進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

0.9.b わたしは他人とともに自由でありうるか (中) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

「上」から読んでね!

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「君のどこが自由なのか」

おさらい。

エレンの「戦わなければ勝てない 戦え」は、彼が自分自身に立てた自由の掟

敵が巨人から島外の人類へと変わった後も、エレンはこの掟を貫いた。

カント的意味における自由の掟(無条件の掟=定言命法)として。

誰が、いかなる状況においても実践すべき「普遍的立法の原理」として。

ところが彼にとって、この掟の実行手段は「地鳴らし」=島外の人類みなごろし

 

こうして、よく言えば覚悟ガンギマリ、悪く言えば視野狭窄に陥ったエレン。

彼の意志は、カント流に言えば、自己立法する自由な意志です。

でも「地鳴らし」を遂行するエレンは、実際のところ、それほど自由に見えるでしょうか?

 

胸のうちに秘めた計画を実行するために、エレンは自分がもっとも大事に思っている仲間たちを危険にさらし、そのせいでサシャは命を落としました(105話)。

さらには、彼自身が(一種の演技だったとはいえ)みずから仲間を傷つけたのです(0.8.b)。

そして、いよいよ「地鳴らし」を開始したエレンは、いよいよ人格障害ぎみになってしまいます。

踏みつぶされる人々に「ごめんなさい...」と心のなかで唱えながら、同時に「自由だ」「たどり着いたぞ この景色に」と、自由を全身に感じるエレン。幼児退行しながら(131話)。

もう後戻りができない彼は、自分を追う仲間たちに「オレを止めたいのなら オレの息の根を止めてみせろ」と言い放ったのでした(133話)。

 

みずからの選択にがんじがらめに縛られ、我を失ったかのようなエレン

このような状態にあるというのに、彼の意志を「自由な意志」と呼べるでしょうか?

むしろ、アルミンのように「質問」したくはならないでしょうか。

君のどこが自由なのか」と(134話)。

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134話「絶望の淵にて」

  

みずから立てた「戦え」という掟に従うエレンは、形式的には、つまりカントが設けた形式的定義(みずから立てた普遍的立法の原理に従う意志)によれば、自由、自律、自己決定の状態にあります。

でも実質的には、どうでしょうか?

自分の意志を貫きとおすために、エレンは自分自身の人格をなかば破綻させ、精神的な自己支配をなかば失ったのでした。

どれほど多くの命を踏みつぶし、どれほど自分自身を壊しても、彼は後には引けなくなってしまいました。

まさに文字通り、エレンは自縄自縛に陥っています。

以前に「自由の逆説」という語を用いましたが(0.6)、まさにここでも、自由の逆説が生じていると言えます。

形式的に自由であることは、実質的な自由をともなうとは限らないのです。

それでは、自由であろうとして自縄自縛に陥ったエレンは、どうすれば彼自身から解放されることができるのでしょうか?

 

ミカサは自律的か他律的

誰がエレンを解放したかといえば、それはミカサです。

しかしそのために、まずはミカサが、エレンから、そして彼女自身から、解放される必要がありました。

というのも彼女は、エレンの「戦え」という掟を共有していたからです。

 

ミカサに「戦え」という掟を与えたのは、つまり彼女の立法者になったのは、エレンでした。

二人の衝撃的な出会い、すなわち、ミカサを拉致した人身売買業者の男たちを殺す場面において、エレンは最後の一人に捕まり、首を絞められるなか、ミカサに命じました。

戦わなければ勝てない 戦え」と。

これはミカサにとって、啓示のようなものでした。

エレンの「戦え」を引き金に、アッカーマンの戦闘能力に覚醒し、誘拐犯を殺し、エレンと自分を救ったのです。

そして、親を失ったミカサは、イェーガー家に引き取られることが決まり、エレンにマフラーを巻いてもらいます。

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6話「少女が見た世界」

 

こうしてミカサは、エレンに二つのものを与えられました。

一つは「戦わなければ勝てない 戦え」という

もう一つは、彼が巻いてくれた、自分を暖めてくれるマフラー。

すなわち、生きる価値を感じさせてくれる美しい思い出

 

時は進み、トロスト区防衛戦。

ミカサは、エレンが巨人に喰われたとアルミンから聞き、動揺を抑えきれずに立体起動装置のガス切れに気づかず、絶体絶命の状況に。

一度は死を覚悟したものの、かつてエレンに言われた「戦え!!」を思い出したミカサは、ここで死んだら「あなたのことを思い出すことさえできない」と、あきらめずに最後まで戦う覚悟を決めたのです。

そのとき、巨人と戦う巨人――エレンの「進撃」――が現れ、彼女を救ったのですが。 

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7話「小さな刃」

 

ここでミカサを諦めから救ったのは、エレンが彼女に与えた二つのもの、すなわち「戦え」という掟と、美しい思い出でした。

「戦え」はエレンの掟ですが、ミカサもまた、この掟を自分の意志でみずからに課しているように見えます。

つまり、ここでミカサはエレンの掟に自分自身の同意を与え、これを自由な意志において実践したということです。

彼女の最後まで戦おうとする意志は、カント的意味で自律的だったということです。

 

しかし、はたして完全にそう言い切れるでしょうか? 

ミカサにはもう一つの掟、もう一つの行動原理があります。

それは、エレンのために行動することです。

上のシーンでミカサが「戦え」と自分を奮い立たせたのも、エレンが残した思い出に忠実であろうとしたからでした。

ミカサはこの行動原理を、子供の頃から、そしてエレンが巨人化の能力に覚醒した後にも、あらゆる状況のなかで貫いています。

 

そうだとすれば、ミカサにとって「戦え」という掟は、実のところ、エレンのために行動するという彼女の根本的な掟と合致するならば、そのかぎりで従うべき掟ということになります。

つまり、それは条件つきの掟仮言命法)なのです。

 

エレンはミカサに「戦え」と、自由を奪おうとする敵に屈するなと、掟を与えました。

しかしミカサ自身は、この掟を「エレンのために戦え」という掟として引き受けたのだと言えます。

特定の「誰か」のために貢献せよという掟は、普遍的な立法ではありえません。

この掟に従う意志は、この「誰か」に従う意志でしかないからです。

だとすれば、ミカサの意志は結局のところ他律的ということになります。

 

ミカサの動揺

やがてエレンは、仲間たちのもとを離れ、ジークの計画に従うかのように行動しはじめます。

ミカサの生きるよすがである「マフラーを巻いて」くれたエレンとは、まるで別人のようにふるまいはじめたのです。

 

この段階においてミカサは、エレンに与えられたもう一つのもの、すなわち「戦え」という掟を、以前のようには理解できなくなっています。

マフラーを掴み、うつろな目で、彼女は「勝てなきゃ死ぬ... 勝てば...生きる」と、エレンの言葉を繰り返します。

その意味が何かを自問するかのように。

理解できない命令を、自分の心に刻み込もうとするかのように。

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106話「義勇兵

 

その頃、エレンは同じ言葉を、自分自身に語りかけていました。

ほんのわずかな心の迷いすら打ち消そうとするかのように。

この掟によって自分を完全に制御しようとして。 

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106話「義勇兵

 

ここには、ミカサの「戦え」がエレンの「戦え」とは別のものであることが鮮明に表れています。

ミカサの場合、エレンが発した「戦え」という掟に従う彼女の意志は、さきに述べたように他律的なものでした。

彼女の行動原理は、彼女の生きる意志は「それがエレンのためであれば」という仮言命法と不可分でした。

それに気づいていたからこそエレンは、ミカサがアッカーマンの本能の奴隷なのだと嘘をついてまで、彼女を突き離そうとしたのでしょう(112話)。

 

ミカサの自己解放

その後ミカサは、エレンの「地鳴らし」を止めるためにハンジさんたちに合流すると、迷わず意志表明しました(127話)。

これもまた、エレンのための行動かもしれない。

しかし、これまでのようにエレンを助けるためではなく、彼を止めるために、つまりエレンの意志に逆らって行動を起こすことを彼女は決めた。

ここでミカサは、他律的な生き方から離れ始めたのです。

彼女は、エレンから、というよりもエレンを自分の行動の尺度にしてきた従来の自分自身から自己を解放しはじめたのです。

 

といっても、ミカサの自己解放はひといきで完了したわけではありません。

エレンが説得に応じないときに彼を殺すことまでは覚悟していないとアニに見抜かれたときの、彼女の反応。

間髪入れずに、武器を手にとりながら「つまり私を殺すべきだと?」と、安定の脳筋っぷりを見せつけました。

ここではまだ、ミカサは「エレンのために」という古い行動原理から脱却できていません。

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127話「終末の夜」

 

その後もミカサは、最後の最後まで、自分を解放することができずにいました。

エレンの巨人をアルミンが「超大型」の爆発で砕くも、飛び出してきた例のアレ(「有機生物の起源」だかハルキゲニアだか)によってエルディア人がみな無垢の巨人にされてしまうという、あの大惨事に至っても。

この期におよんでミカサの脳裏によぎるのは、エレンと二人での逃避行の先にたどり着いたかもしれない、もしもの世界(138話)。

そこにいるエレンは、ミカサが再会したいと望んでいる、彼女に生きる価値を感じさせてくれた、優しいエレン。

しかしミカサは、かつてエレンからもらったマフラーを、彼自身に「捨ててくれ」と言われてしまいます。

(たぶんこれは、ミカサの精神世界にエレンが「始祖」の力で介入した的な展開だったのでしょう。そこらへんは細かく考察しませんし、その必要もありません。)

 

このとき、ようやくミカサは理解したのでしょう。

エレンの真意を。

ミカサに彼女自身を解放してほしい、つまり、エレンのためではなく彼女自身のために生きてほしいという、エレンの願いを。

そして、そう望むエレン自身が、みずからの「戦え」という掟に縛られ、自分を解放できずにいるということを。

 

エレンの真意を知ったことにより、ミカサにおいては、自己解放と、彼女がエレンを彼自身から解放してあげることが、同じ一つのことになりました。

ミカサは「マフラーを捨てて自分のことは忘れてくれ」というエレンの願いを「できない」と拒否します。

彼女はエレンへの想いを実現するために、彼の意向をはねつけました。

エレンにもらったマフラーを巻きなおし、エレンの首を斬り、彼に口づけしたのでした(138話)。

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138話「長い夢」

  

エレンの首を斬ったことは、彼への想いを断ち切ることではありませんでした。

エレンのために生きる他律的な自己を放棄し、自分自身のために、みずからの意志で彼を愛する自由な自己を選び取るために、ミカサはエレンを斬ったのです。

この行為によって、ミカサはエレンを救済し、同時に自分自身を救済しました。

エレンを斬ったことにより、ミカサはエレンを彼自身の掟から解放したのです。

そして、そのエレンを自分のものにしたことにより、ミカサは自己をも解放し、自分自身のための生をようやくはじめることができたのです。

 

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0.9.a わたしは他人とともに自由でありうるか (上) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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一応、いままで書いてきたのは「進撃の巨人・自由論」のたんなる導入部のつもりだったんですよ。長くなりすぎて、我ながら呆れます。

でも、今回が導入の最後です(分割するけど)。

 

わたしの自由と、他人の自由とは、つねに両立させることができるのか? というのが今回のテーマ。

作中では、エレンの望む自由は、島外の人類とは両立しないということになってしまった。だからエレンは「地鳴らし」を遂行した。

エレンには、本当にこの結末しかなかったのでしょうか? 哲学的に考えてみましょう。

 

自分自身の立法者になること

今回、手がかりとしたいのは、イマヌエル・カント(1724-1804)の自由論です。

彼の考える自由は、普遍性への、またしたがって他者への、強い志向をもっているからです。

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ただしカントにおいて、他者を志向することと、他者に従うこととは、厳密に区別されます。

カントの自由観は独特です。

彼の『実践理性批判』にいわく、自由とは「自分自身に対して立法する」ことを意味します。

自分に立法するとは、つまり自分の意志をみずから立てた掟に従わせることです。

これをカントは Autonomie すなわち自律と呼びます。

その一方で、自分の意志であれ他人の意志であれ、法則ではなく意志そのものに従うことを、彼は他律(Heteronomie)と呼びます。

 

カントのカプ厨批判

自律とは、自分自身に立てる「法則」とは、自分自身の掟とは、何でしょうか?

「~が俺のジャスティス」みたいな? 

でもそれだと、たんに自分の趣味や嗜好や性癖を唾飛ばしながら熱弁しているだけのキモオタですよね。本人にとっては、自分自身の心から湧き上がる掟なのかもしれないけど......。

 

なぜ「俺のジャスティス」が、カント的意味での「ジャスティス」=自律にならないのかを説明します。

われらがカプ厨は言います。「○○と○○のカップリングが好きで好きでたまらない! だから○○×○○が俺のジャスティスだ! ○○×○○を推すべきだ!」 と。

あー、この人やっちゃったよ。カントにNGワード、出しちゃったよ。

巨人の実験についてエレンがハンジさんに質問したときみたく、カントの長話、止まらなくなるよ? オルオに「オイ! やめろ」と小突かれるよ? 

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20話「特別作戦班」

  

いまこのカプ厨が口にした、言ってはならない言葉は「だから」です。

カントは「AだからBせよ」を自由の法則とは認めません。

なぜか? 「AだからBせよ」では、Bは目的ではなく、Aという目的のための手段でしかないからです。

したがって「○リ○リが好きだから○リ○リがジャスティス」は、○リ○リを推す自由な意志では決してありません

考えてもみてください、われらがカプ厨が、○リ○リよりもハマってしまうカプに出会ってしまったら、どうなるでしょうか?

この人の「ジャスティス」は替わるでしょう。

東○のことは忘れて、エレヒス派となり、エレミカ派と熾烈な戦いを繰り広げるかもしれません。

したがって、このカプ厨はカントに「あなたの○リ○リを推す意志は、全然自由じゃないですよ」ということを、滔々と説明されてしまうでしょう。

 

仮言命法定言命法カップリング推しは自由な意志になりうるか

なぜカップリング推しは自由な意志ではないのか?

「○○×○○萌え」「○○×○○尊い」は、たんなる感情または情念でしかないからです。

感情または情念は、自然法、つまり因果関係のなかにあります。

○○×○○のカラミが原因であり「尊い」という感情がその結果です。

そして、感情=自然法則=因果関係に左右される意志を、カントは自由な意志とは認めません。

それは他律的な意志にすぎないのです。

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それでは自由な意志とは? 自律的な意志とは?

感情=自然法則=因果関係には左右されない意志、ということになります。

「AだからBせよ」「AならばBせよ」という条件つきの掟(格率)ではなく、ただただ「Bせよ」という無条件の掟(格率)に従う意志こそが、カントによれば自由なのです。 

この意志は、現象の自然法則にはすこしも関わりがないと考えられねばならない。……格率のたんなる立法形式だけを自分の従うべき法則にしうる意志は、すなわち自由な意志である。

カント『実践理性批判

「格率のたんなる立法形式だけを自分の従うべき法則にしうる意志」などと、小難しい言い回しをカントはしていますが、ビビるこたぁありません。

ただただ「Bせよ」という無条件の掟(格率)に従う意志、という意味に解せばオーライです。

よくカント哲学の解説で、仮言命法定言命法という専門用語が出てきますが、それはこのことです。

つまり「AならばBせよ」という条件つきの掟(格率)が、仮言命法

これにたいして「Bせよ」という無条件の掟(格率)が、定言命法ということです。

 

これらの違いを、具体例にもとづいて考えましょう。

「エレヒス尊いと思うなら、エレヒスを推せ」。

これは条件つきの掟(格率)、すなわち仮言命法です。

この掟(格率)に従うことは、結局のところ「エレヒス尊い」という感情(欲望?)に従うことを意味します。

では、このカプ厨が『進撃』の結末を読んで「やっぱエレミカ尊いわ、ユミルちゃんの気持ち分かるわ」となったら、どうでしょう?

この掟はあっさり放棄されてしまいますね。

これが条件つきの掟(格率)の問題点です。つまり、それは普遍的ではないのです。この掟を立てた人の気まぐれに応じて、いつでも変化してしまうのです。

 

では、カップリング推しを無条件の掟(格率)として、定言命法として立てることはできるのか?

理論上は可能です。

「エレヒスを推せ」。

作品の結末も顧みず、ファンの評価の推移も顧みず、ただひたすらにエレヒス推しを徹底する。

もし自分自身の心に「エレミカ尊い」が湧き上がってきたとしても、あるいはリヴァエレに自分の脳を乗っ取られつつあるとしても、ひたすらエレヒス推しを貫く。

エレヒスは「ジャスティス」であり、真理であり、普遍的な格率なので、何が起きてもエレヒスという掟に殉じる。ジークを崇拝するイェレナのように。

 

定言命法とは、無条件の掟に意志を従わせるとは、こういうことです。

超強硬派の、原理主義の、ゴリゴリのエレヒス派(いや逆にエレミカ派でもいいんですが)になることです。

でも、そんなのバカバカしいですよね。カップリングなんて趣味の話でしかないのに、自分の好みの変化に気づかないふりをしてまで、特定のカップリングを推すなんて。 

 

なぜ定言命法により自己立法することが自由か

きっとあなたはこう思うでしょう。

おまえの次のセリフは「定言命法って、なんだか融通がきかないな」という!

定言命法に従うなんて、ぜんぜん自由じゃなさそう」という!

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言いたいことはよく分かります。

でもカントによれば、定言命法だけが、無条件の掟だけが、人を自由=自律的にするのです。

条件つきの掟=仮言命法は、場合によって出したり引っ込めたりできる掟です。

そのような掟しかもたない人は、結局、掟ではなくて、自分の情念に従っているにすぎません。

自分の情念に振り回される人は、暴君の命令に振り回される人民と同じく、自分をコントロールしていないのです。他律的なのです。 

逆に、いつでも、どこでも、誰にたいしても実践できるような無条件の掟=定言命法にしたがって行動する人は、自分をコントロールできている人です。

 

もちろん、どんな掟でもいいから定言命法として実践せよ、というのはバカバカしい話です。「○○×○○を推せ」を無条件の掟とするなんてナンセンスです。

だから、いつでもどこでも無条件に実践されるべき、普遍性のある掟を、みずから見つけ出さねばなりません。

たとえば「友人を大事にせよ」とか「自分が納得できないことに同意するな」とか、そういう掟であれば、それをどんな状況においても貫くことには、とくにそれを実践するのが難しい状況においてもそれを貫くことには、意義があるでしょう。

そのような普遍性をもつ掟を、カントは「普遍的立法の原理」と呼びます。

君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

カント『実践理性批判

つまり、いつでも、どこでも、どんな状況でもそれを実践すべきと信じられる掟を、自分自身に立て、実践せよ、ということです。

 

解説が長くなりましたので、まとめます。

どうすれば、あなたはカントのいう意味で自由=自律的になれるのか?

第一に、自分自身に立法すること。ある掟に自分を従わせようと、みずからの意志によって決めること。

第二に、この掟を、いかなる状況においても実践されるべき「普遍的立法の原理」として引き受け、つねにこの掟によって自分を律すること。

これができれば、あなたもカント主義者!

 

みずからに「立法」するエレン

カント的意味においても、エレン・イェーガーは自由=自律的な存在です。

エレンはエレン自身にたいする立法者でした。

戦わなければ勝てない 戦え」というのが、エレンの自己立法です。 

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6話「少女が見た世界」

 

戦わなければ勝てない 戦え」。

これは形式的には「AならばB」という仮言命法=条件つきの掟であるように見えます。

しかし、幼きエレンが心に抱いた掟は、人間の自由を奪う存在は許せない、許してはならない、それがどれほど強大な存在であっても、というものでした。

人間の自由を奪う存在は、それがどれほど強大でも、つまり無条件に、エレンは許さない。

そして、どれほど力の差があっても、戦う前から勝負を放棄してはならない。

そういう意味で、彼は「戦わなければ勝てない 戦え」と言っているのです。

だからエレンの掟は、その含意を考慮すれば、定言命法=無条件の掟なのだと判明します。

 

この掟にしたがってエレンは、ミカサをさらった誘拐犯を、二人も殺してみせました。

ところで『進撃』はファンタジー作品ながら、ストーリーのもっともらしさを巧みに演出しています。しかしどうも、この誘拐犯刺殺のエピソードだけは真実味が感じにくい。

アッカーマンという一種の改造人間の一族で、特殊能力もちという設定のミカサはまだいい。でもエレンには、自由の敵にたいする常軌を逸した怒り以外に、特別な能力はありません。 

10歳にも満たない子供が、自己防衛のためでもなしに、こんなに強固な目的意識をもって、大人を殺すことなんてできるだろうか? どうしても無理がある話に感じられます。

まあ、それほどにもエレンの人格は常軌を逸しているんだよ、と読者に示すための演出として理解しておきましょう。

 

で、この掟をエレンは、物語の最後まで貫く。

いまや彼は「自由を奪う敵は許せない」という怒りに身を焦がす「死に急ぎ野郎」ではありません。

進撃の巨人」の能力により(父グリシャから間接的に)未来の自分の記憶を見たエレンは、自問します。

もはや「地鳴らし」による壁外人類みなごろし以外に手段が残されていないとしても、それを実行することが倫理的に許されるのか、と。

そんなことをしたら、亡き母親にはどう思われるだろうか、と。

しかしエレンは、自分たちエルディア人が絶滅を受け入れるという選択肢を想像したうえで「でも...そんな結末 納得できない」と、鬼の形相になります。

その根本において実存主義者であるエレンには、わたしが生まれてしまったという偶然性を、エルディア人は死ぬべきであるという必然性によって否定することは、とうてい納得できなかったのです(0.7.b も参照)。

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131話「地鳴らし」

   

こうしてエレンは「戦わなければ勝てない 戦え」という掟を、壁外人類みなごろしという形で貫くことを決意しました。

エレンにとって「地鳴らし」は、カント的意味での自由=自律を貫徹することを意味したのです。

 

他者の自由を認めつつ、他者を否定するエレン

おそらくカントは困惑するでしょう。

自由な意志がみずからに立てる普遍的な掟は、かならずや他者を目的とする掟になるはずだと、そのようにカントは考えていたからです。

カントは次のような命法を、みずから考え出しています。

君の人格にも他者の人格にもそなわる人間性を、つねに同時に目的として用い、決してただの手段としてのみ用いることのないように行為せよ。

カント『人倫の形而上学の基礎づけ』 

 

この命法はカントによれば、先の「君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」 という同じ命法を、別の言葉で述べたものでしかありません。

自分の掟を、どんな状況においても従うべき「普遍的立法の原理」として実践せよ。これが第一の命法です。

他人を「ただの手段として」用いるな、つまり、自分が自由な存在としてこう扱われたいと思えるのと同じ程度に、他人をも尊重せよ。これが第二の命法です。

これらは、どうして同じ意味だと言えるのか?

第一の命法は、状況に応じて変化する情念から自分を解き放つことを含んでいるからです。

自分の利己心から離れて、自分の利害関心から自由に立てられた掟(第一の命法)は、自分のみならず、誰が実践してもよい掟ということになります。

したがって、この掟は、他人を同じように自由な存在として尊重せねばならないという掟(第二の命法)を、同時に満たすのです。

 

でも、エレンは自分自身に立てた「戦え」という法を徹底した結果、地鳴らしに行きついた

それは壁外人類のみなごろしであり、恐るべき規模における他者の自由の否定です。

エレンにおいては、普遍的な法をみずからに立てよという掟(第一の命法)と、自分と他人を同じように自由な存在として扱えという掟(第二の命法)とは、両立しないのです。

少なくともエレン自身は、この「戦え」という掟を、普遍的なものとして、つまり、いつでも、どこでも、誰が実践してもよい掟として考えています。

自分と同じ状況に置かれた者は、それがどんなに惨たらしい結果をもたらすとしても、戦いつづけねば、自由でありつづけねばならないと、エレンは考えているのです。

だからエレンは、ウォールマリア破壊の責任をみずから引き受けるライナーを、みずからの意志でそうしたのだと吐露するライナーを見て、「やっぱりオレは... お前と同じだ」と言ったのでした。 

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100話「宣戦布告」

 

こうしてエレンは、定言命法にしたがって、他者の自由を完全否定することを決断しました。

カントの信念、すなわち、わたしの自由は他者の自由と両立するという信念は、エレンの決断により裏切られてしまいました。 

わたしが利己心から離れ、普遍的な自由だけを追求し、それが他者の自由でもあることを認めたとしても、それが実際にも他者の自由の尊重につながるとは限らないことを、エレンは証明したのです。 

たしかに、この話はフィクションでしかありません。

しかしながら、巨人になる民族という非現実的な仮定がなければ、カントの構想する普遍的自由には例外は生じえないと、はたして言い切れるでしょうか?

(つづく)

 

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0.8.b エレンに自由意志はあったのか (下) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

まず「上」から読んでね!

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やっぱりエレンは「自由の奴隷」だった?

自由意志なんて白昼夢。必然性に従うことが自由。

自由になるためには、自由意志なんて「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ。

まさにこのスピノザ流「逆に考えるんだ」理論に立脚するならば、自分自身の自由意志に従っていると思い込むエレンは、ほかでもない「自由の奴隷」ということになります。

しかも、エレンが「自由意志」について語ったエピソードである112話の表題は「無知」です。

まるで、自由意志という信念を、白昼夢として、無知の表れとして見なした、スピノザをなぞるかのよう。

この話でエレンは「無知ほど自由からかけ離れたもんはねぇって話さ」と切り出したあとに、ミカサはアッカーマンの本能の奴隷だと告げました。

でも、ここで彼が言ったことは、あとで嘘だと判明します。

このシーンで「無知」であったのは、つまり「自由からかけ離れ」ていたのは、実はエレンなのです。 

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112話「無知」

 

ただし無知といっても、完全な無知ではありません。

むしろエレンは、ある面では、全てを知っていました。

すでに彼は、必然性を、すなわち、自分が地鳴らしを実行する未来の先にある「あの景色」を見ていたのですから。

でも、別の面では無知でした。

その未来にどうやって到達すればいいのか、彼は知らなかったのですから。 

この無知であった部分においては、エレンは必然性=「あの景色」ではなく、彼自身の「自由意志」に従ったのです。

 

ところで、ホッブズスピノザの自由論からは、次の命題が導き出されました。

必然性と自由は両立する。

必然性に従うことは自由である。

自分は自由意志に従っていると思い込む者は、むしろ自由ではない。

 

この命題にもとづくならばエレンは、必然性を半ばしか理解しておらず、残り半分においては自由意志に従っているのだと思い込んでいる点において、自由ではありません。

まさに「自由の奴隷」なのです。

実際にエレンは、まさに彼が自由意志で行為していると称する場面において、まったく自由ではなかった

だって、みずからの目的に反することをしたのですから。

自分が大切に思っているはずのミカサとアルミンに、ひどい仕打ちをしてしまったのですから。

それが目的を達成するために必要なのかどうか、よく分からないまま、エレンはこのときはその場の勢いで、愚かなふるまいをしてしまったのです(139話も参照)。

  

反必然論としての実存主義

ただし、エレンが「自由の奴隷」だというのは、あくまで必然性としての自由という考え方の内部でのこと。

しかしながら実存的自由は、この考え方と相容れません。

実存主義によれば、人間とは偶然的な存在なのですから。

 

 人間存在の根本的な偶然性を否定する者を、サルトルは「卑怯者」「下劣漢」と呼びます。

こうした人たちは、外的な道徳規範をではなく、人間の条件それ自体を否定するかぎりにおいて、卑怯、下劣なのです。

自分の全面的自由に目を覆う人たち、それを私は卑怯者と呼ぼう。自分の存在は……偶然性にほかならないのに、それが必然であることを証明しようとする人たち、それを私は下劣漢と呼ぶ。しかし卑怯者も下劣漢も、厳密な本来性の面においてのみ裁かれうるのである。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」  

 

実存的自由とは、外的原因が意志や行為を決定することを無視するのか?

そんなことはありません。

サルトルは、社会環境のような要因を無視しませんでしたし、むしろ階級闘争や人種差別の問題を熱く語りました。

ただし彼は、事実問題としては人間が決定されていることを認めたとしても、しかし倫理的問題としては、人間を必然性の産物と見なすことを拒否したのです。

 

決定論は、事物の運動のように、人間の行為もまた、ある種の物理的な因果関係のなかにあるという議論にすぎません。

しかし必然論は、偶然性のなかでなされた行為は無意味であり、必然性のなかにある行為だけに価値があるという、一種の道徳的判断を含んでいると言えます。

この判断が、さらに、偶然的行為であれ必然的行為であれ、人間の行為は事物の進行に影響を与えることができないという判断にまで達すれば、それは宿命論と呼ばれるでしょう。

そして実存主義と相容れないのは、偶然性のなかで行為することは無意味であるという価値判断なのです。

 

人間は偶然的に、たまたま生を享けたにすぎません。

超越的存在が「生きろ」と命じたわけでもないが、逆に「生まれるべきでなかった」などと断罪しているわけでもないのです。

だからこそ、人は自由に生きるしかない。

いや、むしろ「自由に死ぬ」ことも、それ自体として否定はされない。

問題は「仕方なくこう生きる」と言い訳することや、あるいは「仕方なく死を選ぶ」と言い訳すること、つまり必然性という仮定に屈することなのです。

それは、偶然的だが、かけがえのない実存としての自己への裏切りなのです。

 

したがって、実存主義者のスローガンは『もののけ姫』に逆張りしていた頃の富野由悠季と同じものとなります。

「頼まれなくたって、生きてやる!」

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反必然論者ユミル

『進撃』において、反必然論としての実存的自由をもっとも明確に体現しているのは、ユミル(104期生のほうの)でしょう。

ヒストリアに宛てた手記で、彼女は次のように自分の人生を意味づけました。

どうもこの世界ってのは ただの肉の塊が

騒いだり動き回っているだけで

特に意味は無いらしい

そう 何の意味も無い

だから世界は素晴らしいと思う

再び目を覚ますと そこには自由が広がっていた

私は そこから歩きだし 好きに生きた

悔いは無い (89話) 

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89話「会議」

 

ユミルは「意味のない」 世界にたまたま生まれた者として、偶然的であるがゆえに自由な存在として、自分を生き抜きました。

彼女は、世界の必然性を知りません。スピノザのいう自由な「賢者」ではありません。

しかし彼女は「自由の奴隷」でしょうか?

ユミルがそうではないとすれば、やはりエレンも「自由の奴隷」ではないのです。

前回見たように、彼を自由に駆り立てる根本的動機は「生まれてきてしまった」こと、つまり生の根本的な偶然性なのですから(0.7)。

 

それはまた、結局のところ『進撃の巨人』という作品そのものが、スピノザ的な自由を許さないということを意味します。

スピノザにおいて、必然性を知ることが自由なのは、必然性に従う生が真の幸福であるかぎりにおいてでしかありません。

しかし『進撃』の世界で必然性に従うことは、少なくともエルディア人にとっては、幸福の否定でしかありえないのです。

ユミルの対極に位置する必然論者、すなわちフリーダは、他の王位継承者と同様、エルディア人は来たるべき滅亡を消極的に受け入れるしかないと考える、破滅的な宿命論者だったのでした。

 

ユミルとフリーダの対比については、またいつか述べることがあるでしょう。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

0.8.a エレンに自由意志はあったのか (上) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

星とかつけてもらって、ありがとうございます。励みになります。

今日、考えてみたいのは、わたしの行為の原因が外部にあるとすれば、わたしは自由ではないのか? ということ。

すなわち、決定論や必然論の問題です。

スピノザホッブズの哲学に手がかりを求めることになるでしょう。

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エレンは自由の奴隷?

進撃の巨人』は「実存的自由の群像劇」である。

いかなる選択の余地もないように見える極限状況のなかで、エレンはみずから選び、登場人物たちもまた自分の選択に従った。

――前記事では、こうカッコよく言い切りましたが、はたしてこの読みかたに問題はないのでしょうか。

地鳴らし前後のころには、ネット掲示板で、よく見かけたものです。

「エレンは自由の奴隷」というコメントを。

一部の読者の揶揄にすぎないと、これを軽く扱うわけにはいきません。

 

ジークと合流しようとするエレンが、ミカサ、アルミンと話したシーンを思い出しましょう(112話)。

自分が何をしようと「オレの自由意思〔ママ〕が選択したものだ」と宣言したうえで、エレンはアルミンを(彼に喰われた)ベルトルトの意志の奴隷と、ミカサをアッカーマンの本能の奴隷と、急にディスり倒したのです。

怒りにふるえ彼に殴りかかるも、逆にボコされる、フィジカルの弱いアルミン。

彼にエレンはこう言われてしまいます。

「...どっちだよ クソ野郎に屈した奴隷は...」と。  

この一言は、ちょっとエレンに刺さったようです。

ここでは作者・諌山自身が、エレン=「自由の奴隷」説をほのめかしているようにも読めます。(なお、このエピソードの題名「無知」はよく覚えておいてください。)

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112話「無知」

 

さらに次のシーン。

始祖の力を解放し、地鳴らしをはじめたエレンがマーレに到達。その姿が露わになりました。

まるで巨大な骨のムカデのようですが、本体である進撃の巨人は、糸で吊られることで姿勢を保っているのです。

この造形には、自由を求めるエレンが、本質的には、常軌を逸した目的を達成することに駆り立てられた操り人形である、という皮肉が込められているように見えます。

記憶によれば、ネット掲示板でもそういう感想が散見されました。

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130話「人類の夜明け」

 

しかしながら、どういう意味でエレンは「自由の奴隷」だと言えるのでしょうか?

まず考えられるのは、エレンは自分の意志を貫こうとしているが、そのせいでかえって自由に選択できていないという意味。

自由のためには地鳴らししかない、という考え以外に意識を向けることができず、この考えに縛りつけられているということ。

しかし、すでに述べたとおり(0.6)、実存としての人間は、他の選択肢がないような状況においても、選択することからは逃れられません。

もしエレンが常軌を逸した執念に縛られているとしても、実存的に見れば、彼はそのような自分を選び、そのような自分になったのであって、やはり自由なのです。

 

自由意志

エレンの意志が自由であることは、哲学的な自由意志論にもとづいて説明することもできます。

この主題をめぐる長い歴史をもつ哲学議論を詳しく見る必要はなく、次の点だけを確認しておけば十分でしょう。

人間は自由意志をもつ。なぜなら(地上の被造物においては)人間だけがみずからの行為に責任をもつことができる存在だから

 

古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で言います。

ある行為が善いとか悪いとか、それに徳(アレテー)があるとかないとか言えるのは、その行為が、他のものからではなく、行為主みずからの意志から出てくる場合のみであると。

(みずからすすんで行う人助けは善だが、他人に命令されておこなう人助けはとくに善いことではない。)

ストア派の哲人エピクテトスいわく、外的に決定されるものごとに心を動かされず、自己の内的原因すなわち意志を自然の法則のみに従わせることが、人を自由にするのです。

最大の教父哲学者アウグスティヌスによれば、原罪により堕落した人間には、神の恩寵なしに善くあることは困難なのですが、しかし原罪が自由意志を無効にしたわけではないので、やはり悪の責任は行為者自身に帰されねばなりません。

 

アリストテレスエピクテトスアウグスティヌスに共通する観念は、これです。

意志とは、行為主のなかにある行為の原因である。

そして意志が自由であるならば、この意志から発した行為は、その善悪を問われ、その責任を行為主に帰すことが可能な行為として成立するのです。

 

それをふまえると、自分の行為は「オレの自由意志が選択したもの」だというエレンの宣言は、自分の意志が他人に縛られていないと言いたいだけでなく、行為の責任を自分自身で引き受ける覚悟のほどを表現するものとしても理解できます。

自由意志という概念は、みずからの行為の責任を行為主が自覚することを促すのです。 

この点にかんして、意志の自由は「わたしはみずからの責任において選ぶことから逃れられない」という実存的自由とも共鳴すると言えます。

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112話「無知」

 

意志の外的原因 

しかし「自由の奴隷」説が、自由を欲する執念に囚われたエレンの心という皮肉以上の意味をもっているとすれば、どうでしょうか?

つまり、エレンは自分自身の意志に従っていると信じているけれど、しかし彼の意志そのものが、実は外的に決定されているのではないか、という問題です。

 

物体のあらゆる運動に原因があるように、「~したい」「~しよう」という欲求や意志にも、原因があります。

エレンの「地鳴らしするぞ」という意志も、例外ではありません。

進撃の巨人の継承者は、過去の継承者に、時間を超えて記憶を共有できます(121話)。

くわえて、すべての知性巨人の継承者は、巨人化の能力とともに、先の継承者から記憶をも引き継ぎます(それを自由に思い出せるわけではないにせよ)。

このような、巨人継承者たちのあいだに生じる記憶の伝達作用によって、エレンは父親グリシャの記憶をつうじて「未来の自分の記憶」を見ました。

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121話「未来の記憶」

 

この複雑な記憶伝達の作用をつうじて垣間見た「あの景色」 が、エレンの「地鳴らしするぞ」という意志の原因だったのです。

この原因は、内的と言えるでしょうか、それとも外的でしょうか?

それは「未来の自分の記憶」ではあるにせよ、自分の意志とは無関係に(ヒストリアとの接触をきっかけに)降ってきた、まったく外的な原因だというべきでしょう。

 

しかしながら、意志が外的原因に決定されているというのは、考えてみれば当たり前のことです。

昼ご飯に松屋のカレーを食べるぞというわたしの意志は、空腹という生理的要因や、松屋が近隣にある環境に住んでいることなど、意志以外のさまざまな要因に規定されています。

いかなる外的要因もなしに作られる意志なんて、ありえません。

でも、そうだとすれば、自由意志なんて存在しないという結論になってしまう。

エレンは「自由の奴隷」だったということになってしまう。

はたしてそうなのか?

 

必然性としての自由 ~ ホッブズの巻

意志が、つまり行為が、それに先行する外的原因によって決定されるという考え方は、決定論と呼ばれます。

決定論と自由の関係をめぐって、哲学者たちの意見は分かれます。ここでは二系統の意見を取り上げましょう。

第一に、外的原因により意志が決定されることと、人が自由に行為することは、両立するよ派。これはホッブズ(1588-1679)の見解です。

第二に、自由意志なんて存在しないし、そんなものないと考えたほうが自由になれるよ派スピノザ(1632-1677)の見解が、これに当たります。

 

第一の、いわゆる両立論の立場をとるホッブズによれば、人間の心はつねに、さまざまな対象へのさまざまな欲望と嫌悪とに動かされています。外的な対象が原因となって意志を決定するのです。

ただし、同一の対象について、それを欲し、かつ避けようとするという、矛盾した情念が生じることは珍しくありません。たとえば、好きな人にコクるかどうか悩んでいる人の心がそうです。

こういうとき、人間は熟慮します。熟慮のうえで、ある対象への最終的な意志を決定するのです。コクってうまくいったらどうなるか、振られたらどうなるか、二つの結果を予想しながら、どうするかを慎重に選びます。

このような熟慮にこそ人間の自由はあるホッブズは考えるのです(『リヴァイアサン』6章)。

そしてホッブズの定義によれば、自由とは、行為を妨げられないことでしかありません。それゆえに、ホッブズは断言します。「自由と必然は両立する」と。

自由と必然は両立する。水において、それが水路によって下る自由だけでなく、その必然性があるように、人間が意志しておこなうことにおいても同じなのである。

ホッブズリヴァイアサン』21章 

この線で考えるならば、エレンの地鳴らしは、外的に決定された意志の結果であり、偶然的ではなく必然的な行為なのですが、それでもやはり自由な行為なのです。

彼はそれをおこなうかどうか熟慮できたし、いろいろな妨げを排除してそれを現に実行できたのですから。 

 

必然性としての自由 ~ スピノザの巻

第二の考え方は、必然性について、もっと強い主張をおこないます。

すなわち、必然性に従うことこそが自由であるというのです。 

スピノザは、自由意志、自由な決定という観念を、白昼夢と変わらないものと見なします。

わたし自分の心の自由な決定にしたがって、何かをしゃべったり、黙っていたりと、さまざまなことをしているのだと信じている者は、目を開けながら夢を見ているに違いない。

スピノザ『エチカ』3部

しかし人は、この自由意志という夢から覚めて、真の自由を得ることができる。

無知の者たちは、外的な原因に振り回されるだけ。

それにたいして、精神の自由に達した「賢者」は、世界を「永遠の必然性」において知ることで、精神の「真の満足」に達するのです。

無知の者は、外部の諸原因に揺り動かされ、決して精神の真の満足を享受しない......。これに反して賢者は......ほとんど心を乱されることがなく、自己、神、および事物を、ある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、つねに精神の真の満足を享受している。 

スピノザ『エチカ』5部

 

わたしは自分自身の意志に従っている、だからわたしは自由だ、じゃと?

何を抜かしよるか、たわけもんがー!

世界のすべては必然的にこうなっていると理解するのじゃ。

さすればおぬしは、もう何にも惑わされぬ。

それが本当の自由なのじゃ。

――こんなかんじです、スピノザの言っていることは。

(ジイさん口調はノリです。ほんとはスピノザは若死にです。)

 

前回取り上げた「真理があなたがたを自由にする」(0.7)も思い出されます。

ただしスピノザにおいては、その「真理」が必然性として把握されている点が、もっとも重要です。

自由になるためには、むしろ自由意志にこだわらず、必然性を受け入れろと、スピノザはいうのです。

「逆に考えるんだ 〔自由意志なんて〕「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ」

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(つづく)

 

ついでに一言。

最終巻「スクールカースト」のギーク・アルミン、ネットの議論をエミュってて草ァッ!

作者もいろんなネットの評判は気にしてたんだろうな。

へたにぶれずに、よく描いたなあと思います。

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

 

0.7.b 実存的自由の群像劇 (下) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

分割しました。「上」から読んでね!

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「この世に生まれてきてしまったから」

エレンはファルコに言います。

みんな「何か」に背を押されて「地獄に足を突っ込む」。

だいたいの人は他人や環境に強いられてそうするのだが、しかし「自分で自分の背中を押した奴」は、地獄の先にある「何か」を見ているのだと(97話)。 

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97話「手から手へ」

  

さらにエレンは「自分で自分の背中を押した奴」が自分だけではなかったことを知ります。

彼が「巨人の駆逐=自由の奪還」を誓ったきっかけである、ウォールマリア破壊をしでかした張本人ライナーは、自分の所業が自分自身で選んだものであることを吐露します――人格障害(解離性同一症でしょうね)に陥るほどに自分を苦しめた、逃れられない罪悪感とともに。 

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100話「宣戦布告」

 

ヴィリー・タイバーもまた「自分で自分の背中を押し」て、パラディ島に世界連合軍を送り込むことを訴えます。 

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100話「宣戦布告」

 

エレンが地鳴らしを選んだ理由は、何でしょうか。

それは、ここでヴィリーが「自分で自分の背中を押」すことを決めた理由と同じです。

彼の言葉を聞いたエレンの、諦念とも共感とも取れる絶妙な表情が、それを物語っています。

ヴィリーは吐露します。「できることなら生まれてきたくなかった」と。

でも、生まれてしまった以上、選ばないことはできないのです。

私は他の誰よりも... エルディア人の根絶を願っていました

...ですが 私は死にたくありません

それは... 私がこの世に生まれてきてしまったからです (100話)

これは、人間は生来、自由である権利をもつ(消極的自由)という宣言でも、自由に生きることが人間の生まれつきの本質である(積極的自由)という主張でもありません。

わたしが生まれたことはたんなる偶然であって、いかなる目的も本質も、わたしの生にあらかじめ与えられてはいない。

だからこそ、わたしの生に意味を与えるのは、他の誰でもない、現在しているわたし自身である。

つまり、この「私がこの世に生まれてきてしまったから」は、実存的自由の宣言なのです。

 

実存的自由の群像劇

こうしてエレンは、ライナーは、ヴィリーは、地獄に向かって「自分で自分の背中を押」しました。

彼らは、いかなる選択の余地もないように見える状況のなかで、自由に、実存的意味において自由に、行為しました。

その結果、ライナーは逃れられない罪悪感を背負い、ヴィリーは殺され、そしてエレンは地獄を壁外の人類全体に作り出します。

 

彼らだけが、この作品における実存的自由のドラマの演じ手なのか?

そんなことはありません。

主だった登場人物たちは皆、本作を「実存的自由の群像劇」たらしめる、魅力ある演者たちなのです。

 

「内地」の特権的生活にあこがれ、憲兵団を目指し、エレンを「死に急ぎ野郎」と揶揄してはばかることもなかったのに、トロスト区で巨人に喰われて虚しく命を散らした親友に報いるため、調査兵団に入ることを決意した、ジャン・キルシュタイン。 

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18話「今、何をすべきか」

 

集団生活になじむため不自然な共通語で話しながら周囲の反応をうかがう自分も、巨人への本能的恐怖にふるえる自分も振り切って、「走らんかい!!」の叫びとともに、少女を助ける兵士としての自分を選び取った、サシャ・ブラウス。

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36話「ただいま」

  

その身に「神を宿せ」という父の 「祈り」を振り捨て、「これ以上... 私を殺してたまるか!!」と啖呵を切り、私は「超悪い子」だけど「自分なんかいらない」と泣いてる人は誰だって助けたいと、みずからの心の底からの願望を吐き出した、ヒストリア・レイス。 

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66話「願い」

 

「誰か僕たちを見つけてくれ」と自分を翻弄する運命を嘆くことをやめ、「こんな地獄はもう僕たちだけで十分だ」と腹を決め、他でもない自分自身の意志で「大切な仲間」を「ちゃんと殺そうと思ってる」と宣言した、ベルトルト・フーバー。 

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78話「光臨」

 

理不尽な世界に絶望し、何もかもがどうでもよいと思っていた自分に別れを告げ、父親との再会のために「取り返しのつかない罪」を犯すことを選んだ自分にようやく責任を負うことができた、アニ・レオンハート。

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125話「夕焼け」

 

巨人にされた母親を助けるために「子供と友達を殺す」かもしれなかった自分を悔い、「母ちゃんに誇れる兵士」になるため、自分がなすべきことを選びなおした、コニー・スプリンガー。 

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126話「矜持」

 

彼らは、そして本作において実存主義的ドラマを演じるすべての登場人物は、ままならない状況に翻弄されながら、それでも自分自身を、自分自身で選び取るのです。

そうすることで彼らは、絶望に覆われた世界に一条の光を放つ特異な個となるだけではありません。

この残酷な世界においてどうすれば人は人間らしく生きられるのかを、少なくとも彼ら自身がその模範と考えるものを、身をもって表現するのです。

 

実存的自由の哲学サルトルは言います。

人は「自分の道徳を選びながら自分を作っていく」と。

さらに人は、そうすることによって「全人類を選択する」のだと。

各人はみずからを選ぶことによって、全人類を選択するということをも意味している。

人はこうあろうと望む人間を作ることによって、同時に、人間はまさにこうあるべきだと考えるような、そういう人間像を作らない行為は、一つとしてない。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

 

『進撃』世界の人物たちが繰り広げる「実存的自由の群像劇」。

それは「罪の奴隷」である人間たちの、「洞窟の囚人」である人間たちの、群像劇です。

そのような人間たちが「罪」あるいは「洞窟」のただなかで、価値ある自由を、人間的と呼ぶに値する自由を、どうやったら作り出せるのか。 

それを彼らは、この「群像劇」で実演してみせているのです。

 

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0.7.a 実存的自由の群像劇 (上) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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『進撃』の自由観の転換

あなた、 言いましたよね? 『進撃』世界の自由観は「積極的自由」なんだって。

エレンの「オレたちは生まれた時から自由」は『進撃』流の「人間賛歌ッ!!」なんだって。

そのはずが、舌の根もかわかぬうちに、エレンの自由は実存的自由って、どういうこと?

しかも実存としての自由は、人間の本質としての自由、「人間賛歌ッ!!」としての自由観とは対立するんですよね?

それじゃ、あなたの言っていることが矛盾しているってことに、なりはしませんでしょうか?

口から出まかせにも、程が過ぎるんじゃありませんこと?

 

はい、こういうツッコミが来るだろうことは、よーく承知しております。

でも、この作品はそういう作品なんです。

まず積極的自由の理想が高く掲げられます。

この理想に鼓舞されて、悪戦苦闘を潜り抜け、エレンたちは自由に近づくのです。

でも結局、この理想(その光の部分)は、はかなく消え去ってしまいます。

極限状況のなかで、エレンは、そして仲間たちは、それでも自由でいないことはできない選ばないことはできない

こうして『進撃』の物語の基調は、誇り高くもグロテスクな「積極的自由の英雄譚」から、いわば「実存的自由の群像劇」へとシフトしていくのです。

 

本作における自由観の転換を集約的に表現しているのは、ヴィリー・タイバーのセリフです。

彼は言いました。「私は死にたくありません それは... わたしがこの世に生まれてきてしまったからです」と。

これを聞いて、目を見開かされるエレン。彼が驚くのは、この言葉が、この時点のエレン自身を駆り立てる理由であるからです。  

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100話「宣戦布告」

 

このセリフもまた、人間はみな生まれながらに自由であるという宣言に聞こえるかもしれません。

それはそうなのですが、しかしこれは、かつてのエレンの「オレたちは生まれた時から自由」とは決定的に違うのです。 

この違いを明らかにするために、本作の基調をなす自由観の変化を辿ってみましょう。

 

世界の真実を知るための戦い

エレンが自由をわがこととして知ったのは、壁の外の世界を見たいというアルミンの夢に感化され、自分は壁外の不可解な脅威のせいで自由を奪われているのだ、と自覚したときでした(0.2)。

このとき以来、エレンは自由を奪う存在への強烈な怒りを抱きつづけます。

ミカサを拉致した人身売買業者を刺殺してしまうほどの怒りを(6話)。

この怒りは、彼が10歳のときにウォールマリアが破壊され、母カルラが巨人に食い殺されたことにより、「巨人を駆逐する」という強烈な目的意識に置き換えられます(1話)。

巨人と戦い、自由を奪還する。これが哲学的には「積極的自由」の追求であるということは、すでに論じました。

 

壁外の巨人との戦いが続くあいだ、エレンの目的はシンプルに、巨人との戦い=自由の奪還でした。

しかし、彼が属する調査兵団は、少なくともその指導者エルヴィンは、たんに巨人と戦うだけでなく、壁内人類が知らない世界の真実を明らかにすることを目指していたのです。

エルヴィンは鋭く洞察します。

エレンの存在は、知性ある巨人、つまり人間である巨人が、他にもいることを意味する。

たとえば、意図的に壁を破壊した巨人たちがそうだろう。

トロスト区での超大型の出現のタイミングを考えると、巨人になれる人間たちが兵団組織のなかに紛れ込んでいる疑いがある。

エレンは恐らく彼らにとっても想定外の存在。だとすれば、彼らはエレンを放っておくだろうか。

ここまでのことをエルヴィンは、104期生加入後初の壁外調査(実は女型の巨人捕獲作戦)までには推察していたのです。  

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20話「特別作戦班」

 

そしてこの人もですね、ハンジさん。 

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巨人博士のハンジさんは、ただの奇特な巨人オタクではなく、壁内人類が自由を奪還するためには、巨人そのものを理解する必要があると考えているのです。

知ることこそが、戦いの要になると信じているのです。

(ところで、なんでハンジさんとクサヴァーさんは、さんづけにしてしまうんだろう。自分だけかな。)  

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20話「特別作戦班」

 

「憎しみを糧にして攻勢に出る」よりも真実を知ることを目指す調査兵団のなかでは、エレンの戦いは、敵の巨人との勇猛果敢な格闘というわけには、どうしてもいかない。

現にエレンの戦いは、彼がおとりになったり、さらわれたりと、主人公らしからぬ無様なものばかり。知性巨人どうしの格闘では負けの連続。見ていてフラストレーションがたまります。

巨人化という特別な力を、仲間のうちで持っているのはエレンだけ。

それなのに、彼は長い間、自分の特別な力をほとんど活かせないままなのです。

自分が巨人化できると分かった当初こそ、エレンは自分を特別視し、その場の勢いとはいえ「いいから黙って全部オレに投資しろ!!」などと軍法会議で言い放ってしまいました(19話)。

しかし後に、彼は自分の力の正体を知ります。それは、なにやら世界の真実を知っているらしい父親グリシャによって、壁内人類の真の王家から奪い取られた力であり、しかもどうやら王家の手中になければ意味のない力でした。

これを知り、エレンは絶望します。自分は特別どころか、不必要な存在であったと悟るのです(65話)。 

もっとも最終的には、エレンはみずからの特別な力の「真価」を発揮できるようになります。まあそれは、人類みなごろしができる力なんですけど。

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65話「夢と呪い」

 

ここで重要なのは、調査兵団が世界の真実を知るまで、エレンの「特別な力」そのものは壁内人類が自由を奪還するための要ではなかったということです。

グリシャの地下室に到達すること、そこに眠っている壁外世界の真理を呼び起こすこと、それが自由への扉を開く鍵だったのです。  

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72話「奪還作戦の夜」

 

「真理があなたがたを自由にする」

 人を自由にするのは真理であり、人を奴隷にするのは無知である。

およそ2000年前、そう人々に告げたのは、ナザレびとイエス。彼の言葉は、弟子たちに福音として記録され『聖書』の一部となりました。 

そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

......よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。

ヨハネ福音書 8:32, 34

 

さらに400年以上前、同じことを述べたのは、哲学者の代名詞、ソクラテスでした。あるいは、彼の口を借りた彼の弟子、プラトンでした。

対話篇『国家』のソクラテスいわく、 人間たちは洞窟の中の囚人のようなもので、その壁に映し出される影を真理と思い込んでいる。

しかし、たまたま拘束を解かれた者が、洞窟の外があることに気づき、外界の光に目を眩ませつつ、苦労しながら真の世界を見る

そして、すべてのもの(=すべての善いもの)をその真の姿において見ることを可能にするのは太陽であること、つまり光そのもの(=善そのもの、善のイデア)であることを知る。

他方で、洞窟に留まっている人々は、自分たちが囚われ人であることを知らない。光そのもの、善そのものなんて知ろうとは望まない。

それでも光そのものを見た者は、善くあろうと欲するなら、ふたたび洞窟に降りていき、人間全体を無知から解放せねばならないのです。

―― ......すなわちまず、最もすぐれた素質をもつ者たちをして......上昇の道を登りつめて善そのものを見るように、強制を課すということ。そしてつぎに、彼らが......善をじゅうぶんに見たのちには......現在許されているようなことをけっして許さないということ。

―― どのようなことを許さないと言われるのですか?

―― そのまま上方に留まることをだ。

プラトン『国家』第7巻 

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洞窟の寓話(プラトン

 

『進撃』に話を戻すと、無知のままでは、壁に引きこもりつづけても、壁外の巨人に虚しく挑み続けても、人類は自己決定を奪われた奴隷のままです。

だから、自由を奪還するためのエレンや調査兵団の戦いは、自由を阻む敵を倒すことではなかった。

それは世界の真実を知るための戦いだったのです。

この真理が、知性巨人やレイス家・中央憲兵団との争いをつうじて少しずつ露わになるにつれて、彼らは一歩ずつ自由へと近づいていったのです。

そして、調査兵団がグリシャの地下室(=世界の真実)に到達したあと、パラディ島をさまよう無垢の巨人たちは、一年のうちにほぼ一掃され、いなくなります。

壁内人類は、無知から脱したことで、巨人の脅威から、不可解な運命から解放されたのです。

「真理はあなたがたを自由にする」。

 

無知であるから人間は選ぶ

ところが、グリシャの手記と、それに触発されてエレンの意識に呼び起こされたグリシャの記憶とがもたらした真理は、善のイデアでも、神の愛でもありませんでした。

それは残酷な真実、すなわち、世界中の人類が「ユミルの民」に向ける強烈な憎悪だったのです。

壁の外には、アルミンが夢見るような、ロマンティックな自然世界が広がっているはずでした。 

でも実際には、壁の向こう側には、ささいな自由を求めた少女が犬に食い殺される世界しかない。

この残酷な世界の「記憶」を、エレンは覗き見てしまったのです。

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90話「壁の向こう側へ」

 

いまや知らねばなりません。

この絶望的な世界から、どうやって人間たちは抜け出せるのかを。

無知と憎しみのなかにある人間たちは「罪の奴隷」「洞窟の囚人」です。

この状態から解放されるためには、人類は憎み合うことをやめねばなりません。

しかし、このフィクション世界においては、このことを不可能にする厳然とした事実がある。

「ユミルの民」エルディア人が、巨人化し人間を喰う種族であることです。 

この点にかぎれば、エルディア人への憎しみは、無知ではなく、真実にもとづいているのです。

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106話「義勇兵

 

ここでは、もはや「真理があなたを自由にする」は通用しません。

どうすればいいか、誰も分からない。

それでも、この無知の状態において、何をするかを選ばざるをえない

束の間、残酷な真実から逃避すること(レイス家の選択)は、一見すると、何もしない消極主義ですが、 しかしそれも一つの選択です。選ぶことからは逃れられない

こうして、女型の巨人襲来のときと同様、実存的自由が問題となる切迫した状況に、エレンは陥ります。

そして彼は選びました。壁外の人類をみなごろしにする「地鳴らし」を。

(つづく)

 

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0.6 実存的自由 ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

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『進撃』世界の人物たちは、干渉されない自由というよりも、積極的自由、すなわち自己決定の状態としての自由を求める。

自由でなければ、人間は人間らしく生きることができない。「家畜」や「鳥籠」の鳥と同然になってしまう(0.2)。

ところが、苛酷な運命に抗して自由になるためには、あえて人間らしさを捨てねばならない(マキャベリスト 0.3)。

さらには、自由を知らない者たちを、強制してでも、自由の状態に連れていかねばならない(パターナリスト 0.4, 0.5)。

こうして、人間らしい自由という理想は、人間らしさの放棄、さらには自由そのものの圧殺にすら結びついてしまう。

 

......これが『進撃の巨人』という作品で表演される自由のすべてなのか?

否! これで話がおしまいなら、筆者はこのブログを書こうとは思わなかったでしょう。

 

積極的自由の概念は「人間」のために現実の人間を否定する危険性を含んでいます。

これを自由の逆説、とでも呼ぶことにしましょうか。

しかし、この逆説に挑戦する、もう一つの自由の概念があるのです。

そのよりどころを「人間」ではなく、現実の、そこにある、たった一人の特異な個としての人間に置く、そのような自由の概念があるのです。

在する人間の自由、すなわち実存的自由と名づけるべき概念が。

 

実存的自由

実存主義の哲学者や文学者といえば、あなたは誰を思い浮かべるでしょうか。キルケゴールニーチェドストエフスキー、それともハイデガー

しかし、実存的自由の哲学者といえば、この人より先に名が挙がる人はいないでしょう。

そう、ジャン=ポール・サルトル(1905-80)です。

「実存は本質に先立つ」と宣言した、あのサルトルです。

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積極的自由は「人間らしい状態」という理想と不可分であって、それは人間の本質と呼ばれるべき何かを想定に含めています。

エレンは言いました(0.2)。

壁のなかでメシ食って寝て生きているだけじゃ、家畜と変わらないじゃないか、と。

巨人と外部の敵に奪われた壁内人類の領土は取り戻せる、なぜなら「オレたち」は「生まれた時から」自由だから、と。

こうしてエレンによれば、自由とは、他の動物ではなく「人間」として生まれた者の本質なのです。

あるいはヒューマン・ネイチャー、つまり人間「本性」、人間の「自然」という言い方もあります。

 

ここで、セーヌ河左岸のキャフェでパイプをくゆらすサルトルに、この積極的(エレン的?)自由観をどう思うか聞いてみましょう。

きっと、彼はこう返すはずです。

ハァ? なーにが人間の本質だ、しゃらくせえ! そんなもんあるかい、てやんでぇ!

人間の本質なんつーもんは、坊主のお説教と変わんねぇ。あいつら、神が人間を平等に作りたもうたとか、だから人間は自由になる「ために」存在しているとか、あーだこーだ抜かしやがる。

そんなこと言うやつぁ、人間を人間以下に貶めているのが分かってねぇんだよ!

だって、神の偉大な目的の「ために」人間は作られたってぇのは、人間が紙を切る「ために」ペーパーナイフは作られた、っつーのと変わんねぇもんな。

人間は道具じゃねぇ! 人間が何の「ために」存在するかは、その人間自身が決めるんだ。その人自身が決めるしかねぇんだ。 

人間の本質なんて「飾り」です。偉い人にはそれがわからんのですよ。」

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......キャフェの文人サルトルのキャラが色々変わってしまいましたが、この「実存は本質に先立つ」という命題こそが、実存的自由を理解するカギです。

サルトルに、彼自身の言葉でちゃんと語ってもらいましょう。 

実存は本質に先立つとは……人間がまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」 

www.jimbunshoin.co.jp

 

人間は、その「本質」において自由、ではない。

人間は「まず存在」し、あくまで「そのあとで定義される」。

誰が定義するのか? 偉大な哲学者か? 否、その人間自身がみずからを定義するのだ。

それがサルトルの言いたいことです。

とすれば、どういうことになるか?

「人間は自由である」と一般化はできなくなる。

「人間賛歌は「自由」の賛歌ッ!!」(0.2)とは言えなくなる。

具体的な個々人が、現実に自由な人間として存在しているかどうか。それしか言えなくなる。

 

しかし、サルトルは人間の自由を否定したいのではない。

「人間の本質」としての自由を否定しただけです。

彼によれば人間は、すでにその「実存」において自由であります。

実存的自由とは、人間は自由ではないことはできない、という命題に要約できます。

実存的自由には、善い、悪い、という価値判断を与えることができません。

「オレたちは生まれた時から自由」という主張、すなわち、自由が人間の自然本性であるという命題は、自由=善という価値判断を前提しているのです。

その一方で、人間は自由ではないことはできないという命題は、その自由が善か悪かという価値判断を含んでいません

 

それが善いことか悪いことかの保証もなく、ただ人間には自由であることしか許されない。

だからこそ「人間は自由の刑に処されている」(l'homme est condamné à être libre)とサルトルは言ったのです。

われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処されていると表現したい。……実存主義者は、人間は何の拠りどころも助けもなく、刻々と、人間を作りだすという刑を科されているのだと考える。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」 

だとすれば、ある人間が善人になることも悪人になることも、究極的にはその人の自由な選択の帰結ということになる。

サルトルいわく、実存主義者が「卑劣漢」を描くときには「この卑劣漢は彼の卑劣さにたいして責任がある」(同上)ことが前提されています。

逆にいえば、わたしは誰かに、こうすることが正しいのだからそうしなさいと命じられ、単にそれに従っているだけのつもりだとしても、実存主義者に言わせれば、それはわたしが、これを服従すべき命令であると判断し、それに従おうと選択したことの結果なのです――たとえその命令が「天使の声」として降ってきたのだとしても。

〔自分の息子を犠牲にささげよという、天使のアブラハムへの命令について、〕それが天使の声であると決定するのはつねに私である。……この行為は悪であるよりもむしろ善であると述べることを選ぶのは私である。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」 

 

実存主義文学としての『進撃の巨人

実存的自由というプリズムを通して読むと、この『進撃』という作品は、随所で、実存主義文学の趣を呈します。「実存主義小説み、あるわー」と思わせる要素が『進撃』にはあります。

ここでいう実存主義っぽさとは、自由であることに付きまとう「不安」に直面した個の葛藤が描き出されていることを指します。

これまで論じてきたように、本作では、積極的自由=人間らしい自己決定(人間の本質)としての自由というテーマも描かれるのですが、それをひっくり返すように、実存主義的な「自由と不安」というテーマが随所に現れてくるのです。

作者・諌山は人物の心理描写がうまいと評されているのを散見しますが、その理由の一部は、事態がみずからの自由な選択に委ねられていることを直視した個の不安を、作者が巧みに描いていることにあるのでしょう。

 

初記事では、女型の巨人が襲いかかる中、兵長が「悔いが残らない方を自分で選べ」とエレンに言い放つシーンを分析しました(0.1)。

リヴァイはエレンの「個の自由」を尊重しているが、しかしそれは「仲間全員の命がかかっているところで、お前自身が選べ、兵士ではなくエレンであるお前が選べ」と呼びかける、とてもおっかない「個の尊重」なのだと説明しました。

リヴァイのセリフによって、巨人化の力をもつヒヨッ子エレンは、実存的な葛藤のなかに放り込まれます。 

(本作においてリヴァイは、実存的自由をもっとも徹底的に実践している登場人物ですが、そのことを論じるのは別の機会にしましょう。)

 

リヴァイの「自分で選べ」を引き金に、エレンはリヴァイ班での巨人化実験の日々を回想し、「進みます!」と命令に従うことを選んだあと、女型の巨人に追跡されながら、自分の選択が正しかったのか自問します。

エレンは自分が自由に選択したことで、不安に駆られたのです。

なぜオレはこっちを選んだのか? 班のみんなは、リヴァイを信じて「全てを託してる」。ではオレは?

そして、こう気づきます。

そうだ... オレは... 欲しかった

新しい信頼を あいつら〔104期の仲間〕といる時のような 心の拠り所を...

もうたくさんなんだ 化け物扱いは...

仲間外れは もう... だから...

仲間を信じることは正しいことだって... そう

思いたかっただけなんだ ...そっちの方が

...都合がいいから(26話)

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26話「好都合な道を」

 

エレンの「選択」は、前進が正しい判断であることへの同意でも、他の班員のペトラたちのようにリヴァイへの信頼でもなく、たんに「仲間を信じることは正しいことだ」と思いたいという、わが身かわいさからくる願望にもとづくものでした。

エレンは確かに「選んだ」のですが、彼の判断の動機は、不安との対峙というよりは、不安からの逃避だったのです。

 

でも、次のシーンでエルヴィンの女型生け捕り作戦が大成功。

エレンにとっては、動機はともあれ、判断そのものは正解だった、ということになります。

今回の「選択」は、彼自身にとって成功体験になったのです。

 

でも、これでめでたしめでたしとはいかないのが『進撃の巨人』。

エレンの成功体験は、次の瞬間には最悪のかたちで裏切られてしまいます。

さっきと同じように彼は「仲間を信じる」選択をしますが、そのせいで仲間が女型にみなごろしにされてしまうのです。

この作者、絶対性格悪いよなあ。

 

女型の再来襲。

リヴァイなしのリヴァイ班に、エレンは先に逃げるよう命じられます。

ペトラに「信じられないの?」と問われ、エレンはふたたび仲間を信じることを「選び」、先に逃げます。

見事な連携で女型を追いつめる、ペトラ、オルオ、 エルド。

それを見ながら、エレンは「進もう」「それが正解なんだ」「オレにもやっとわかった」と自分を納得させます。

先ほど同じ判断をしたときは、不安から逃避するため、わが身かわいさのために、そう判断したのだとエレンは自省していました。でもここでは、そのことを彼は忘れています。

しかし次の瞬間、エレンの脳裏によぎったのは、他の班員たちが絶対の信頼を置くリヴァイその人が言い放った「俺にはわからない」という言葉。 

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28話「選択と結果」

 

まさかと思い、振り返ると......。

班員たちの経験則を裏切る回復力により立ち直った女型の巨人が、彼らを一瞬のうちにみなごろしにしたのです。 

こうしてエレンは、たまたま先の状況では結果論として正解だったにすぎない選択に信を置き、彼自身は不安から逃れるためにそう選択したにすぎないことを忘れたのですが、その代償として仲間を失いました

エレンは深い後悔に襲われながら巨人化し、女型に殴りかかります。

オレが... オレが選んだ
オレがした選択で皆 死んだ
オレのせいで... 皆が......(29話)  

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29話「鉄槌」

 

※ 併せ読みがオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

さて、リヴァイ班の仲間たちは、ほんとうに「オレがした選択」の結果、死んでしまったと言えるのでしょうか?

客観的には、そうではない。しかし実存的に言えば、それはエレンの責任なのです。

客観的には、エレンは二回とも、上官の命令に従ったにすぎません。

しかし実存的には、彼は命令に従うことをみずから選択しました

客観的には、エレンは組織のために行動したにすぎません。

しかし実存的には、彼は自分自身の利益のために、仲間と信頼で結ばれていると感じたいために、つまり不安から逃れたいために行動したのです。

 

しかし、エレンはこのことを自覚します。

つまり、この悲劇的結果を、みずからの自由な行為の帰結として引き受けます。

常識的な見方では、エレンは自由に選択したのではなく、命令に従っただけであり、その結果について彼が特に重大な責任を負うものではないはず。

しかしエレンはそれを、自分が命令に従ったのではなく選択した結果、つまり実存的には自由な行為から生じた結果として、しかもわが身かわいさゆえに別の正しい選択を怠ったことの帰結として、悔い、引き受けるのです。

ね、実存主義小説みがあるでしょう? 

 

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com