3.9.b 「余計者」の自由、またはライナーの救済 (下) ~ 本来の自己を選ぶ自由
「上」からどうぞ。
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ライナーの自己欺瞞
みずからの意味ある死によって、罪悪感を埋め合わせたい。
そのような願望を、エレンが「地鳴らし」を開始したあとも、いまだライナーは実現できずにいます。
ジャンに自分の罪深さを告白してタコ殴りにしてもらったこと(127話)、イェーガー派の雷槍一斉射撃からアニを命がけでかばったこと(129話)、迫りくる「地鳴らし」を飛行艇の整備が済むまで食い止める役を買って出た(けど「ダメに決まってるだろ!!」と作者ハンジさんに止められた)こと(132話)。
どの行為にも、ライナーの動機が透けて見えないでしょうか――すすんで罰され、すすんで自己を犠牲にすることで、わずかでも罪悪感を軽減したいという動機が。
でも、この願望もまた、罪悪感からの一種の逃避であるように思えます。
サルトル風にいえば、ライナーは罪を受け入れてはいるけれど、罪を引き受けてはいないのではないでしょうか。
より正確には、ライナーは罪悪感から逃げているというよりも、罪を引き受けたかのように自分を偽っているのです。つまり自己欺瞞に陥っているのです。
ちょっとややこしいですが、考察してみましょう。
そもそもライナーが「罪びと」になったのは、かれが自分を「余計者」ではないと証明するためでした。
他方で、いまでは罪の埋め合わせをすることを、かれは自分の存在意義と見なしています。
でも、自分を「英雄」として証明したいという願いが罪の根源だと、ライナーがほんとうにそう認めているなら、意味のある死にざまなど求めず、まったく無意味に「余計者」として死ねばよいのです。
マーレに戻った後、戦果を挙げて「マーレへの忠誠を証明する」ことに努めなどせず、おとなしく「鎧の巨人」のはく奪を、つまり死を受け入れればよかったのです(94話を参照)。
まだ後輩の戦士候補生たちを見守らねばいけないなどと理由をつけずに、銃の引き金をひいて自殺していればよかったのです(97話を参照)。
しかしライナーは、いまだに意味のある死を、すなわち自分の存在意義の証明を求めて生きつづけています――それを罪滅ぼしだと信じて、罪悪感を軽減するために。
このこと自体、意味のある死にかたを欲すること自体が、自分に対する言い訳なのです。
ライナーがみずからの罪を、みずからの責任を、ほんとうの意味で引き受けるというならば、結局わたしは世界の「余計者」でしかなかったと、そうかれは自分に認めさせるしかないのです。
サルトルは言います。
自己弁明が成り立たない状況に、わたしはすすんで自分を追い込むべきだと。
わたしの「卑劣さ」や「愚かさ」や「嘘」について言い訳をせず、それらを「みずからの責任において引き受け」ねばならないと。
言い訳を拒み、みずからの自由を引き受けることによって、わたしはこの事態をわがものとする。......たんに言い訳が成り立たないと認めるだけでなく、それを欲することが重要だ。わたしの卑劣さのすべて、わたしの愚かなふるまいのすべて、わたしの嘘のすべて、それらすべてをわたしは、みずからの責任において引き受ける。
サルトル『奇妙な戦争』1939/12/7
ライナーについていえば、かれは死によって自分を意味づけようとするのではなく、罪深い「余計者」としての自分自身をごまかすことなく、無意味な人生を耐え忍ばねばならないのです。
タコ殴りにされたり、仲間の身代わりを買って出たりするにしても、罪悪感を軽減するための方便としてではなく、罪を引き受けようとする「余計者」の自由な選択として、そうしなければならないのです。
それだけが、あの「兄貴面」をしていたライナーが、自分自身に対してつけるべきオトシマエなのです。
訓練生時代、思うように成績が伸びずに「余計者」として終わることを恐れていたエレンに自分を重ね合わせ、白々しくも「やるべきことをやる」しかないだろうと励ましの言葉をかけていた、あの「卑劣」な嘘つき(97話)。
そういう嘘つきとしての自分を、その愚かさ、その罪を、ライナーは少しも割り引くことなく引き受けねばならないのです。
ふたりの「壁の中の少年」
とはいえ、エレンを止めるために調査兵団と合流したライナーは、しだいに自己欺瞞的ではなくなっていったように見えます。
つまり、逃れられない罪悪感を軽減するためではなく、ただただみずからの自由と責任において自分自身にオトシマエをつけるために、すべてを投げうってでもエレンを止める覚悟が固まっていったのです。
エレンとの対決に向かう飛行艇のなか、コニーが罪悪感を吐露する場面。
イェーガー派の一員として行く手を阻んだ友人たちを撃ち、切り刻んだことに苦しむコニーは、ライナーたちも「辛かったよな...」と尋ねました。
それに対してライナーは、自分の罪悪感は「残りの人類を救ったって」消えはしないだろうと応じます。だけど、それでも「まあ... せめて残りの人類を救おうぜ」というのです(133話)。
いまやライナーは自己欺瞞という手段に訴えることなく、本来の自分に向き合う心構えができています。
罪びととしての自己に、みずからの存在意義を証明するために望んで「卑劣」な「嘘つき」となった自己に向き合い、そのことの全責任を引き受ける心構えができています。
だから、たとえ罪悪感から解放されることがなかろうとも「せめて残りの人類を救おうぜ」という言葉が、ライナーの口から出てきたのです。
このように心の整理がついたのは、ライナーがエレンの言葉の意味をやっと理解できたことも関係しているでしょう。
きっかけを与えたのは、行く手を阻むイェーガー派との戦いをためらうコニーたちに、アニがかけた言葉。
「あんた達ならあの日... 壁を壊すことを選ばなかっただろうね 私達と違って...」
それを聞いたライナーは、エレンに「やっぱりオレは... お前と同じだ」と言われた理由に「そういうことか...」と気づいたのでした。
そのうえでライナーは、コニーたちに「戦わなくていい」と告げます(128話)。
エレンの考えが理解できてしまったものだから、逆にライナーは、自分が感じることをかれも感じているのではないかと推察もできるようになります。
みずからの自由と責任において開始したことについては、そのせいでどれほどの重荷を背負うことになっても、その重圧から自己を解放することはできないと、ライナーは熟知しています。
だからかれは、エレンもまた自分を重荷から解放することができずにいるだろうし、できることなら誰かに解放してもらいたいと思っているだろうと推測がつくのです(133話)。
では結局、どういう意味でライナーとエレンは「同じ」なのでしょうか。
ライナーやアニが究極的には自分の意志で壁内を攻撃したように、エレンもまた自分の意志で世界を滅ぼそうとしている――そういう意味だと読み取ることは難しくありません。
とはいえ、それはアニや亡きベルトルトについても当てはまること。それだけの意味で、エレンは自分とライナーを「同じ」と見たのでしょうか?
むしろ、この二人だけに共通する要素に目を向けるべきでしょう。
それは動機です。
「英雄になりたかった」「尊敬されたかった」というライナーの動機と、この世に「生まれてきてしまった」からというエレンの動機。
いずれも、自分が世界の「余計者」ではないことを証明したいという動機なのです。
エレンはライナーに再会する直前、ファルコとの会話において自分のことを、地獄の先にある「何か」を見るために、あえて「自分で自分の背中を押し」て地獄に踏み込んでいく者だと称していました(97話)。
そんなかれが、あのライナーの告白を聞いちゃったら、わーコイツ、オレとおんなじじゃん! ってなるよね。
自分は環境に強いられてではなく、自分の意志で壁内人類に地獄を見せたのだという、あの告白を聞けば。
※ 併せ読みがオススメ
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そもそも二人は、いずれも幼少期から、誰に教えられるともなく、自分の存在意義を発見したいという共通の願望を抱えていたのです。
そのことは「壁の中の少年」と題されたエピソードで、海を隔てて、どちらも壁の向こう側を見上げている、二人の少年の印象深い対比において示されています(94話)。
くわえて先に見た、訓練生時代にライナーがエレンに自分をダブらせたエピソードでも、この共通性は描写されていましたしね。
この共通性に、ライナーも思い至ったのでしょう。
自分もエレンも、自分自身の意志で、自分自身の動機から「地獄」に踏み入った。
地獄を見たからではなく、自分自身で「地獄」をはじめたからこそ、自分は自分をこれほどにも罪深く感じるのだ。
それほどの重荷をわざわざ引き受ける義理は、パラディ島生まれのコニーたちにはない。だから、かれらは「戦わなくていい」と、ライナーは言ったのでしょう。
しかしコニーたちはイェーガー派と戦うことを選び、同じ罪を背負ったのでした。
「余計者」の自由と救済
ただしエレンは、すでにライナーに再会した時点で、かれ自身やパラディ島が世界の「余計者」でしかないことを理解し、そういう「余計者」としての自由と責任をすっかり引き受けていたのでした。
他方で、罪悪感ゆえに意味ある死を欲していた頃のライナーは、いまだ「余計者」としての自分を受け入れる決意が固まっていなかったと言えます。
つまり、かれにはまだ、こう宣言する覚悟ができていなかったのです。
はじめから自分は「余計者」だったと。
あらかじめ与えられた存在意義など、自分にも誰にもないのだと。
だから、みずからの自由と責任で、そうあるべき自分を状況のなかに見つけ出し、それを引き受けるしかないのだと。
世界の「余計者」であるエレンが選んだ自由は、かれとパラディ島を除け者にした世界そのものを否定することでした。
同じく「余計者」であるライナーは、この極限状態にいたって、ついにみずからの自由と責任において、エレンを止めること、すなわち世界を救うことを選んだのでした。
期せずしてライナーは、幼きころに抱いた「夢」をふたたび追うことになったのです――「英雄になる」という夢を、そのために自分を「卑劣」な「嘘つき」に変えたところの夢を。
ただし、いま問題となっているのは、無邪気に夢を追うことではなく、愚かな夢を抱いた自己に対してオトシマエをつけることなのですが(このへん、終盤のアルミンともかぶりますね)。
※ 併せ読みがオススメ
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いまやライナーは一心不乱に、自分の役目を果たそうと努めます。
英雄になりたいからでも尊敬されたいからでも、自分が「余計者」でないと信じたいからでもなく、ただただ、自分が全責任をもって引き受けるべき役目として、エレンを止めようとするのです。
地獄につぐ地獄をへて、ついに「進撃の巨人」は歩みを止め、そしてすべての巨人が世界から消失しました(139話)。
「有機生物の起源」だかなんだかに巨人にさせられてしまった母親カリナを取り戻したライナーは、カリナに報告します。
「俺... もう... 鎧の巨人じゃないみたいなんだ...」
それをカリナは心から喜んでくれました。
かつては息子が「名誉マーレ人」であることを誇り、パラディ島への憎悪を深く内面化している様子だったカリナ(94話)。
しかし、人類がぎりぎりまで追い詰められたところで、息子を「復讐の道具」にしてきた自分の過ちをようやく認めることができたカリナ(134話)。
そんなかのじょの謝罪によって、ついにライナーは、世界に居場所をもつ「余計者」として自分を認めることができたでしょう。
それが存在してもいなくても世界は変わらないけれど、それでもやはり何ものにも代えがたい、代替不可能な存在としての「余計者」に、ライナーはなることができたのです。
かれは世界を救ったと同時に、期せずして、自分自身の救済をも獲得したのです。
こうして、ライナーは世界の英雄になりました。
幼少期に望んだ夢を、まったく想像だにしなかったかたちで、ライナーは実現してしまったのです。
でもかれは、自分が世界の「余計者」であることに、すでに納得がついています。
罪深いけれど、他の誰にも代えがたい「余計者」としての自分を、すでに引き受けることができています。
だからかれは素のライナーに、ヒストリアたんクンカクンカするキモいライナーに、戻ることができたのでした。
(「本来の自己を選ぶ自由」おわり)