2.2 エルヴィンがマキャベリストではない理由 ~ マキャベリズム・ロマン主義・実存的自由
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マキャベリストのようでマキャベリストではないエルヴィン
マキャベリスト・アルミンがロールモデルとする、調査兵団の指揮官エルヴィン・スミス。
記事 0.3 で予告しておきましたが、かれは実のところマキャベリストではありません。
正確に言えば、エルヴィンはマキャベリストとしてふるまうことができますが、しかしかれの行動原理はマキャベリズムとは違うものなのです。
そもそもエルヴィンをマキャベリストとして評価しているのはアルミンであって、他の兵士たちはもっとシンプルに、かれを類まれな才覚をもった、全幅の信頼を置くべき指導者として称えています。
「女型の巨人」捕獲作戦においてエレンやジャンは、作戦のために犠牲となった者の多さゆえに、エルヴィンはもっといい方法がとれたのではないかと疑いますが、作戦を知らずに危険に晒された当の上官たち、少なくともリヴァイ班の面々は、エルヴィンへの揺るがぬ信頼を表明しています(27話)。
あと一歩のところで女型に証拠隠滅を許してしまった(実は逃がしてしまった)調査兵団。
この一件でエルヴィンは、巨人化の初心者エレンを基準に敵の能力を推定していたことの誤りを認め、次のような教訓を引き出します。
「最善策にとどまっているようでは 到底 敵を上回ることはできない」。
「すべてを失う覚悟」で挑まなければ「人類は勝てない」(27話)。
決断の速さ、視野の広さ、そして冷徹さにおいて抜きんでたエルヴィンの判断力は、リヴァイ班のエルドらの型にはまった判断との対比において、際立たせられています。
再来襲する「女型」を前に、エルドは当初の判断を変えることなく、エレンの力に頼らずかれを逃がすことを「最善策」と称します。このシーン、かれらの有能な指揮官の「最善策じゃーアカンわ」というセリフとの対比で、これじゃダメだ感が強調されすぎて、かわいそうなくらい(27話)。
それ以前にも、エルド、グンタ、オルオの、エレンが訓練中に巨人化に失敗したことにかえって安心している様子が、未知の事態にたいするかれらの臆病さを示していました(25話)。
かれら先輩兵士は、その戦闘能力の優秀さにもかかわらず、未知のものごとや経験則をこえる事態には、型にはまった対処や保守的な反応しかできないのです。そのことが災いして、かれらはみな「女型」に殺されてしまいました。
まさにマキャヴェリが述べるとおり、運命の変化に応じて大胆になれない「慎重な者」たちが破滅したのです。再び引用しましょう。
......慎重な者は、人が大胆にふるまうべき困難なときに、どうすればいいか分からずに破滅してしまう。だが、時宜を得て身の処し方を変えるなら、幸運が失われることはないだろう。
エルヴィンはといえば、かれは「女型」捕獲作戦の失敗から引き出した教訓を、その後、とんでもないやり方で実践に移しました。
ライナーたちにさらわれたエレンを奪還するため、自分たちをエサに引きつけた無垢の巨人たちを「鎧の巨人」にぶつけるという、クレイジーきわまりない作戦を、即興的に実行したのです。
しかも、突撃する一団の戦闘に立つエルヴィン自身が、もっとも勇敢で向こう見ずであることを見せつけます。
かれは巨人に喰いつかれながらも「進め!!」と号令を発するのをやめず、ついには片腕を喰いちぎられながらもベルトルトに一太刀浴びせ、エレンを救出してしまいました。
「博打打ち」としてのエルヴィン
もはやエルヴィンの作戦は「目的のためには手段を選ぶな」とか「あえて悪をなせ」とか、そういう倫理的にどうこうの域をこえています。
敵の想像の上を行くために、どれほど常軌を逸したクレイジーな作戦を思いつくかが勝負なのです。
そんなかれの行動原理を、マキャベリズムと呼ぶことは適切でしょうか?
この問題に答えを出すためには、エルヴィンの卓越した指導力の本質に目を向ける必要があります。
すなわち、かれみずからそう称するところの「博打打ち」というエルヴィンの性分のことです。
エルヴィンが自他共に認める「博打打ち」であることは、王政との対決のなかで強調されます。かれのばくちの極めつけは、レイス家が真の王家であるという仮説にもとづくクーデター計画でした(55話)。
さらには、王政が自己保身のために人類を切り捨てるだろうことや、それを見て兵団組織は反旗を翻すだろうことを半ば予見、半ば期待して、ウォールローゼ崩壊の誤報を仕組むという、一世一代の大博打にエルヴィンは打って出たのです(61話)。
その類まれな頭脳を活用して、エルヴィンは乏しい状況証拠から導き出した仮説にもとづいて、次の判断、次の作戦を不断に導き出すことができます。
実際、王政編の「博打」だけでなく、前出のクレイジーな突撃作戦も、エレンをおとりにした知性巨人捕獲作戦も、それに失敗したあとアルミンの提案を採用してアニを捕えたこともすべて、エルヴィンにとっては一種の「賭け」でした。
仮説にじゅうぶんな裏づけがなくとも、エルヴィンは大胆に決断し、そしてほぼつねに狙いを達成してみせます。
かれの比類ない洞察力と判断力だけがなせる業なのでしょう。
調査兵団の兵士たちは、エルヴィンの指導力に全幅の信頼を置いています。
古参であればあるほど、かれを知れば知るほど、エルヴィンの指導力の本質が「博打」の才能であることに、仲間たちは気づくことでしょう。
それを分かったうえで、かれの並外れた才覚が勝ち札を引き当てることを信じて、兵士たちは自分でもすすんで賭け金をつぎこむのです。
そしてクーデターの成功に至り、ついには壁内人類全員が、立場に応じて程度の差はあれ、エルヴィンの壮大な「博打」に巻き込まれる運命となったのでした。
エゴイストとしてのエルヴィン
エルヴィンの「博打打ち」としての天性は、かれがマキャベリストというよりも、徹底的なエゴイストであることを証明しています。
アルミンによれば、エルヴィンは「100人の仲間の命」と「人類の命」の二者択一に国面すれば、ひるむことなく前者を「切り捨てる」ことができる、非情であるがゆえに有能であり人類に必要な指導者です(27話)。
しかしこの点では、アルミンの評価はとんだ見当違いを犯しているのです。
国家の安全とか「人類の命」とか、そういう高度な政治目的のために仲間の命を犠牲にできる非情さというのは、たしかにマキャベリスト的な非情さでしょう。
しかしエルヴィンの目的は、政治的な目的でも大義でもありません。
ただひたすらに、かれは自分自身の目的を果たすために、自分自身の正しさを証明するために、自分の命を含めたあらゆる犠牲を払う覚悟を決めているのです。
すなわち、壁内人類は記憶を改ざんされてしまったが、実は今も壁外には人類が生存しているという、幼き頃に父が語った仮説――それをかれが秘密にしなかったせいで父が王政に抹殺される事態を招いてしまった仮説――を証明するために。
要するに、エルヴィンはエゴイズムを貫こうとしているのです。
たしかにエルヴィンは、自分が「何百人」もの仲間を巨人に「食わせた」罪人だという自覚をもっています(51話、62話)。
このことは、かれが自覚的にマキャベリストとしてふるまっていることを示しているようにも見えます。
しかしそうではありません。
エルヴィンの判断は、大義のために仲間を犠牲にする判断ではなくて、自分自身の目的のために全額を投げ込む「博打」です。
そして、かれに従う調査兵団の全員が、不承不承に命令に従っているのではなく、かれの飛びぬけた博打の才能を信じて、エルヴィンの賭けに自分も乗っかっているのです。
いわば兵士ひとりひとりが、エルヴィンの賭け金に自分の命を上乗せして「ベット」を宣言していると言えましょう。
こうしてエルヴィンのエゴイズムは、むしろ調査兵団の結束力の要になっているのです。
ロマン主義的エゴイストとしてのエルヴィン
エルヴィンのエゴイスティックな本質を作中で言い当てたのは、兵団組織のトップにしてエルヴィンの同類、ザックレー総統(a.k.a. 美の巨人)でした(62話)。
クーデター実行直後、エルヴィンはザックレーに問いかけます。「なぜこちらの険しい道を選んだのですか?」と。
どれほど腐敗しきった王政といえども、その延命の「術(すべ)」によって人類の半分でも救えるなら人類絶滅よりはマシだから、やはり覆すべきではなかったかもしれない。
そう述べながらもエルヴィンは「人よりも... 人類が尊いのなら...」と、含みのあるひとことを付け加えます。
このへんですでに、同類ザックレーにはピピンときているのでしょうね。
エルヴィンとは「私と同様に人類の命運よりも個人を優先させる」奴なのだなと。
「人類」よりも「人」こそが尊いというかれらの考え方は、反功利主義として特徴づけることができます。
功利主義の哲学者ベンサム(1748-1832)は『統治論断片』で、政府の唯一の正当な目的とは「最大多数の最大幸福」であると述べました。
この有名なスローガンは、数量的に比較可能な個々人の利益の総和こそが、社会の利益であるという前提のうえに立てられています。
社会の利益とは何であろうか。それは社会を構成している個々の成員の利益の総計にほかならない。
エルヴィンやザックレーは、こういう考え方には反発しているようです。
エルヴィンという個が生き永らえ、任務をまっとうして名声を得ることと、何十万、何百万もの人間が死を免れることで得られる幸福とを比べれば、後者のほうが圧倒的に大きいことは言うまでもありません。
しかし、そういう数量的な比較では測れない、なにかもっと価値があると自分が信じるものを、エルヴィンやザックレーは目的としています。
では、功利主義に抗して、「最大多数の最大幸福」に反発して、エルヴィンが追求する価値とは何か。
それは前述のとおり、かれの父の仮説を証明することですが、それをエルヴィンは「夢」と呼びます(62話)。
こうして、無類の「博打打ち」エルヴィンの根っこにあるロマン主義が顔を覗かせます。
ただしエルヴィンの夢は、かれをロールモデルと仰ぐアルミンのそれのような、冒険者的な好奇心をくすぐる詩情あふれる夢ではありません。
人類はみずからの自由のはく奪について無知であったという、ある意味では救いようのない真理を証明することに、エルヴィンは執念を燃やしてきたのです。
この執念は、どこから来るのでしょうか。
おそらく、この真理を証明することは、エルヴィン・スミスという存在の唯一無二の価値を証明することに等しいという信念からでしょう。
エルヴィンの人生は、世界の真理というよりも、自分自身こそが「真理」であるということを証明するための、巡礼の旅なのです。
なんてエゴイスティックなけばけばしさに彩られていることでしょうか、エルヴィンのロマンティシズムは。
なんてロマンティックな甘美さを漂わせていることでしょうか、エルヴィンのエゴイズムは。
かれのような人物類型を、ロマン主義的エゴイストと呼ぶことにしてみましょう。
こういうタイプのキャラとして把握してみると、調査兵団団長エルヴィンって、ある別の有名なファンタジー作品の傭兵団長と、かぶって見えてこないでしょうか。
別作品ですが、たまには目線なしで生きましょう。
「生まれてしまったから しかたなくただ生きる......... そんな生き方オレには耐えられない」。
ダークファンタジー漫画の代名詞『ベルセルク』より、ごろつき傭兵団から出発して「自分の国」を手に入れるという壮大な夢を追う、ロマンティックで英雄的なエゴイスト、グリフィスです。
『進撃』の作者・諌山も『ベルセルク』には影響を受けたようですしね。
そして、もし調査兵団団長の「夢」と、鷹の団団長の「夢」とに似通った部分があるとすれば、両者が到達した結末を比べてみることにも、きっと意義があるでしょう。
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(追記)『ベルセルク』のグリフィスとの比較は、この記事でやりました。
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