進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

4.5.a ヒストリアの鏡 (上) ユミル ~ わたしの内なる声としての自由

 

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ヒストリアの鏡としてのユミル

前記事では、ユミルにとってヒストリアは過去の自分自身だったと指摘しました。

同じように、ヒストリアもまたユミルに自分自身を見出すようになります。

そもそもは、ユミルがヒストリアに過去の自分を投影しただけのはず。

しかしながら、そのことをユミルが雪山で白状した後には(40話参照)、ヒストリアもまたユミルに自分を投影するようになったのです。

 

ウォールローゼ内に巨人が出現、どこの壁が破られたのか調査に向かう途上のエピソードを見ましょう(37話)。

ヒストリアの身を案じるユミルに、ヒストリア(まだクリスタだけど)が尋ねます。

なぜ調査兵団入りを選んだのか? 自分が調査兵団入りを選んだからではないのか?

そもそも訓練兵の成績上位10番以内に自分が入ったのも、ユミルがなにか細工をしたから、憲兵団入りの権利を自分に渡そうとしたからに違いないが、なぜそこまでするのか?

返答に窮するユミル。でも、ヒストリアが「私の... 生まれた家と関係ある?」と推測を働かせてくれたおかげで、もっともらしい受け答えが見つかりました。

ユミルは言います。「ここにいるのは すべて自分のためなのだ」と。

これは自己欺瞞ではありません。このセリフは、ユミル自身にとっては真実です。ヒストリアにこだわる理由がかのじょにはあるのですから。

でもヒストリアに対しては、これはごまかしです。なにか利己的な動機をも自分はもっているのだとヒストリアには思わせようとしたのです。

ユミルの狙いは図に当たったようですが、むしろそれを聞いたヒストリアは「よかった」と安堵させられたのでした。

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37話「南西へ」

 

このエピソードには、読み流されがちながら、重要な意味が込められています。

かくいう筆者も、これを48話の伏線としか思っていませんでした。

(ユミルはヒストリアを壁外に連れていくことを納得させようとして、自分が助かるために壁内の重要人物ヒストリアを手土産に使うのだと、かのじょに嘘をつきました。これをヒストリアが信じてくれたのは、上の会話が効果を発揮したからだと解釈できます。)

でも再読してみて、それだけではないことに気づいたのです。

この会話は、訓練兵時代における雪山での会話の続きでもあるということに。

 

あの場面でユミルが述べたことについて、想起されるべき点は二つあります(40話)。

第一に、ヒストリアの境遇が自分のそれと似ているとユミルが告白したこと。

第二に、しかしながら両者の生き方は対極的であり、他人に認められることを求めているヒストリアとは反対に、自分は自分のためだけの生き方を貫いているのだとユミルが指摘したこと。

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40話「ユミル」

 

ヒストリアにとって、これらがどういう意味をもったかを考えてみましょう。

まず、自分と同じように、ユミルは生来、運命がもたらした重荷を背負わされているのだとヒストリアは知りました。

でもそれにもかかわらず、ヒストリアとは違って、ユミルは運命に対する自由を享受しているのです――ヒストリア自身が心の奥底では渇望しているであろう自由を。

だとすれば、この雪山での件以後、ヒストリアにとってのユミルの存在は、そうなりたい自分を、すなわち理想の自我を映し出す鏡となったはずです。

 

ユミルに同一化するヒストリア

前記事で見たように、ユミルにとってヒストリアは、否定されるべき過去の自分です。

いまやヒストリアもまた、ユミルに自分自身を見出しますが、ただしそれは理想の自分、そうありたい自分です。

似た者同士だけど、どこか食い違っている二人の関係。

 

この関係を念頭に置きつつ、壁の調査に向かう途上の会話に戻りましょう。

このときヒストリアの心のなかでは、ユミルの言動につねづね抱いていた困惑が大きく膨らんでいました。

自分のためだけに生きていると称するユミルが、なぜ身の危険も顧みず、いつもヒストリアのことを気にかけるのか。言っていることとやっていることが全然違います。

これはヒストリアには困ったことです。

もう一人の自分を、それも、運命に対する自由を謳歌する理想の自我を、せっかくユミルに見出せたと思っていたのに、実はそれとは違う行動原理がユミルを動かしているように見えるのですから。

「推しが解釈違いでツライ」状態を起こしているわけです、ヒストリアは、ユミルに対して。

 

ここではまだ、ヒストリアは自己欺瞞的です。

みずからの心の願望を、すなわち運命から解放されたいという渇望を、自分自身のものとして認めず、ユミルに投影しているからです。

とはいえ、こうしてユミルを鏡とすることによって、ヒストリアが自分自身を直視し、自己欺瞞から脱するための準備は整いつつあります。

 

※ 併せ読みがオススメ

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ついにヒストリアが自分を解き放ったのは、ユミルが無垢の巨人と戦うために巨人化したときです。

「顎」の能力があるとはいえ、多数の巨人に囲まれてしまい、窮地に陥るユミル。

それを見て、ヒストリアが突如、弾けたように叫びます。

そんなにかっこよく死にたいのかバカ!!

性根が腐り切っているのに今更天国に行けるとでも思ってるのか このアホが!!

自分のために生きろよ!!

こんな塔を守って死ぬくらいなら もう こんなもんぶっ壊せ!! (41話)

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41話「ヒストリア」

 

清々しいまでに口汚い罵詈雑言と、クレイジーな提案。それまでかのじょが演じてきた「クリスタ」には、まるで似つかわしくありません。

ユミルの「胸張って生きろよ」という言葉に呼応して、いまやヒストリアは心の声を、運命を恐れず自由に生きたいという願望を、解き放ったのです。

ヒストリアがユミルという他者に入れ込み、ユミルという他者に深く同一化していることは確かです。

でも、まさにこの同一化は、他者=ユミルという鏡に映った「ほんとうのわたし」を、ほかならぬ自分自身の姿として引き受けることを意味します。

そうしてヒストリアは「クリスタ」を演じる自己を放棄し、自分自身になったのです。

 

自我の鏡像的形成

自己の「鏡」としてのユミルへの同一化をつうじて、ヒストリア「ほんとうのわたし」を引き受けることができました。

この構図、人が他者を鏡として自我を作り出すという構図は、じつは普遍的なものです。

これを自我形成における「鏡像段階」として説明したのは、精神分析ラカン(1901-81)でした。

言うこと書くこと、すべてワケワカランとの定評のあるラカン先生ですが、比較的若いころ思いついた概念だからか、かれの「鏡像段階」の考察は、まだ分かりやすいほうなので取りあげてみましょう。

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ラカンのいう鏡像段階とは、他人が鏡の役割を果たすことによってのみ自我は作り出される、ということ。

人はみな赤ちゃんのころを思い出せませんので推論してみると(「わたし前世の記憶あるよ」とかいう話は、ここではやめときましょうね)、赤ちゃんの意識においては、どうやら自分と世界の境界線が不分明であるようです。

だから自分の足をつかんでムシャムシャしゃぶりついたりしちゃうわけですよね、赤ちゃんって。

それが自分の一部とは分からない、だってそもそも「自分」という観念がないから。

では、どうやって自我が幼児の意識に与えられるかというと、なんとなく自然にそうなるように見えるけど、じつは眼前に映る他人を鏡にして、外界から区別されるべき自分の身体の観念をしだいに形成していくのではないか。

かんたんに言えば、これが鏡像段階論です。

 

重要な点は、ラカンいわく「この形態〔他者が鏡となる構図〕が自我を、それが社会的に決定されるより前から、ただの個人にはいつまでも還元しえない虚像の系列のなかに位置づける」という点。

つまり、鏡の像がわたしの虚像でしかないように、わたしは「ほんとうのわたし」を、つねに他者の姿=「虚像」を介してしか認識しえないのです。

自己の発見とは、つねに他者を媒介してしか可能ではありません。

逆にいえば、他者との「同一化」は「ほんとうのわたし」を発見する機会となりうるのです。

 

さらにラカンは、自我の鏡像的形成を「弁証法的綜合」(弁証法とは「わたし」が「非わたし」を通じて作り出されるということね)とも呼びますが、しかしこの「綜合」はいつまでも完成に達することはない、とつけ加えてもいます。 

つまり、他者という鏡をつうじて自己を認識するプロセスは、幼児のうちに自我が形成されれば完了というものではなく、人生においてずっと続くのだというわけです。 

ラカン『エクリ 1』所収の「《わたし》の機能を形成するものとしての鏡像段階」を参照。)

 

鏡を失ったヒストリア

自我の鏡像的形成。

ヒストリアが本名を名乗るにいたる自己確認の過程に、この構図はぴったりきます。

そして逆に、ユミルとの別離によって、ヒストリアがアイデンティティの危機に陥ってしまったことも、それは説明してくれます。

 

ヒストリアが「ほんとうのわたし」を見るためには、ユミルという「鏡」が必要でした。他のどんな「鏡」でも、そうはいかなかったでしょう。

ユミルこそが「私も知らない本当の私を見てくれた」のだと、ヒストリアは述懐します。

ところが、おたがいの真の理解者になれたとヒストリアが思った矢先に、ユミルはまったく理解できない行動をとりました。自分の意志でベルトルトとライナーを助けにいき、そのまま戻らなかったのです。

ようやく見つけた「ほんとうのわたし」を、すなわちユミルという鏡に映る「わたし」の姿を、ユミル=鏡の喪失によって見失ってしまったヒストリア。

こうしてかのじょは、もはや「自分が何者なのか」すら分からなくなってしまったのです(54話)。

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54話「反撃の場所」

 

とはいえ、かのじょはクリスタを演じる自分に逆戻りしてしまったわけではありません。

エレンはかのじょに率直に伝えました。かつての「クリスタ」はどこか不自然だったけど、いまのヒストリアは「ただバカ正直な普通のヤツだ」し、そっちのほうがいいと(54話)。

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54話「反撃の場所」

 

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4.4.b 生まれ変わったユミルのアイデンティティと自由 (下) ~ わたしの内なる声としての自由

 

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ヒストリアという目的

ところがユミルはいつしか、自分自身とは異なる目的をもつようになりました。

由緒ある家系の「不貞の子」として生まれたのが災いして、別人として生きることを強いられ、訓練兵に追いやられた少女のことを耳にした日から。

すなわち、クリスタとして生きるヒストリアの存在を知った日から。

この少女を見つけだすために、ユミルはみずからも訓練兵に志願します――自覚的にではなかったとしても(40話)。

そして、すぐにそれらしき少女に、クリスタと名乗っていたヒストリアに目星をつけます(15話)。

ところが、あの話の少女とその訓練生とが同一人物であることを当人に確認したために、逆にユミルはヒストリアに問われます。

自分を探すためだけに、わざわざ訓練兵にまでなったのは、一体どうしてなのかと。

もしかして「私と友達になりたかったの?」と――自分の運命を知る理解者に出会えたことに喜びの表情を浮かべながら(40話)。

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40話「ユミル」

 

これをユミルはムキになって否定しました。

自分はお前とは違って自分のためだけに、変更できない「運命」なんてないと立証するためだけに生きているのだと、そうかのじょは称します。

でも、ここで正しいのはヒストリア。まちがいなくユミルの胸中には、自分に似た境遇をもつ少女と知り合いたいという欲求があったのです。

ただし、他人に強いられた役割を演じる少女としてのヒストリアは、捨て去った過去の自分自身をユミルに思い出させもします。

そんなヒストリアに、今のユミルが自分と同じであるとは思ってほしくないというのも、ユミルの正直な心境ではあるでしょう。

 

ともあれ、ユミルにとってのヒストリアは、他者であると同時に過去のユミル自身を体現しています。

その一方で現在のユミルは、無頼の自由を誇ってはいるものの、この自由の真価を、すなわち、そのために自由を役立てるべき目的を見出せていません。

そんなユミルの目に、過去の自分に等しいヒストリアが救われることが、真に価値のある目的として映るのは、ほとんど必然的といえるでしょう。

こうして「自分自身のためだけに」を準則とするユミルは、まさにこの準則にのっとって自分ならざるものを、すなわちヒストリアという他者を、究極目的として選び取ったのです――しかも、ほとんど無自覚に。

だから、ユミル自身が口ではどう言おうとも、ライナーが指摘したように、かのじょにとってヒストリアが「自分より大事な人間」になったというのは本当なのです(47話)。

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47話「子供達」

 

しかし、ヒストリアという他者=自己を目的としたユミルは、そのために何をすべきかを確信できません。

ライナーたちにエレンとさらわれたあと、かれらの目的をおおまかに察知したユミルは、ヒストリアを壁外に逃がすために、かれらとの取引に応じます――それが「顎の巨人」をもつ自分自身を犠牲にする選択であっても。

しかし、ヒストリアが自分を助けにきたことを知ると、ライナーたちに任せるよりは、かのじょを自分の手で連れ出したいと、そうして最期に一目でもかのじょに会いたいと、意志を変えます。

自分に有利な環境を活かしてライナーたちを脅し、我意を通したユミルは、ヒストリアを連れ去ることに成功しました(47話)。

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47話「子供達」

 

他者=自己から対等な友へ

一連のユミルの行動は、たしかに他者=自己としてのヒストリアの救済を目的としています。

しかしそれは、客体としての、生命体としてのかのじょを救うことではあっても、主体としての、実存としてのヒストリアを救うことに直結するかどうかは、定かではありません。

それをユミル自身も分かっていたでしょう。だからかのじょは、自分が助かるためにヒストリアを差し出すのだと嘘をつき、自分を救いたがっているヒストリアをうまく言いくるめようとしたのです(48話)。

しかし、ヒストリアの意志は、かのじょの願望は、ユミルに救ってもらうことではありません。

たがいを認め合う、唯一無二の、対等な友になることです。相棒ってやつですね。

コニーのツッコミで冷静になり、ユミルの真意を察したヒストリアは、ユミルに訴えかけました。

「人のために生きるのはやめよう」「私達のために生きようよ!!」と(50話)。

 

なんて美しい女性版バディ精神。

いまや「自分のために生きよう」は、言葉とは裏腹に、ヒストリアとユミルの両方にたいして「おまいう?」のセリフとなっています。

つまりそれは、相手の自由こそ自分の自由であると心から感じる二人が、自分ではなく相手を励まし、相手を力づけるために投げかける言葉なのです。

こうして、ヒストリアを目的として選んだユミルは、そのヒストリアにとっての目的となれたのでした。

ほんとうに価値のある自由は、かのじょ自身のいう「イカした人生」は、いまやユミルの手のなかにあります。

 

ところで話がそれますが、ヒストリアと巨人ユミルのコンビの絵って、なんかデジャヴュ(既視感)だよなあーと筆者は思っていたのですが......。

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50話「叫び」

 

......ふと思いつきました。デジャヴュの正体は、ジブリっぽさじゃないですかね。

え、それはない?

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ユミルが引き受けた「女神様」

ところがユミルは、自分を心から欲してくれたヒストリアとの別れを選びます。

ヒストリアに詫びの言葉を残して、ユミルはベルトルトとライナーを助けに行ってしまいました(50話)。

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50話「叫び」

 

ユミルがそうした理由は、作中の人物たちだけでなく、読者にも分かりにくい。

あとで当人は、ベルトルトとライナーには「私が馬鹿だから」とか、かれらを退かせるため「土産」になってやったとか、ベルトルトの「声が聞こえちまったから」とか、あれこれ口実をつけました(50話)。

言いたいことはなんとなく伝わりますが、ここでもユミルは自分自身の動機を言語化できていない感があります。深堀りしてみるしかないですね。

 

まず、なぜ心が通じ合ったヒストリアとの別離をユミルは選んだのか。

エレンが「叫び」の力を発動したのを見て、壁の中にも「未来がある」と知ったからではありません(50話)。それはヒストリアを壁外に連れ出さなくてもよい理由にすぎず、なぜユミルがヒストリアとともに壁内に戻らなかったのかを説明しません。

むしろ真の理由は、ユミルがヒストリアと真の友になったこと、つまり救ってやるべき過去の自分としてではなく、対等の友としてヒストリアを心から認めたことではないでしょうか。

 

ユミルのヒストリアに対する献身には、かのじょの良心が表れています。

でもそれは、自分を対等な友として認めてほしいというヒストリアの思惑とはズレていました。

すでに述べたとおり、ユミルはヒストリアをかのじょ自身としてではなく、救われるべき過去の自分として見ていたのです。

そうやって過去の自分を気にかけているあいだ、ユミルは現在の自分が空虚な自由しかもたないことを忘れていられたでしょう。

ところが、いまやヒストリアは自分自身の名で生きることを決意しました。

ユミルの良心に呼び覚まされ、いまや逆にユミルを「私達のために生きよう」と励ますほどに自己を確信するヒストリア。

もはやヒストリアは、過去のユミルではありません

偽りの「女神様」の役を忠実に演じながら人生を終えた名もない少女は、もうそこにはいないのです。

ならば、過去の自分に与えてやりたかったものをヒストリアに与えようとすることは、もう終わりにしなければならない――そのことをユミルは、ばくぜんとであれ悟ったはずです。

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50話「叫び」

 

もはやユミルの眼前には、現在の自分しかいません

無頼の自由を誇りながら、その自由を使ってどう生きるべきか、どんな「自分」で在るべきかを知らずにいる自分自身しか。

第二の人生を自分のために生きていると思い込みながら、それを運命への復讐として意味づけ、過去の自分への執着を捨てられずにいる自分自身しか。

だとすれば、いまこそユミルは、自分とは誰かを、いまここに存在する「わたし」とは何者なのかを、みずからの心に問わねばなりません。

いまこそユミルは、耳を傾けるしかないのです。

自分のためだけに生きたいと叫びながら、他人のために身を投げ出すことをも命じる、みずからの内なる声に。

救ってあげようとした過去の自分(ヒストリア)によって逆に呼び覚まされた、現在の「わたし」自身であるところの良心に。

 

このことから、なぜユミルがベルトルトたちを選んだのかという、もう一つの疑問についても説明がつきます。

ユミルの内なる良心は、ヒストリアだけでなく、誰であれ残酷な運命に苦しめられる人間に、共感を、あわれみを、あの「あらゆる熟考の習慣に先立つ」心の痛みを、感じずにはいられなかったのです(ルソー『人間不平等起源論』)。

かつての仲間に「裏切り者」と罵られるベルトルトに、かれの「誰か僕らを見つけてくれ...」という嘆きに、ユミルの心は共鳴せずにはいられなかったのです。

みずからの心が、内なる良心が命じることを、ユミルは実行するしかなかったのです。

自分がしたいと思っていることについて、わたしは自分の心に尋ねるだけでいい。わたしが善いと感じることは、すべて善いことなのだ。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

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48話「誰か」

 

ベルトルトたちに引き下がってもらえるよう、ヒストリアが壁内の安全が一時的にでも確保されるよう、自分をかれらの「土産」にしてやるのだとユミルはいいましたが、それも嘘ではないでしょう。

でも、そういう頭で考えた目的とは別にある、かのじょの内面そのものにかかわる実存的な理由を見落としてはなりません。

すなわち、ユミルは自分自身を解放したかったのです。

過去の自分ではなく、現在の自分を。

過去の自分に執着している「わたし」ではなく、自己の半身たるヒストリアが鏡のように映し出してみせた「ほんとうのわたし」を。

ユミルの「内なる声」は命じたのです。

過去に縛られたヒストリア=「わたし」はもう救われたのだから、こんどは現在を生きようとするヒストリアに応答するため、現在を生きるべき「わたし」自身を解き放ちなさいと。

だから、他者に共感する「ほんとうのわたし」に従いなさい、逃れがたい運命に苦しむベルトルトたちを助けなさいと。

 

こうしてユミルは、ようやく自分自身になれました。

いまや対等な友となったヒストリアに感化されて、ユミルは解き放たれ、現在を生きる「ほんとうの」自分自身になることを選んだのです――そのことが当のヒストリアには理解できなかったとしても。

そんな自分を、ユミルは冗談めかして「女神様」と呼びました。

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50話「叫び」

 

もちろん、ユミルがふたたび引き受けた「女神様」は、かつての偽りの超自然性、偽りの「女神様」ではありません。

みずからの心が善いと感じることだけをなす、それは人間としての、自然的良心としての「女神様」なのです。

「自分の心に尋ねるだけでいい。わたしが善いと感じることは、すべて善いことなのだ」

 

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4.4.a 生まれ変わったユミルのアイデンティティと自由 (上) ~ わたしの内なる声としての自由

 

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なぜユミルは「女神様」になってあげたのか

ユミルについては、すでにかなり考察が済んでいます。

利己主義者を自認するユミルは、じつは自己矛盾的な利己主義者である。

というのも、破滅的な承認願望をもつクリスタ(ヒストリア)に自由に生きるよう働きかけるために、ユミルはわざと利己主義をひけらかしているから。

つまり、ユミルのそれは他人のための利己主義と呼ぶべきである。

だとすれば、むしろユミルこそが誰かのために生きたいという願望を抱いているのではないか――ルソーのいう内的感性、内なる良心のレベルにおいて。

 

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残る問題は、ユミルの内的感性、ユミルの心からの願望が、なぜかのじょを最終的には自己犠牲の行為へと駆り立てたのかです。

しかも、かのじょが気にかけてきたヒストリアではなく、ベルトルトとライナーのためであるように見える自己犠牲の道を、ユミルは選んだのでした。

かのじょは自分の動機をうまく説明できませんし、後悔がないわけではないようですが、みずからの選択の結果を受け入れ、かつそれに一種の満足を感じてもいるようです。

女神様もそんなに悪い気分じゃないね」と、天を仰ぎながらユミルは言いました(50話)。

かのじょ自身が動機を説明してくれないとはいえ、この選択を単なる気まぐれと見なすべきではなさそうです。

それでは、なぜユミルは「女神様」になってあげたのでしょうか?

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50話「叫び」

 

「女神様」としてのユミル

作中の時系列順に進みましょう。

ユミルは「60年ぐらい」壁の外をさまよっていたというので(47話)、エレンたちより二世代くらい前の人間です。

かのじょはマーレ当局に「無垢の巨人」にされパラディ島に放たれたものの、約60年後、ライナーたちとともに壁を壊しに来たマルセルをたまたま喰い、かれの「顎の巨人」を継承したことで、第二の人生を得ることができました。

 

かつて作中用語でいう「楽園送り」にされた経緯は、ユミルがヒストリアに宛てた手紙でぼかして説明したにすぎませんが、おおよそ次のようなものだと推測できます(89話)。

当時、マーレのエルディア人社会には、始祖ユミルへの信仰心に目をつけて、新興宗教をはじめた男がいた。

崇拝の対象として、一人の名もない浮浪児を選び、かのじょにユミルという名を与え、始祖ユミルの生まれ変わりか何かに仕立て上げた。

マーレの奴隷化政策に苦しんでいたエルディア人たちのあいだで、この宗教活動はそれなりに規模を拡げられたが、当局に見つかれば弾圧は必至だった。

ついに当局に押し入られたさい、自分が責任をかぶろうとして、なおもユミルを演じつづけるユミル。

つまり、すでに約60年前に、かのじょには自己犠牲の道を選んだ経験があったのです。

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89話「会議」

 

ところがその甲斐もなく、ユミルと捕えられた信徒たちは、マーレ人に石を投げつけられながら市中を引き回されたあげく「楽園送り」にされてしまったのです。

この絶望的な経験から、ユミルは次のような教訓を引き出しました。

どうもこの世界ってのは

ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで

特に意味は無いらしい (89話)

またもやニヒリズム。でも、もうすこし深堀りしてみましょう。

 

なぜ女性的なものが崇拝対象にされるか

このニヒリスト的教訓は、かのじょが始祖ユミルの再来として崇拝された経験から、かのじょの言い方では「女神様」にされた経験から出てきたものです。

ここでの「女神」という役割は、ジェンダー的にどちらでもよい役割ではありません。

つまり、男性の神や、人格化されない神ではなく、女神であるべき必然性のある役割なのです。

もちろん始祖ユミルが女性だったからですが、ではその始祖が男性ではなく女性だったことの意味は? 

そんなの、作者がなんとなくか、自分の趣向に従ってそうしただけでしょう。

でも作者の意図はどうあれ、物語上の効果としては、始祖が女性であることは特別な意味を帯びています。

というのも、宇宙を支配する人知の及ばない超自然的な力を、男としての人間(英語でいう man, mankind)は、女性的なものとして表象し、崇拝し、恐怖してきたからです。

そういう現実の人間文化に含まれるジェンダー的非対称性が、本作におけるユミルのエピソードにも反映されているように見えます。

 

このテーマを扱うためには、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908-86)を参照しないわけにはいきません。

女性解放思想の古典『第二の性』の著者であるボーヴォワールは、かのじょもまた実存主義の文学者・哲学者であり、そしてサルトルとは思想家としても男女としても終生のパートナーでありました(女たらしのサルトルにはかなり振り回されましたし、のちには、かれに負けじとボーヴォワールも数人の男と恋仲になりますが、それでも二人の関係は終生続きます)。

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さてボーヴォワールは、実存としての人間という観点から、人類史上におけるジェンダーのさまざまな形態(性差の文化的意味づけの諸様式)を調べた結果、あることを発見します。

かのじょによれば、原始の男たちは、近代人のようなしかたで女性を従属はさせなかったにせよ、はじめから女性を「他者」として扱っていました。

他者というのは文字通り、男と「同類」ではないということ。

ただし、男が「われわれ」を、すなわち「人間的なもの」「人間の領域」を代表するのにたいして、女は人間的領域の外部を体現する存在だと、すなわち、その出産という能力において、あの人知の及ばない神秘的な力を、無から有を作り出す超自然的な力を分かちもつ存在だと見なされるのです。

大地、母、女神である女は、男にとって同類ではなかった。女の権能が確立されたのは、人間の領域とは別のところにおいてである。

ボーヴォワール第二の性 Ⅰ』第1巻第2部

honto.jp

 

それゆえに古代の男たちは、人間を圧倒する力としての自然(超自然的な力を秘めた自然)を崇めるのと同じしかたで、女性的なものを崇拝の対象としてきました。

ただしボーヴォワールが指摘するように、男たちが崇める「母なる女神」の「権力」は、女自身から出てくるものではなく「男の意識が形成する概念」の産物でしかないのです(同前)。

つまり、女性的なものが崇められ、尊敬されている場所において、むしろ生身の女は人間的なものから遠ざけられ、みずからを人間の代表と思い込む男が作り出した役割を、つまり平たくいえば男の妄想を、押しつけられているにすぎないのです。

 

女神にされた少女のアイデンティティ

ユミルに戻ると、この「男の意識が形成する概念」としての「女神」の役割を、かのじょは忠実に演じていました。

この役割をかのじょに与えた当の男が、あいつに騙されたと梯子を外してきたのに、それでもかのじょはユミルの役割に忠実でした。

人知を超えた、奇跡を体現する存在として、扱われてきたであろうユミル。

ところが実際には、超自然的な力どころか、人間の心に訴えかける力すら、その役割にはなかったのです。

むしろ弾圧後のユミルは、その存在自体が憎悪の対象となったのでした(89話)。

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89話「会議」

 

このユミルと名づけられた少女の眼に、世界が無意味なものと見えたのは当たり前です。

そもそも、この少女にとっては、生来の「わたし」そのものが無意味でした。つまり、かのじょは名前すら与えられていない浮浪児でした。

だから、少女のアイデンティティは、かのじょが自分を自分と認識するためのしるしは、ユミルという名にしか、男の妄想の産物でしかない奇跡をしるしづけるだけの記号にしかありませんでした。 

そして、このしるしが憎悪の標的に変わることで、少女のアイデンティティふたたび無となったのです。

 

のちにユミルは回想します。

そうして最初の人生を絶望のなかで終えるとき、かのじょは「心から願ったことがある」のだと。

「もし生まれ変わることができたなら... 今度は自分のためだけに生きたい」(40話)

そう願いながらかのじょは巨人にされたのですが、しかし数十年の時を経て、偶然にも人間の姿を取り戻したのでした。

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40話「ユミル」

 

しかしながら、こうして第二の人生を始めた少女にとって、そのために生きようとする「自分」とは何でしょうか。

かつて与えられたユミルという名は、もはや無以外のなにも意味しません。

みずからのしるしを失った少女は、何によって自分をしるしづければいいのでしょうか。

 

「生まれ変わった」ユミルの生きる目的

ユミルという名とともに与えられた、まったく無意味な「女神」という役割を、その短い生涯の最後に無意味だと悟った少女。

ところが数奇な運命によって、かのじょが最期の瞬間に抱いた願望を実現する機会が与えられます――もし「生まれ変わる」ことができたら「自分のためだけに」生きたいという願いを実現する機会が(40話)。

意識を取り戻したかのじょの眼前には「自由が広がって」いました(89話)。

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89話「会議」

 

ところが、こうして第二の人生を歩み出した少女は、かつての名を使いつづけます。

その理由を、ユミルは「私の人生の復讐」と言い表しました。

「この名前のままでイカした人生を送ってやる」ことによって「生まれ持った運命なんてねぇんだと立証してやる!!」のだと、そうユミルは意気込みます(40話)。

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40話「ユミル」

 

何に対する「復讐」なのかといえば、それは「無意味な世界」に対する「復讐」ということでしょう。

このユミルという名が無意味であれば、自分自身がそれに意味を与えればよい。

それがアイデンティティの空白をしか示していないのなら、この空白を自分の好きなもので満たせばよい。

こうしてユミルは、反ニヒリストとして、ひいては一種の実存主義者として、第二の人生を歩みはじめたのです。

 

とはいえ、孤独なユミルが訓練兵に志願するまでにどう生きてきたかは、ほとんど描写されていません。

壁内世界に忍び込んでからも、かのじょはずっと根無し草だったのでしょう。

生活の糧は盗んだりだまし取ったりすればいいし、そのせいで窮地に陥っても別の土地に逃げれば済むし、いざというときには巨人の力だって使えたのですから(むやみに巨人化して目立つ存在になることの危険は、もちろん理解していたでしょうけど)。

そういう無頼の生き方にも、ロマンティックな魅力はあります。

誰にも頼らず、誰にも縛られず、自分のためだけに生きる――人を惹きつけてやまない自由の、それは一つの極致です。

 

でも、そういう自由には欠けているものがあります。

それは目的です。たんなる生存をこえた人間的目的真に価値ある目的です。

無人島に漂流したロビンソン・クルーソーであれば、ただの生存ですら、人間らしく文化的に生きつづけるため、そしていつか故郷に帰るためといった、人間らしい目的のための活動であるでしょう。

それとは異なりユミルには、壁内世界に忍び込み、社会のなかに在るにもかかわらず、自分の生存のほかに、どんな目的も与えられていません。

 

どの程度ユミルが人と接してきたかは不明ですが、生存以外の特別な目的を他者との交流から得ることはなかったのでしょう。

その証拠にユミルは、調査兵団に入ったあとですら「よくわからん」が口癖でした。

つまり、自分の目的を語る言葉をもたないままでした。

あるいはむしろ、どんな目的が意識に与えられても、それをかのじょは「自分のため」としか表現することができなかったというべきでしょう(たとえば37話)。

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37話「南西へ」

 

ユミルという名のまま「イカした人生」を送ってやると、そう意気込むかのじょ。

しかしながら、いったい何を目指せば「イカした人生」を実現できるのか。

ユミルには皆目、その見当がつかないのです。

「人生の復讐」とは言いながらも、せっかく手に入れた第二の人生にふさわしい自分自身を、ユミルはいまだ獲得できていません。

 

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4.3.b 森を出たサシャのアイデンティティと自由 (下) ~ わたしの内なる声としての自由

 

「上」から読んでね!

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村に取り残された少女への共感

サシャが自由人なようでいて、実は居心地悪さをこらえ、自分を押し殺しながら森の外の人間たちと接していたということは、すでに見ました。

時は移り、巨人が出現した村に取り残された少女(カヤ)を、サシャが助け出そうとする場面に戻ります(36話)。

 

奇妙にも、少女は窮地のなか、まるで焦りも恐怖も感じていません。

サシャが「もう大丈夫」と言えば「何が?」と聞き返し、馬が逃げたせいで慌てふためくサシャを見れば「何でそんなしゃべり方なの?」と尋ねるという、どうにも変な調子。

不意に少女は、事情を説明します。足の不自由な母親とともに、自分は隣人に置き去りにされたのだと。

だからもう何をしても無駄だと言わんばかりに。

どうやら、絶望と、差し迫る恐怖とに耐えきれずに、少女の心は、外界に対して自我を遮断することを選んでしまったようです。

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36話「ただいま」

 

そんな少女の精神状態がかいま見えた瞬間、サシャの脳裏には、ユミルとクリスタとの会話が蘇ります。

たしかにそれは、サシャ自身がいうように「取るに足らない」日常の思い出でしかありません。

でも、まさにその日常的なやりとりにこそ、自己を解き放つための気づきが含まれていたのです。だからその記憶は、サシャの心に留め置かれ、呼び起こされるのを待っていたのでしょう。

 

何がサシャに、この記憶を想起させたのか。

それはおそらく、サシャが少女を自分と重ね合わせたからではないでしょうか。

状況も要因もぜんぜん違うけれど、ある面において、サシャは少女に共感したはずです。

外界に取り残されたという点において。

そして、外界を恐れ、内なる自我を外界から守ろうとしている点において。

 

あわれみと共感

この共感こそ、ルソーのいう「あわれみ」に違いありません。

かれは言います。あわれみとは「同じように弱く、同じように不幸になりやすい存在」に対して、人が思わず抱いてしまう共感なのだと。

......あわれみは、われわれと同じように弱く、同じように不幸になりやすい存在にはふさわしい素質であり、......あらゆる熟考の習慣に先立つほど普遍的で有益な美徳、ときには獣さえその兆しを示すほどに自然な美徳である。

ルソー『人間不平等起源論』第1部

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ルソー『人間不平等起源論』初版本

 

ルソーによれば、あわれみ、つまり他者への共感とは、自然の感情、自然の美徳、すなわち人間の自然本性に属する善さです。

たしかにそれは、文明社会が助長する、贅沢や名誉などを欲する人為的で不自然な情念によって、しばしば歪められています。

しかし、そういう人為的情念によって完全に支配されていないかぎり、他者への共感は、どんな人間の心にも自然に湧きおこる感情なのだと、ルソーは断言します。

honto.jp

 

サシャの「良心の声」と自己解放

少女を自分自身として見てしまった以上、サシャは「内なる声」を聴き取らずにはいられません。

自分自身としての少女を救わねばならないという意欲が、その心に湧きおこったはずです。

少女の自己喪失をみずからの苦しみとして感じる心の素地が、サシャにない訳はないでしょうから――泣きむせびながらも調査兵団入りを決意したかのじょには(21話を参照)。

だとすればサシャは、みずからの「内なる声」が命じるままに動くしかありません。

ユミルが言ったように、恐怖や居心地悪さをこらえて自我を押し殺さなくていいし、そしてクリスタが言ったように、他人との交わりを欲する自分を否定する必要もないのです。

ただ、少女を励まし、少女を救い、それによって自分自身を救えばいいのです。

良心とは魂の声である。情念とは肉体の声である。......良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

 

あらためて少女に「大丈夫だから」と言葉をかけるサシャ(36話)。

その声色には、もはや恐怖も、ぎこちない響きも含まれていません。

かのじょは続けます。

「この道を走って」「あなたを助けてくれる人は必ずいる」「会えるまで走って!」

外界への期待と信頼を、そして自分自身を取り戻せと、サシャは励ましを与えているのです――少女に、そして自分自身に

弓矢を構えながら、サシャは生来なじんだ方言で、かのじょ自身の言葉で叫びます。

「走らんかい!!」

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36話「ただいま」

 

サシャの心からの叫びは、ついに少女の心に響きました。なにかが弾けたかのように、少女は駆け出したのです。

こうしてサシャは少女を、そして自分自身を解放したのでした。

ちょうど近くに駆けつけていたサシャの父親たちに助けられた少女は、涙を流し、自分を取り戻すことができています。

そして、父親にようやく「ただいま」と言うことができた、サシャ自身も。

 

当初、このエピソードでサシャは死ぬ予定だったそうですね。

作者の計画が変わってよかったです。その結果、サシャが等身大の自分を取り戻せたことが、ちゃんと描かれたのですから。

相変わらず組織の規律より食欲に忠実なかのじょですが(51話)、もうサシャの言動にぎこちなさはありません。

心の赴くままに、かのじょは敬語と方言を自然にスイッチしてしゃべるようになりました(たとえば67話とか)。

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67話「オルブド区外壁」

 

こうしてサシャは、情念の支配を、そしてアイデンティティの危機を克服し、内的感情を解き放つことができました。

すなわち、良心の声に従うことによって、かのじょは巨人への恐怖に打ち克つだけでなく、ついに本来的自己を獲得しえたのです。

ありのままの自分と、他者とともにありたい自分とを、かのじょは一つの自我に統合しえたのです。

 

サシャは「森を彷徨った」のか

しかし4年後、サシャは戦争のなかで命を落とします(105話)。

かのじょが本来性に達しえたことも、その良心が恐怖を克服できたことも、結局は、戦争という憎しみの応酬に身を投じ、自分自身をも滅ぼすためでしかなかったのでしょうか。

そう考えると、サシャの自己解放も良心も、無意味なこと、虚しいことに見えてくるかもしれません。

でも、そんなことはないのです。

サシャの生きざまは、そしてかのじょの良心は、きちんと意味を残したのですから。

 

サシャを森の外に出させた両親は、悲しみをこらえ、教訓を引き出します。

そのなかで娘が兵士として「他所(よそ)ん土地」で殺し合わねばならなかったこの世界こそが「巨大な森ん中」であり、娘は「森を彷徨った」結果、殺されたのだと。

だから「せめて子供達はこの森から出してやらんといかん」と。

かれらに復讐をやめるよう諭された元マーレ兵のニコロもまた、自分はサシャに救われたと、かのじょのおかげで本当の自分自身を知ることができたと言います(111話)。

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111話「森の子ら」

 

そして、命の恩人であるサシャを「お姉ちゃん」と慕うカヤと、サシャを殺した当人であるガビ。

カヤは「お姉ちゃんみたいな人になりたい」という願望からガビとファルコを助けようとしますが(109話)、その「お姉ちゃん」を殺したのがガビだったと知ったときには、復讐に駆られるほどの怒りを抑えられませんでした(111話)。

でもそのガビに、あとでカヤは助けられます。

ジークの叫びにより現れた巨人(哀れにもナイルでしたが)に襲われ、絶体絶命のカヤ。その場に危険を顧みず飛び込んで、ガビはカヤを救ってみせたのでした。

そんなかのじょに、カヤは「お姉ちゃん」の面影を見ます(124話)。

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124話「氷解」

 

他方のガビにだって、内面化したマーレの洗脳教育とは別に、サシャを恨む理由がありました。かのじょを気遣ってくれた門衛のおじさんたち(マーレ人)をサシャに射殺されたことです。

でもガビはパラディ島に渡り、そこで憎しみに眼が曇っていない人(カヤなど)や、憎しみの応酬を脱する道を探る人(サシャの両親)や、そして自分が他人にぶつけるのと同じ憎しみを鏡のように跳ね返してくる人(サシャの死の真相を知ったカヤ)に出会いました。

それがきっかけとなって、ガビは憎しみの本質に、そして自分自身の内なる「悪魔」に気づくことができたのです。

だからこそガビは、かつてのサシャと同じように、内なる「良心の声」に突き動かされて、巨人に襲われる少女を命がけで救うことができたのでした。 

 

次のように結論づけられるでしょう。

サシャの解き放たれた自我、解き放たれた良心は、かのじょの死後も、敵味方の区別なく、さまざまな人間を感化し、かれら自身の内なる良心に働きかけたのだと。

たしかに父親が言ったように、サシャは兵士としては、憎しみあう人類の世界という「巨大な森ん中」を「彷徨った」のでしょう。

それでもサシャの、サシャの良心だけは、ルソーがいうように、決して道に迷うことなく、目指すべき場所に辿りつきました。

物語の結末においてサシャの魂は、生き残った調査兵団の仲間たちとともに、憎しみという「壁」の向こう側を見ることができたのです(139話)。

「良心に従う者は自然に従い、決して道に迷うことはない」

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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4.3.a 森を出たサシャのアイデンティティと自由 (上) ~ わたしの内なる声としての自由

 

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サシャの食欲と内なる感情

アイデンティティと自由というテーマについて哲学者大放出による解説を終えたところで、『進撃』の登場人物の考察を続けましょう。

そろそろ、かのじょにも出てきてもらわねばなりません。

ある意味では作中一番の自由人、サシャ・ブラウスです。 

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15話「個々」

 

サシャはその怒涛のごとき食欲という設定を活かされて、コメディーリリーフの役回りが多いですが、でもそんなサシャの食欲というギャグ要素ですら、自由の考察に含められなくもありません。

一般に哲学者は、食欲をはじめとする本能的な欲望に従うことを辛口に評価しがちです。

他人にだけでなく、自分の情念に支配されることも自由の喪失だと考えるのです。

でも、食べなきゃ死んじゃうのが自然の定め。食欲を満たすこと自体に罪はありません。それに人間の食事は、本能の充足のみならず、文化でもあります。

したがって、食べるという行為においても、人間性を、自由を、読み取ることができるはず。

まあサシャは野獣のごとく肉にくらいついていたわけですが......(72話)。

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72話「奪還作戦の夜」

 

でもそのサシャの食欲ですら、純粋に本能的、動物的なものではありません。

ケニー率いる対人立体起動部隊と殺し合ったあとは、サシャですら食欲を失っていました(67話)。 

ルソー風にいうと、サシャの内的感情が生身のかのじょの感覚を圧倒している状態なわけです。

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67話「オルブド区外壁」

 

このように、まったく本能的であるように見える欲求、たとえば食欲においても、情念に対して、みずからの「内なる声」は、心から湧きおこる感情は、葛藤をもたらしうるのです。

「自然のままに生きる」といっても、身体的な感覚を満足させるのと、心そのものが感じたことに従うのとは、ルソーによれば別のことなのですから。

われわれは自然の衝動に従っていると思っているが、実は自然に逆らっているにすぎない。自然がわれわれの感官に語りかけることには耳を傾けるが、われわれの心に語りかけることは無視しているのだ。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

 

サシャの恐怖心と内なる感情

それをふまえて、ある意味で食欲よりも身に迫るプリミティブな情念、すなわち恐怖を見てみましょう。

トロスト区での戦いにおいて、立体起動装置のガス補給拠点に侵入した巨人を排除するための、即席の作戦に加わったサシャ。

ところが巨人を仕留めそこね、あわや返り討ちの危機に。ミカサに窮地を救われたものの、かのじょの心は恐怖に屈してしまいました(9話)。

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9話「心臓の鼓動が聞こえる」

 

この恐怖は、跡を引きずります。

調査兵団加入後も、サシャは刻みつけられた恐怖から自分を解放できません。

それでも恐怖と戦いながら、巨人から避難できずにいた少女(カヤ)をどうにか助け出そうとするサシャ。

そんなかのじょの言動が、放心状態の少女には、なんともぎこちなく見えたようです。

「何でそんなしゃべり方なの?」と唐突に問われ、たじろぐサシャ(36話)。

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36話「ただいま」

 

このエピソードでは興味深いことに、サシャにおける恐怖という抗いがたい情念が、別種の感覚、かのじょのぎこちない言動の原因となっている別の感覚と、混ざって表れているように見えます。

予告してしまうと、サシャのぎこちなさは、かのじょの外面ではなく、内面的な感情に関わるものです。

ここでも、情念と「内なる声」との葛藤に、サシャは投げ込まれているのです。

この葛藤とその解決を読み取ることが、サシャの自由と本来性を読み解くためのカギとなるでしょう。

 

森の外に出たサシャの居心地悪さ

サシャのぎこちなさは、故郷の森を離れ、かのじょが自然体では生きられなくなったことに起因するようです。

キース教官によく絞られるほど、サシャは自然体で欲望のままに生きていたはずではないのか? いえ、むしろあれでも、かのじょはかなり自分を抑制していたのです。

 

もともとサシャは、ありのままの自分を変えたくない、狩人の一族として森のなかで自由に生きてきた自分を捨てたくない、と望んでいました(36話)。

そんなかのじょの一族にも、ウォールマリアの崩壊が転機をもたらします。

狭くなった壁内世界で人口を養うために、森を明け渡して農地にし、一族は馬を育てよと、王政に求められたのでした。

サシャの父は、求めに従おうと考えています。

壁内世界が狭くなったせいで、狩人の生活も苦しくなっている。

「同族のみの価値観」で生きていくか、それとも「世界が繋がっていることを受け入れ」て他の人たちと協調して生きるか、そのどちらかしかない。

一族とともに「未来」を生きるため、サシャの父は後者を選ぶというのです。

それに対して「何で私らを馬鹿にしてるヤツらのために」と反発するサシャ。

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36話「ただいま」

 

かのじょの口ぶりからは、狩人に対する偏見が作中世界に存在することが窺い知れます。とはいえ、公式の差別(被差別身分の賤業として体制に指定されている、みたいな)とまではいかないようです。

サシャの父が、これを機に一族は森を出ようと提案するのは、そうした事情も考慮したうえでのことなのかもしれません。

同時にかれは、反発する娘の心に、外部の人間と接することを恐れる「臆病」さがあることも見抜きました。

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36話「ただいま」

 

そんな臆病な娘に度胸をつけさせるため、父親は娘を、同世代との共同生活を強いられる訓練兵に志願させたのでしょう。

父親が見抜いたとおり、サシャは外部の人間との共同生活に馴染めずにいたようです。

イヤイヤ、鬼教官のまえで芋を食ったり(15話)、知り合ったばかりの同期生(ミカサ)に食事を分けてとねだったり(16話)、好き放題やってるやんけ! とツッコミの一つも入れたくなりますが......。

しかしながら、そういう素の自分を出すことで、サシャは周りから浮いてしまっています――芋女という不名誉なあだ名を授かったり、いじめっ子キャラ(ユミル)に目をつけられたり、鬼教官をやりすごすために「サシャが放屁した」とミカサに濡れ衣を着せられ(そしてパンで買収され)たり(17話)。

 

そのことにサシャ自身が、はっきりとした拒否感とまではいかないにせよ、ぎこちなさを感じているはず。

学校のクラスで、変な奴、いじられ役として定着してしまい、心の底ではじゃっかん不本意なんだけど、かといって評判を変えることもできないから、いじられ役を仕方なく受け入れる――そういう子の胸中に押しとどめられた、一抹の居心地悪さ周囲に馴染めない感覚を、サシャも心に抱いているのでしょう。

それがかのじょの言動において、ぎこちなさとして表れ出ているのだと推察できます。

そんなサシャの心境に、親近感をもつ読者もいるのではないでしょうか。

 

ぎこちないサシャの内面的葛藤

サシャのぎこちなさの本質にいちはやく気づいたのは、かのじょをパシリにしていたユミル(36話)。

かのじょは、ただのいじめっ子ではありません。壮絶な過去を経験しているユミルだからこそ、あの自由気ままな「芋女」サシャが、実は自分を押し殺していることを見抜けたのでしょう。

いつもサシャは、同期に「敬語」で「馬鹿丁寧な喋り方」をするが、それはかのじょが周囲にどこか馴染めずに「作った自分で生きて」いこうとしているからに違いない。

そう見て取ったユミルは、そんな生き方は「くだらない」、だから「お前の言葉で話せよ!」と、サシャに奮起を促します。

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36話「ただいま」

 

しかし、そうは言われても急に言葉づかいを変えられない、ぎこちないままのサシャ。

かのじょの自己抑制が、たんに外部から強いられたものではなく、むしろかのじょの内面的葛藤に由来するものだからでしょう。

すなわち、ありのままの自分でいたいという願望と、外界の人間と共存できる自分になろうという意志(こちらはなかば父親に強いられたものではありますが)との狭間で、かのじょは自分のアイデンティティを定められずにいるのでしょう。

 

そんなサシャに、クリスタ(ヒストリア)が助け舟を出してくれました。

「今だってありのままのサシャの言葉でしょ? 私はそれが好きだよ!」と。 

まあたしかに、今さらサシャが口調を変えたところで...... とユミルも応じます。

一連のやりとりに、なにか感じ入るところがあった様子のサシャ。「あはは」と思わず笑いがこみ上げたのでした。

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36話「ただいま」

 

ここでサシャの心に響いたのは、ユミルとクリスタ、両方の言葉だったと見るべきでしょう。

ありのままの自分を押し殺すべきではない。でも、他人にあわせて生きていこうとする自分だって、ありのままの自分を構成している。

だとすれば、両方をありのままの自分の一部として引き受けられる、より大きく包括的な自我をもてばいいのです。

そして、自我にはそれが可能であるはずです。

外的感覚にふりまわされる情念ではなく、ルソーのいう内的感性としての、わたしの「内なる声」としての自我にであれば。

自分が苦しみ悩むように、他者の苦悩にも共感せずにはいられない、内的感性としての「わたし」にであれば。

「君の感情、君の欲求、君の不安、君の傲慢さでさえ、君がそこに繋がれていると感じている、その狭苦しい肉体とは別の根源をもっているのだ」(ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白」)。

 

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4.2.b われ選ぶ、ゆえにわれあり (下) ~ わたしの内なる声としての自由

 

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外的感覚と内的感情

自分を見失ったヒストリア(ユミルとの別離直後の)に人生の指針を示してもらうため、デカルト、ロック、ヒュームという、三名もの大哲学者にご助言をいただいちゃいましたが、どうもうまくいきません。

デカルトいわく「われ思う、ゆえにわれあり」。

――でもヒストリアは、外的現実における生身の「わたし」が思考する「わたし」からかけ離れてしまっており、だから「われ思う」の教えでは自分を取り戻せません。

ロックによれば、あなたが誰かを教えるのはあなた自身の記憶である(人格=記憶説)。

――でもヒストリアは、記憶の混乱に陥っているわけではないのに、現在の自分を過去のいかなる時点の自分とも結びつけることができません。

ヒュームによれば、そもそも不動の「内なる自我」なんて存在しない(自我=「記憶の束」説)。

――でもヒストリアは、ヒュームのように割り切って、自己を不確かな存在として受け入れられるような精神状態にはありません。  

さあ困った! 大哲学者たちの教えも、失意のヒストリアには響かない。

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でも考えてみれば、それは仕方ありません。

ここまでに見た哲学者たちは、自我の問題を、意識(=内面の「わたし」)感覚(=生身の「わたし」)との関係という構図において扱ってきました。

(ヒュームだけは、この構図を否定するために取り上げたという違いはありますが。)

この構図の問題は、感覚を外側からしか、生身の「わたし」をつうじてしか受け取れないこと、これです。

意識または内面的自我(ヒュームにおいては「知覚の束」)は、結局のところ、外部から与えられたものを処理するにすぎないのです。

あなたとは、外から与えられた意識なのである! ......と力説されても、失意のヒストリアに響いてこないのは当たり前の話ですね。

 

ヒストリアに必要なのは、自我が存在するかどうかではなく、とにかくもそこに在る自我を内側から規定するものは何かを示すことではないでしょうか。

それを示すことができるのは、すでに登場したルソーです(4.1 も参照)。

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文明を批判し「自然に帰れ」と呼びかけたルソーは、生身の「わたし」が受け取る感覚とは別に、内面的自我に固有の感覚があると考えます。

感覚とは、受動的なもの、つまり外的な刺激に対する反応です。

ただし、デカルトらの構図においては、内面的自我は外からの刺激を間接的にしか、つまり身体的な五感をつうじてしか受け取りません。

ところがルソーによれば、外的感覚としての快苦、寒熱、明暗、軽重、等々のほかに、わたしの内面が直接に受け取る感覚すなわち感情があるのです。

つまりは「心で感じる」ってやつですね。そういう感情や感受性に哲学的根拠を与えようとしたのがルソーなのです。

かれは言います。あなたが心から感じることは「肉体とは別の根源」をもっているのだと。

空間は君をはかる尺度にはならない。……君の感情、君の欲求、君の不安、君の傲慢さでさえ、君がそこに繋がれていると感じている、その狭苦しい肉体とは別の根源をもっているのだ。

ルソー『エミール』第4巻「サヴォワ生まれの助任司祭の信仰告白

www.kinokuniya.co.jp

 

したがって、ルソーのいう「内なる声」「魂の声」とは、外的感覚が引き起こす情念とは区別された、内的感情のことを指します。

情念とは、たとえば殴られて痛かったとき、おのずと湧いてくる怒りです。

情念とは区別されるべき内的感情とは、なにか辛いことを経験するなり見聞きするなり思い出すなりしたときに、外的な痛みがないのに心が感じる痛みです。 

ヒューム風にいえば、心の痛みなんて存在しない、外的な痛みを心のなかで再現したにすぎない、ということになるかもしれません。

しかしルソーにとっては、感情が身体感覚には還元されないこと、内的な由来をもちうること、それ自体が重要なのです。

だからわざわざ、かれは身体感覚に連動する情念から、内的感情を区別するのです。

 

内なる「わたし」と状況における「わたし」

ただし内的感情を、外部の環境や状況とはまったく無関係なものと誤解すべきではありません。

デカルトやロックは、泣いたり苦しんだりする生身の「わたし」の不確かさを克服するために、外的な存在から一枚の膜で隔てられた自我に、自己の確たる根拠を与えました。

そういう内的自我こそが、生身の「わたし」をコントロールするのです。

しかしルソーによれば、生身の「わたし」と同じように、内なる「わたし」もまた泣いたり苦しんだりします。

つまり内的自我は、外界に、具体的状況に、開かれているのです。

 

わたしがただ痛みというシグナルに反応して泣いているなら、それは生身の「わたし」が泣いているのでしょう。

わたしが悲しむべきことに直面して泣いているなら、それは内なる「わたし」が泣いているのでしょう。

つまり、こういうことです。

外的感覚そのものは、苦、明暗、寒熱、軽重、痛み、音、臭いなどの、抽象的なシグナルでしかありません。それを意識が情報処理するのです。

ところが内的感性には、外界のできごとが、具体的状況として与えられます――喜ばしいできごと、悲しいできごと、甘美なできごと、怒らずにはいられないできごと、恐ろしいできごと、共感できること、反感を覚えること、等々として。

こうして、内なる「わたし」とは状況のなかの「わたし」である、ということが判明します。

 

ヒストリアの「内なる声」とアイデンティティ

ヒストリアがアイデンティティを見失った件に、話を戻しましょう。

ユミルと一緒なら「どんな世界でも怖くない」(50話)と宣言した瞬間、ヒストリアは生身の個人としても、その内面においても、活力にあふれていました。

かのじょの内的感性が、ある状況によって、すなわち、かのじょを「胸張って生きろよ」と励ましつつユミルが自分の正体をさらけ出したことによって、揺さぶられたからです。

しかしこのとき、ヒストリアの自分自身に忠実であろうとする意欲は、ユミルが本当の自分をさらけ出したことへの反応として出てきたものです。

言い換えれば、ヒストリアの自己同一化は、半分はユミルへの同一化だったということ。

だからこそ、理由も分からないままユミルが去ってしまったことで、ヒストリアは自分自身を見失ってしまったのです。

 

こうなってしまっては、ヒストリアにかのじょが何者かを示すことは誰にもできません。

かのじょは他人の呼びかけに反応するのではなく、みずからの心の声を自分自身で聴き取るしかないのです。

内なる「わたし」を解き放ち、生身の「わたし」と一致させるしかないのです。

自分を見失った人に、自己解放なんて無理な話かもしれません。

でも、ある種の状況が、わたしの「内なる声」を増幅させたとすれば、どうでしょうか。

そういう状況においても、抗いがたい心の叫びに従うかどうかは、わたしの自由な選択に、もちろん委ねられています。

しかしながら、そうであればこそ、わたしは自己を必然的な存在として引き受けながら、かつ自由な存在としても確信することができるのです。

こうして、わたしはアイデンティティを獲得することができるでしょう。

 

ついにヒストリアがみずからの心の声を聴き取ったのは、父親ロッドの求めに応じて、かのじょが「始祖の巨人」を継承しようとしたときでした(66話)

この状況において、父の意向どおりにエレンを喰って「始祖」の継承者になるか、それを拒否するかは、究極的にはヒストリアの選択に委ねられていました。

前者を選択することで、かのじょは欲しつづけてきた他者の承認を、父親ロッドからの承認として得られたことでしょう。

しかし、かのじょの心は「拒否せよ」と叫びました。

父親を投げ飛ばし、「私は人類の敵」「最低最悪の超悪い子」と宣言するヒストリア。

この瞬間、この行為をもってヒストリアは、内面の「わたし」を生身の「わたし」と一致させることができたのです。

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66話「願い」

 

われ選ぶ、ゆえにわれあり

ほんとうの「わたし」とは、わたしの「内なる声」として、わたしの必然性として、状況のなかで浮かび上がってくるものである。

ほんとうの「わたし」とは、それにもかかわらず、わたしがそれを自由に選ぶことでしか成立しない。

このことは、実存主義の側においても説明する準備ができています。

サルトルばかりも飽きるので、ここらで別の実存主義者にも登場してもらいましょう。

精神病理の現象学的研究を突き詰めた結果、哲学者になったヤスパース(1883-1969)です。

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ヤスパースは言います。自由とは、たんなる「恣意的」な、つまり気まぐれな選択とは違うのだと。

そうではなくて、自由とは「わたしはせざるをえない」という「必然性」のなかにあるのだと。

「わたしが選ぶ」という行為において、決断の意識は本来の自由と出会う。だとしても、この自由は恣意的選択のなかにあるのではなく......「わたしはせざるをえない」という意味で「わたしは欲する」と言われるところの、あの必然性のなかに存する。

ヤスパース『実存開明』第6章

 

ん? 実存主義者は、人間が偶然的存在であるという前提から出発するんじゃありませんでしたっけ? 

そういうツッコミが出るかもしれませんが、ここでいう必然性とはそういうものではなく、状況依存的な必然性、つまり、この状況ではこうするのが正しいということを意味します。

ルソーのいう「内なる声」も、すなわち状況への反応としての心の叫びも、そういう状況依存的な必然性に含めていいでしょう

 

さて、そのうえでヤスパースは続けます。

「そうせざるをえない」という心の叫びが、わたしにはどれほど必然的だと感じられるとしても、それを外的、客観的な意味で必然性たらしめるのは、わたしの自由な決断をつうじてでしかないのだと。 

わたしは存在する、わたしはせざるをえない、わたしは欲する、わたしは選ぶ、などのすべての表現は、自由の表現として総括される。......決断なくしては選択なく、意志なくしては決断なく、必然なくしては意志なく、存在なくしては必然性もない。

ヤスパース『実存開明』第6章

yomitaya.co.jp

 

わたしが決断するのは(偶然性)、わたしが「そうせざるをえない」からである(必然性)。

だがその一方で、わたしが「そうせざるをえない」のは(必然性)、わたしが存在するかぎりにおいてである(偶然性)。

つまり、わたしの存在の必然性は、わたしを自由な存在たらしめる決断または選択がなされたあとで、はじめて意味をもつのです。

このような過程として把握するかぎりで、わたしがみずからの「内なる声」に従うことは、わたしの自由の実現である、と述べることが可能になるのです。

 

デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言いました。

それをもじれば、実存主義の標語は「われ選ぶ、ゆえにわれあり」です。

「わたしが選択することによってわたしは存在するのであり、わたしが存在しないならわたしは選択しないのである」(ヤスパース『実存開明』第6章)。

そしてルソーの教えは、選ぶべき「われ」が何であるかの指針を与えてくれました。

すなわち、わたしが「内なる声」に従うことは選択であり、この選択をつうじてわたしはわたしになることができるのです。

 

心の叫びを「地鳴らし」として実現してしまったエレン

ルソーは言いました、あなたが心の叫びを聴き取ったなら「そうせざるをえない」はずだと。

ヤスパースは言いました、あなたが「そうせざるをえない」のは(必然性)、あなたが「存在する」からであり(偶然性)、したがって「そうせざるをえない」の実現はあなたの自由に属するのだと。

さて、この自由の価値を、どう見定めたものでしょうか。

 

「内なる声」が教えるのは、つねに善いことだとルソーは考えていました。

ヒストリアの自由、すなわち、みずからの心の叫びに従って「始祖」の継承を拒否したことについては、レイス家の思想がどんなものかを知っている読者としては「よかったね」と評価するのが穏当でしょう。

でも、同じように心の叫びに従った結果、人類の8割を踏みつぶしてしまった某主人公については、それを「よかったね」と褒める気になれるでしょうか?

それをかれは「何でかわかんねぇ」けど「どうしても」やりたかったというのです。

自由に生まれついた者として、そうするしかなかったというのです(139話)。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

たしかにそれは、エレンの深い内面的葛藤の末に導き出された真剣な決断でありました。

虚栄心のような人為的な欲求や願望ではなく、純粋に自由でありたいという願望からなされた決断でした。

ただし、かれ自身の主観を尺度とすればエレンの選択は理解できるとしても、客観的にみてそれをどう評価できるかは別の話。

かれが自分のアイデンティティを貫くために踏みつぶされるなんて、不条理にも程があります。

 

したがって、人間の「内なる声」「自然の声」「心の叫び」は「つねに善である」というルソーの教えを、額面どおりに信用するのは難しいかもしれません。

しかし少なくともそれは、わたしが何者であるかを、わたしという存在の真実を、告げ知らせてくれることは間違いないでしょう。

 

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4.2.a われ選ぶ、ゆえにわれあり (上) ~ わたしの内なる声としての自由

 

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内面的自我とアイデンティティ

人間以外の動物は、自我という観念をもっていません。

もちろん、犬だって猫だってカモノハシだって自分の利益や安全を気づかいます。

でも、わたしはいま自分らしくないとか、自分を自分自身と感じられないとか、そういう感覚をもつ生き物は人間以外にいません。

つまり人間だけが、アイデンティティを持ったり見失ったりすることができるのです。

また同じように人間だけが、自由という概念をもち、自分のことを自由または不自由であると反省的に捉えることができるのです。

だとすれば、自我やアイデンティティというテーマもまた、自由の哲学的考察において扱ってみる必要があるでしょう。

 

もともとアイデンティティとは、アメリカの心理学者エリクソン(1902-94)が「アイデンティティの危機」という専門用語として使い始めたもの。

ところが、使い勝手がよかったのか、現代人の心に「刺さる」言葉選びだったためか、分野をこえて、文学やポップカルチャー等々にまで使われる流行語となったものです。 

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とはいえ、このブログは哲学解説ブログ。なので、このアイデンティティの概念もまた、哲学的考察に落とし込んでみましょう。

そのために以下では、自我(英:self、羅:ego、独:Ich、仏:moi)の哲学史を参照してみます。

 

自我とは何か。いわばそれは「わたしを見るわたし」です。

古代哲学と区別される近代哲学は、この「わたしを見るわたし」を、純粋に内面的な存在としてうち立てることから始まります。

内面的自我の最初の哲学的表現は、デカルト(1596-1650)の「われ思う、ゆえにわれあり」という格言によって与えられました。

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デカルトは、すべての存在の確実性を「方法的に」疑ってみることにしました。

目に見えるものが真実とはかぎらない。

地球が太陽のまわりを回っているのに人間の目には逆に見えるように、外的感覚はわたしを欺くかもしれない。

鮮明な夢を見ることがあるように、いまわたしは現実のなかにいるつもりでいて、じつは夢を見ているだけかもしれない。

でも、そう考えているわたしが存在することだけは、いっさいの疑いもさしはさめないほど、絶対に確実なことだと、デカルトは発見したのです。

......すべてを偽りと考えようとしているあいだも、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならないことに、わたしは気がついた。そして、この「われ思う、ゆえにわれあり」という真理は、まことに堅固かつ確実であり......これをわたしが求めていた哲学の第一原理として受け取れると判断した。

デカルト方法序説』第4部

www.iwanami.co.jp

 

この「考えるわたし」は、純粋に内面的な自我です。

外から入ってくる知覚は、存在するとはかぎりません。五感とともに快や不快といった印象を受け取る身体は、誤った知覚や混乱した情念をもつかもしれないからです。

でも、わたしの心、わたしの魂、わたしの精神、わたしの思考は、外からの要因なしに、わたしの意志のみによって、ひとりでに作動することができます。

だから、外から与えられる知覚がどれほど誤っていようとも、内面としての「わたし」だけは確実に存在しているデカルトは考えることができたのです。

こうしてデカルトは、人間の外面と内面のあいだに、生身の「わたし」と精神的な「わたし」とのあいだに、乗り越えがたい断絶を設けたのでした。

いわゆる「心身二元論」です。

 

もしデカルトのいうように、内面的な「わたし」が外面的な「わたし」とは区別されるのだとすれば、ひょっとしたら両者は、同じ「わたし」とはかぎらないのではないでしょうか?

内面的自我は、生身の「わたし」が自分の意志したとおりに手や足を動かすのを見るとき、これはわたしだと認めるでしょう。

でも、人間は複雑な生き物です。社会のなか、他人との関わりのなかでは、自分の思い通りに生きられないことが少なくありません。

そういう状況において、ひょっとしたら内なる「わたし」は、外面的な「わたし」が自分の意志のとおりに動いていないと感じるのではないでしょうか。

いわゆるアイデンティティの危機とは、哲学的にはそういう風に説明できそうです。

 

ユミルと離れたヒストリアは、まさにこういう状態に陥りました。

内面的な自我が動かしているはずの、外面的な、生身の「わたし」を、自分とは感じられなくなってしまったのです(54話)。 

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54話「反撃の場所」

 

アイデンティティと記憶

ではヒストリアとは何者か。クリスタをやっていたころは、かのじょは自分自身ではなかったのか。

これについては、次のような見解もありえます。

自分を誰と名乗ろうが、クリスタとヒストリアは同一人物である。

「あのころの自分はわたしじゃない」というのも、それを自分と同一人物だと認識しているからこそ言えることにすぎない。

 

ではそもそも、現在の自分と過去の自分とは、何をもって同一人物だと言えるのか

このように問うことは、決して無意味ではありません。

生物学的には同じ人間が、まったく違う人格に変貌してしまうことだってあるのですから――たとえば「戦士のライナー」と......

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42話「戦士」

 

......「兵士のライナー」みたいに。

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46話「開口」

 

上の疑問に答えを与えた哲学者は、ジョン・ロック(1632-1704) です。

時間をこえて、ある人格の同一性を担保するものを、ロックは「意識」に見出しました。

どんな場面においてであれ、ある者が自分自身と呼ぶものは、他人から見れば同一の人格であろう。......意識によってのみ、人格は現在の自己をこえて、過去のそれへと拡張される。

ロック『人間知性論』2.27.26

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これは平たく言うと、記憶が人格の同一性を作るという立場です。

10歳のころのわたしは、それを現在のわたしが自分自身として覚えているがゆえに、わたしと同一人物なのです。

とはいえ、酔っ払いが記憶をなくしている間にバカをやったからとしても「あれはわたしのせいじゃございやせん」と言い逃れはできないぞと、ロックは釘を刺しています。

物忘れとか、酔っぱらって記憶が飛んだとか、そういうささいな記憶の欠落は本質的なことではありません。

「わたし」の連続性を、時をこえて首尾一貫した自我を作り出すもの――それが記憶なのです。

 

思い出が「わたし」を作る。

「さよならを言うあたし」こそが自分である。

スタンド能力で作り出された某知的生命体は、まさにロックの人格=記憶説によって自分のアイデンティティを確認したのでした。

(遅いけど、祝・第6部アニメ放映決定!)

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二人の人間が合成されて、どちらの記憶も断片的にしかもたない、新しい人格ができたよ! なんて話もジョジョにはありますけど。

これもまあ、人格=記憶説を外れてはいないですが。

books.shueisha.co.jp

 

ロックの説でいけば、自分を見失ったヒストリアは、クリスタをやっていたころの自分を覚えているのだから、どちらも同じ自分だと認めるべきなのです。

マーレの「戦士」に戻ったライナーだって、壁内人類の「兵士」に人格分裂したころの自分を覚えていたのだから、ライナーはどちらも自分として受け入れねばならないのです(かれは受け止めきれずに自殺を試みたこともあったけど)。

 

他方、作中で人格=記憶説を模範的に示しているのは、やはりユミルでしょうね。

かのじょは言います。「偶然にも第2の人生を」手に入れたが、それでも「元の名前」を名乗りつづけるのは「ユミルとして生まれたことを否定したら負け」だからだと(40話)。

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40話「ユミル」

 

え、『進撃』の世界では知性巨人をもつ者が前の保持者の記憶を引き継ぐけど、それはどうなるんだって?

アルミンがアニ大好きになっちゃったのは、かれが頭ベルトルトになっちゃったから?

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112話「無知」

 

エレンの記憶なんて、グリシャの記憶、エレン・クルーガーの記憶、フリーダの記憶、それに描かれてないけどタイバー家のそれも混ざっているし、さらには自分の「未来の記憶」や、別次元から誰かさん似のギークとゴスの面影まで入り込んできて、もうしっちゃかめっちゃか。

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120話「刹那」

 

それでも人格=記憶説は有効です。

だって、アルミンもエレンも、これは自分の記憶、これは別の人の記憶って、識別ができるのですから。

どれほど他人の記憶が自分の性格や言動に影響を及すのだとしても、人は生身の他人からだって影響を受けるのですから、それと本質的な違いはありません。

 

そうなると、ある人間が人格の同一性を失うのは、記憶によって過去と現在を結びつけることができないほどに精神そのものが錯乱してしまったとき――法的に責任能力を問えない「心神喪失」に陥ったとき――ということになるでしょう。

ニュータイプみたいに。

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こんな風に精神が決定的に壊れてしまわないかぎり、あなたはあなた以外の何物でもないのです。

ロックは「人格」を「法廷用語」と定義しました(ロック『人間知性論』2.27.26)。

かれのいう同一人格とは、みずからの行為に法的または道徳的な意味で責任を負えることと同義なのです。

 

「わたしはわたし」なんて思い込み?

でも、責任能力をもつ同一の人格としての「わたし」という観念は、ヒストリアのようにアイデンティティを見失った人の助けには、なりそうにありません。

内面の「わたし」は、生身の「わたし」を眺めて、こんなの自分じゃないと感じてしまう。

このギャップにそんなに苦しんでいるなら、いっそ「わたしはわたし」なんて思い込みなんだと割り切ってしまえばいいのでは?

つまり、ここでも「逆に考えるんだ理論」を使って、問題の立て方そのものを変えてしまえという試みもありうるわけです(0.8.a スピノザの自由観を参照)。

 

そのような自我へのアプローチもまた、もちろんすでに哲学者が試みています。

その哲学者は、こう教えます――逆に考えるんだ、アイデンティティなんてあげちゃっていいさと考えるんだ、つまり生身の「わたし」を統御する内面の「わたし」なんて存在しないと考えるんだ、と。

その哲学者によれば、われわれが自我と思い込んでいるものは、もとを辿れば、すべて外からやってきたもの、つまり感官に与えられた「知覚」の集まりでしかないのです。

自我とは「知覚の束」であると断じたのは、啓蒙時代の懐疑主義者ヒューム(1711-76)。

かれによれば、自我とは「想像を絶する速さでたがいに継起し、絶え間のない変化と動きのただなかにある、たがいに異なる諸知覚の束」にすぎないのです(ヒューム『人間本性論』1.4.6.4)。

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でもそうなると、人間のやることなすことすべて、外的感覚に対する受動的な反応にすぎないのでしょうか?

ヒューム自身が書いた立派な分厚い哲学書も、意識の外部に由来をもつ無数の「知覚」が「束」になって動き回った結果、出てきたにすぎないと言うのでしょうか?

ヒュームにいわせれば、そうなのです。かれは次のように主張します。

思考とは、人がみずから、自発的に、何の原因もなく開始しうる、内面的な活動だと哲学者たちは考えてきたけれど、そんなの嘘だと。

思考の材料となる「観念」ですら、外から与えられた「印象」の再現にすぎないのだからと。

 

それじゃあ、われわれが内面的な「意識」とか「自我」とか見なしているものは何なの?

ヒュームの答えは明瞭簡潔。

それは思い込みでしかないよ、とかれは教えます。

この言い方が気に入らないなら、あるいは心の習慣といえばいいよ、つまり人間の都合にあわせて作られた便宜的なものということだよ(意訳)、とかれは教えます。

そもそもヒュームに言わせれば、自然法則とか因果関係とかいわれているもの自体、人間精神の習慣がこしらえたものにすぎません。

観察や実験を繰り返して、だいたいのところ規則的に同じ結果が得られたと思ったとき、そこに因果法則が働いていると、人間が勝手に信じているにすぎないというのです。

科学的に確証された因果関係と呼ばれるものですら、本質的には経験則と、たとえば「コーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実じゃッ!」って言っているのと変わらないのだと、そうヒュームは見なすのです。

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変化する自分と揺るがぬ自分

だからといってヒュームは、因果とか自我とかいう概念を、無意味と断定したいわけではありません。

自然の因果法則なるものは、永遠普遍の真理としては通用しないだけで、その額面どおりに、つまり人間の都合にあわせて作られた便宜的なものとして扱うなら、それでいいのです。

同じように自我も、実体としては存在しないけれど、人間の主観を説明するための便宜的な用語でしかないと分かっていれば、使ったところで支障はないのです。

www.kinokuniya.co.jp

 

そういうわけで、あなたはヒュームにならって「わたしはわたし」なんて思い込みだよね、そのときそのときの意識状態を「わたし」と呼んでおけば都合がいいよね、と割り切ってしまうことができます。

そうすれば、前向きで健康的なメンタリティになれそうですね。

人生風まかせ、なるようになるさ、ケ・セラ・セラの風来坊の生き方です。

状況が変化するように自分も変化する、だからその都度その都度ちょっとずつ違っている自分をぜんぶ受け入れちゃえ! 変化する自分を楽しんじゃえ! みたいな。

 

でも、あなたが気まぐれな風に流されるどころではなくて、荒波のような運命に翻弄されているとしても、相変わらず、どんな自分でもバッチコイ! なんて言っていられるでしょうか?

それこそヒストリアの半生は、体制の都合で幼くして命すら奪われかねなかった、激動の人生です。

そんな人生ですら風来坊のようにひょうひょうと潜り抜けられる人がいるとすれば、むしろ人並外れたタフな精神の持ち主と呼ぶべきです。

 

つまり何が言いたいかというと、ヒュームの「アイデンティティなんてあげちゃっていいさ」説(自我=「知覚の束」説)を実践する者には、むしろ確固とした揺るがぬ意志揺るがぬ自分が必要なのではないかということです――その「自分」を何と呼ぶかはおくとして。

だとすれば、自分の意志が揺らぎまくっちゃっているような人、たとえばユミルを失った直後のヒストリアには、ヒュームの助言もまた役には立たないでしょう。

「胸張って」「元の名前を名乗って」生きろと、かのじょを励ましてくれたユミルなくして、ヒストリアはどうすれば「自分」を取り戻せるのでしょうか?

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40話「ユミル」

 

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