまにか両立しなくなるのです。
『進撃』のマキャベリストといえば ......
それでは、この正しい意味でのマキャベリズムを体現する、作中の登場人物とは誰か?
やはり、まずはアルミンを挙げるべきでしょうね。
何かを変えることのできる人間がいるとすれば
その人は きっと... 大事なものを捨てることができる人だ
化け物をも凌ぐ必要に迫られたのなら
人間性をも捨て去ることができる人のことだ
不可解な運命に抵抗する者は「化け物をも凌ぐ必要」に迫られて「人間性をも捨て去る」のだと、ここでアルミンは彼らの団長エルヴィンを擁護します。
正体不明の、巨人化能力をもつ壁内人類の敵(ここでは女型の巨人)を出し抜くため、団長は仲間の命をあえて危険に晒したのであり、それは正しいのだと、アルミンはジャンに説明します。
これ以上ないほど潔いマキャベリズム擁護。
この時以来、アルミンのロールモデルはエルヴィン団長になります。
正体を現したベルトルトに「ゲスミン」式精神攻撃を仕掛けるときも、彼が意識するのは片腕を失いながら指揮をとるエルヴィンの姿。
それでは、準主役であるアルミンがマキャベリストであるとすれば、『進撃の巨人』はマキャベリズムの書(マンガ)なのでしょうか?
マキャヴェリ的な自由を理想として掲げているのでしょうか?
筆者は、かならずしもそうではないと考えます。
作者・諌山は、マキャベリズムの「英雄的」側面のみならず、その暗い側面もまた、きちんと描き出しているからです。
この側面を体現するのは、やはり「イェーガー派」筆頭のフロックでしょうね。
エレンという「悪魔」にすべてを賭けたフロック。
故郷パラディ島が、敵対する全人類という「運命」から自由となるために、島外の人類(と島内の「不安の種」)をみなごろしにする計画を、ちゅうちょなく推進するフロック。
彼もまたマキャベリストで、しかも冷酷無情というイメージに非常にぴったりくるマキャベリストです。
そうだとすれば、なぜ同じマキャベリストであるアルミンとフロックが、正反対の道(地鳴らしを止めるか、地鳴らしで人類みなごろしか)を選んだのか?
選んだ目的が違うだけで、両者が体現する自由は同じものでしかないのか?
この点は、そのうち、独立の記事を立てて考察してみることにします。このブログがそんなに長く続くかは知りませんが。
ついでながら、アルミンのロールモデルである、エルヴィン。
そして、フロックがその暗い希望を託した、エレン。
実は、彼らはどちらも、マキャベリストではありません。
彼らの行いを、自由と人間性とは両立しないという命題の根拠と見なす、アルミンやフロックがマキャベリストであるにすぎないのです。
そのことも、そのうち論じたいなあ。でも、そんなに続くかなあ、このブログ。
閑話休題。積極的自由の「影」については、まだ語りつくされていないので、その話は次の投稿で。
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