進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

5.6 ミカサ奴隷説のメタ視点的考察 〜 自由になることと人間であること

 

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ミカサは奴隷なのか

愛をつうじた解放への願い叶わず、永遠の奴隷となってしまった始祖ユミル(5.4を参照)。

かのじょは、最終回でのエレンの話によれば、ミカサの選択と行動を見ることによって救済されたのでした。

さらにミカサ自身のセリフ(単行本で加筆)により、かのじょがたびたび襲われていた意味ありげな頭痛は、ユミルが「私の頭の中を覗いていた」せいだったと判明しました(139話)。

侵入してきた巨人がエレンの母親カルラを喰ったとか(1話)、エレンが連れ去られたとか(45話)、アルミンが瀕死とか(84話)、おもに親密な人間が失われる場面で、ミカサが決まって襲われた頭痛です。

全場面を確認するのは面倒なので「ミカサ 頭痛」とか検索してもらえれば。

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45話「追う者たち」

 

この真相なんですけど、茶化すところじゃないんですが、このAAを連想しちゃってダメでした...。

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『進撃』の結末が明白に示しているのは、ミカサのエレンに対する執着が、フリッツ王に対するユミルの執着と、ある意味で同質であるということ。

それゆえにこそ始祖ユミルは、自分自身がなしえなかった自己解放を、ミカサが代行したのだと納得できたのです。

 

となると、ミカサもまた、愛情の関係において自由になることを期待する奴隷であったのでしょうか?

奴隷制社会には属していないにもかかわらず、ミカサは精神的には奴隷でしかなかったのでしょうか?

そのように意図して、作者・諌山はミカサを描いたのかもしれません。

作中ではエレンが、わざと幼馴染たちを突き放すためと後で判明するとはいえ、ミカサをどストレートに「奴隷」よばわりしました(112話、139話)。

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112話「無知」

 

結論からいうと、筆者はエレンに対するミカサの態度が奴隷的であるとは考えていません。

過去に述べたように、エレンに執着するミカサは「他律的」であったというべきです。

でも、すべての奴隷は他律的であるとはいえても、逆に、すべての他律的人間は奴隷であるとはいえません。

奴隷という語を精神的意味で用いるとしても、それはたとえばジークのような、自由を諦めきってしまった自己意識をそう呼ぶべきでしょう。

ところが、ミカサは半分はニヒリストであっても、しかしもう半分はニヒリズムに抗う自由な精神でした――作品を象徴するセリフ「世界は残酷だ そして とても美しい」に表現されているように。

 

※ 併せ読みがオススメ

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「設定の奴隷」としてのミカサ

作中の「ミカサ奴隷説」には、もう少し別の読み方を施す必要がありそうです。

ずばりミカサは、作者・諌山が考えたキャラクター設定の奴隷なのだと、筆者は考えます。

いままで作中人物をメタ視点(物語の外の、つまり作者や読者の文脈をもちこむ読み方)で分析することは慎んできたのですが、訳あって、この記事だけは例外とします。

 

まずミカサは、ものすごく強い「戦闘美少女」という設定です。

それもセーラームーンプリキュアみたいな特殊能力による強さではなく、身体能力(もちろん現実離れしたマンガ的なフィジカルですが)において、どの登場人物よりも群を抜いて強いのです(後から登場するリヴァイは除く)。

ミカサの強さの根拠は、ずばり、作品の設定としか説明できません。

つまり「巨人科学の副産物アッカーマン一族」というチート的設定です。

この設定ゆえにかのじょは、特別な労力(少年漫画でよくある「特訓」「修行」)を払う必要もなく、もちろん努力はしているにせよ他の仲間と同程度でしかないのに、それでも異常に強いのです。

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5話「絶望の中で鈍く光る」

 

そして、もうひとつのミカサのブレない設定は、エレンへの愛です――しかも、ちょっと過剰に重めの。

かのじょの行動原理は、エレンのそばにいること、エレンを守ること、これに尽きます。

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45話「追う者たち」

 

しかも、ちょっとしたヤンデレ気味の言動が、ミカサのエレンへの過剰な執着を印象づけるスパイスになっています。

エレンが立体起動装置の試験に合格した直後、アルミンたちの絶妙な表情を引き出した発言とか(16話)。

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16話「必要」

 

エレヒスの株価急上昇にミカサが静かに怒りをたぎらせ、そのホラー寄りの表情にヒストリアがビビりぎみのシーンとか(70話)。

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70話「いつか見た夢」

 

要するにミカサは、ものすごく強くて、かつ主人公にちょっと重すぎる愛をそそぎ、主人公を庇護することに力を全振りしてくれる美少女(やや地雷気味)という設定です。

しかも、このようなキャラ設定により、ミカサは作中でどんな役割を果たしているのか?

それはなによりも、主人公エレンの成長を支え、促すことに奉仕する、伴侶かつ保護者としての役割なのです。

 

いつもミカサはエレンに対して、過保護な親のようにふるまいます。

はねっかえりのエレンは、それをうっとうしく感じることもありました。

しかしそれよりも、かのじょに守られること、かのじょのように強くなれないことに、エレンはコンプレックスをもっていたのです。

しかしシガンシナ区決戦前夜までに、エレンは精神的に成長しました。

ミカサのような圧倒的強者への羨望は、自分を実体以上に大きな存在と思いたいという邪念の表れであったと理解したエレンは、この邪念をふっきって、自分自身にできることをやればよいと確信したのです(72話を参照)。

 

それだけではありません。

エレンが重要な試練に直面するときはほぼつねに、ミカサがかれを守り、助け、導いているのです。

巨人化の力に目覚め、トロスト区の穴をふさぐ役目を任されたのに、まだ巨人の力を制御できず暴走し、沈黙してしまったエレンを、無垢の巨人たちから守ったときにも(13話)。

正体が判明したアニとの対決のさい、かつての仲間が敵だったとは信じたくないエレンに、戦意を取り戻させたときにも(32話)。

王政編での自信喪失後、シガンシナ区の穴を硬質化によりふさいだのに、自分の成功に半信半疑のエレンに対して「あなたがやった」「自分を信じて」と声をかけたときにも(74話)。

 

その種のエピソードでもっとも知られているのは、あのライナーたちからのエレン奪還作戦での一幕ですね。

鎧の巨人が投げつけた無垢たちに囲まれ、調査兵団が絶体絶命の危機に陥るなか、負傷のため反撃がかなわず死を覚悟したミカサが「マフラーを巻いてくれて ありがとう...」と、エレンに感謝を告げたシーンのことです(50話)。

この言葉に再奮起したエレンは、偶然、始祖の巨人がもつ「座標」の力を発動し、窮地を脱するきっかけを作ることができました。

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50話「叫び」

 

「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロイン

以上の考察において言いたかったのは、次のことです。

うーん、こんなに純真でかわいいミカサちゃんを前にして、こういう言い方は気がはばかられるのですが...。

ミカサはとことん、主人公である男の子にとって都合がよすぎるキャラ設定なのですよ。

 

古い少年漫画では、ヒロインは主人公に守ってもらうかわりに、かれを愛する役と相場が決まっているもの。

そうやって主役=男を引き立てるのです。

ミカサの場合は、ある意味では正反対。

つまり、主役の男の子を守ってあげる役回りです。

でも、まさにそれゆえにこそ、往時の少年漫画のヒロインよりもさらに都合のいいキャラとして造形されているといえます。

だって、主人公を愛してくれるだけでなく、かれが試練に直面するたびに、かれを守り、支え、試練の克服へと導くことによっても、主役の男を引き立ててくれるのですから。

どんだけ男の自尊心をくすぐってくれちゃうの? って話ですよ。

 

かりにミカサを「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインと名づけることにしましょう。

こういう系統のキャラというと、他には、某・春秋戦国時代のマンガに登場する、女だけの暗殺者一族を抜け出したオニ強い少女が思い浮かびます。

この人も、ぶっちぎりで強いのになぜか主役を引き立ててくれるし(ヤンデレ要素はないですが)。

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こういう系のヒロインの元祖は、やっぱりエヴァンゲリオンあたりなんですかね。

筆者はエヴァにはどうもハマれず、ちょっと観た程度なので、なんとも確言できませんが。

 

それで、つまり何が言いたいかというと、この「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインこそ、まさに「設定の奴隷」だということです。

なんだか、主役の男を引き立てるために主役の男を愛している、そういう風に見えちゃうんですよね、ミカサの行動って。

エレンへの過保護さや、ちょっとヤンデレ入ってるところも含めて。

 

別の言い方をすると、作者にプログラムされたとおりに主役を好きでいてくれるというか。

マーレ編に入る前までは、ミカサはプログラムどおりに動くキャラ感が強い。

 

もちろん物語のなかでは、エレンを愛するそれなりの理由(かのじょを人さらいから救った衝撃的なエピソード)が描かれているんですけど......。

でも、それだけではどうも納得できないほど、ミカサのエレンに対する愛着の示し方が、なんとも過剰なんですよ。

なんていうんですかね、機械的というか、過度に様式化されているというか、オサレな批評家が使いそうな言葉でいえば記号的というか…...。

「ミカサはこんなにエレンが好きなんです」という描写が、なんか不自然なくらいくどいと筆者は感じてしまうんですよね。

 

ミカサの他の側面が見えてこない。

作品のニヒリスト的なムード(それを克服しようとするモチーフも含めて)を、かのじょが序盤で象徴していることは確かなのですが......(1.1 を参照)。

個としてのミカサは「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインを、プログラムされたとおりに演じているようにしか、どうしても見えない。

 

ほかの作品なら、それほど気にならないのでしょう。

でも『進撃』は、登場人物の心理描写がとてもていねいな作品です(とくに、幼馴染三人組以外がドラマに本格参加する15話以降がそう)。

だからこそ、初期から終盤直前まで変化のないミカサのキャラが、どうも作り物っぽく感じられるのかもしれません。

かのじょだけ行動原理にも目標にも変化がないので、逆に浮いてしまっているのです。

 

まあ作者・諌山も、描いているうちにそれに気づいていたのでしょう。

シガンシナ区への出立前夜、アルミンがエレンとの昔の約束「海を見に行こう」を思い出させるシーン(72話)。

眼を輝かせるアルミン、絶望をくぐり抜けて親友に励まされながら希望を見ようとするエレン、そして陰で物思いにふけりながら話を聞いているリヴァイ。

それと対照的なのが、ミカサの「...また二人しか分からない話してる」という一言。

抒情的でロマンティックな、せっかくのいいシーンなのに、かわいそうに、ミカサだけが置いてけぼりです。

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72話「奪還作戦の夜」

 

そういうわけで、自由をテーマとする本ブログで、筆者が一番扱いにくいと感じるのはミカサなんですよね。

それを説明するために、禁じ手にしていたメタ視点を、今回はあえて持ち込んだのです。

 

ミカサ奴隷説は作者の自己言及か

どこかで読んだ作者・諌山のインタビューかなにかで、ミカサは作者の「萌え」をもりもりに盛り込んで造形されたキャラだ、みたいな話をしていたのを読んだような記憶があります(うろおぼえ)。

でも、ひょっとしたら作者・諌山は、連載が続くなかで、ミカサのキャラ設定やかのじょ周りの筋書きを、ある程度は(ひょっとしたらかなり)軌道修正しようと試したのかもしれません。

(ここからは話半分に聞いてくださいね。)

 

そう思う最大の理由は、第1話でエレンの夢に出たミカサの「いってらっしゃいエレン」と、138話のミカサのセリフとの整合性です。

うまくつながったようにも見えるけど、やっぱりあの文脈で「いってらっしゃい」は、ちょっと不自然じゃないですか。

あれはけっきょく、今生の別れをエレンに告げるためのセリフでした。

ミカサが死後の再会を約束する意図を込めていたにしても、天国で会おう的なセリフでないとやっぱり不自然です。

「いってらっしゃい」は「行って、戻ってらっしゃい」という意味なのですから。

この不整合は、破綻とまではいえないまでも、不自然さを残します。

このことは、ミカサ周りの筋書き(したがってエンディング)を変更した結果なのかもしれません。

もしかしたら、当初の構想では「いってらっしゃい」はもっと自然に、文脈に収まるはずだったのかも。

(追記: そういえばアニメ第1話ではミカサの「いってらっしゃい」は削られたんでしたっけ? アニメのプロットは諌山の意向も反映しているようなので、このことも筆者の推測が的確であることを裏づけるように思います。)

 

もし当初の構想からの変更があったとして、それはどうしてなのか。

もしも作者・諌山が、ミカサの当初のキャラ設定、つまり「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインの役回りを修正する必要性を感じたのだとしたら?

 

もしそうだとすれば、エレンがミカサを奴隷よばわりしたエピソードは、実は作者・諌山による、一種の自己言及なのかもしれません。

エレンが唱えたミカサ奴隷説によれば、ミカサの意識にはアッカーマンの本能によって、エレンが守るべき宿主として刷り込まれた、とのこと(112話)。

これはけっきょく、エレンの作り話だったわけです(130話)。

でもこれ、エレン自身が、そういう仮説でも考えなければミカサの行動の理由が理解できない、と感じていたということですよね。

この仮説を筆者は、ミカサがエレンの奴隷のごとくふるまうのは設定のせいなんですよ、という作者・諌山のメタ・メッセージとして、勝手に解釈しています。

まあそれはそれとして、自分を守り、愛してくれる美少女ミカサちゃんに、エレンの心が奪われているのも確かなのですが(まあ、まだアオハルの男の子だからね......)。

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130話「人類の夜明け」

 

さらには、ミカサ奴隷説をエレンが本人に言い放った直後、怒ったアルミンがエレンに殴りかかろうとしたとき、とっさにミカサは、まさに条件反射でアルミンを取り押さえてしまいました(112話)。

オイオイオイオイ、エレンの仮説は、嘘から出た真かよ! 

これもひょっとしたら、ミカサが設定の奴隷であることを示唆する、作者・諌山による手のこんだ自己風刺なのかもしれません。

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112話「無知」

 

でも、ここまで論じてきたことが、ミカサをディスるためだとは思わないでください。

忌憚(きたん)のない批判は哲学にとって必要不可欠ですが、しかし批判は、ものごとの真価を発見するためにあるのです。

なにが言いたいかというと、ここまでの話は、いかにしてミカサが自由になれたのかを明らかにするための予備作業でしかありません。

他律的な在り方から、さらには(メタ視点でいえば)プログラムされた萌えキャラから、ミカサはいかにして自由になれたのでしょうか。

 

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5.5.b なぜエレンは「未来の記憶」を見るか、または自己実現的予言 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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自己実現的予言

自分自身の「未来の記憶」を予知し、未来の自分が意志することを目指して行動するエレン(ひょっとしたらグリシャも)。

このことは、自分を自由だと信じるエレンが、実は人知を超える大きな力によって操られていることの証拠なのでは? という疑念を引き起こすかもしれません。

しかしそうではない、エレンの意識において「未来の記憶」は、いわば自己実現的予言として作用するのだ、というところまで前記事で論じました。

じゃあ自己実現的予言って何よ? というのが、ここからの話。

 

自己実現的予言(self-fulfiling prophecy)とは、哲学というよりも社会学の用語で、マートンという20世紀の社会学者が最初に定義したものとされています。

かんたんにいえば、ある予想を与えられた人間が、その予想がなければとらなかったであろう行動をとることにより、予想どおりの結果をもたらしてしまう、ということ。

よく出される例を挙げれば、株価が下がるという予測を聞いた投資家たちが、予想に従い、その株を一斉に売り払ってしまうことによって、ほんとうに株価が下がってしまうとき、この予測は自己実現的予言として機能したことになります。

ほかには、お前○○ちゃんのこと好きなんだろ? と言われた人が、それをきっかけに○○ちゃんを意識してしまうようになった結果、ほんとうに好きになってしまう、とか。

 

そうはいっても、自己実現的予言の観念は、もっと古くからあるものです(そういう名では呼ばれてはいなかったにせよ)。

以前にも紹介したシェイクスピア(1564-1616)の戯曲『マクベス』(5.2.a を参照)では、まさに自己実現的予言がストーリーを動かすのです。

主役のマクベスとかれの友バンクォーは、戦争帰りに遭遇した三人の魔女に、マクベスは「いずれ王になる」と、そしてバンクォーについては「子孫が王になる」という予言を与えられます。

それを信じたマクベスは、当時のスコットランド王ダンカンを暗殺し、かれを恐れて逃げた王の息子たちに罪をかぶせて、王位簒奪に成功します(なお、本作ほかシェイクスピアの多くの作品は、史実に取材したフィクションです)。

しかし次には、マクベスはバンクォーの子孫が王になるという魔女たちの予言を恐れて、かれとその息子に向けて暗殺者を放ちます。

 

ところが、後ろめたさからバンクォーの亡霊を見るようになったマクベス

不安に駆られる日々に耐えかねたかれは、あの魔女たちを見つけ出し、さらなる予言を求めます。

魔女の予言のなかに、有力貴族マクダフに気をつけろとあったので、マクベスはマクダフの城を奇襲しました。

ところが、マクダフ本人は難を逃れ、殺された家族の復讐を誓います。

亡命した王子の助力を得たマクダフに攻め入られ、配下に寝返られるマクベス

そんなかれの唯一の頼みの綱であった「女の股から生まれた者には負けない」という予言も、マクダフが帝王切開で生まれていたという事実により覆されました。

こうして暴君マクベスは、反乱者の復讐の剣により散ったのです。

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魔女に遭遇したマクベスとバンクォー

 

魔女たちの予言を信じなければ、マクベスは王やバンクォーを殺さなかったでしょうし、マクダフなる貴族に手を出すことも、またしたがって、復讐に燃えるマクダフ率いる反乱軍に殺されることもなかったでしょう。

魔女たちがマクベスに与えた予言は、まさしく自己実現的予言として機能したのです。

(ちなみバンクォーの系譜は、史実では後世のスチュワート王家につながっているので、バンクォーの子孫が王になるという魔女の予言は当たるのですが、しかしそれはバンクォーの死から300年以上も後のこと。)

 

『進撃』における自己実現的予言の最たるものは、パラディ島の「悪魔」がいつか世界を滅ぼすだろうという、全世界が信じた警告でしょう。

世界じゅうの人々、少なくとも有力者たちや諸団体は、パラディ島の意向を知ろうとすることなしに、島を滅ぼすべき脅威として一方的に決めつけることをやめませんでした――実際には、パラディ島は平和的解決の道を探っていたのに。

全世界の憎悪に直面して、島の派遣団があらゆる希望を失ったとき、世界中が恐れていた「地鳴らし」の実行を、エレンは決意しました。

つまり、世界が「島の悪魔」を一方的に脅威と見なし、憎んだことが、世界は「島の悪魔」に滅ぼされるという予言を実現させたのです。

 

遅きに失しながらも、そのことを理解し、深く悔いたのは、マーレ最後の飛行船部隊の指揮官でした。

かれは言います。

「我々が至らぬ問題のすべてを「悪魔の島」に吐き捨ててきた」結果として、あの「怪物」が、すなわち「始祖」の力を発動した「進撃の巨人」が「憎悪を返しに」やってきたのだと(134話)。

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134話「絶望の淵にて」

 

自己実現的予言としての「未来の記憶」

エレンにおける「未来の記憶」の影響に、話を戻しましょう。

かれが見た「あの光景」とは、未来の自分が「地鳴らし」を実行する光景であり、未来の自分の「世界を滅ぼす」という意志に違いありません。

そんな未来の自分の意志に逆らう自由は、エレンにはあったのでしょうか。

未来が決まっているなら、逆らうことなんてできないと思われるかもしれません。

しかしながらエレンには、その自由はたしかにあったと筆者は考えます。

 

『進撃』の作品世界が厳密に決定論的な世界であるとすれば、つまり未来が決定され、人間の行為は 変更できない世界なのだとすれば、エレンは「未来の記憶」を見ようが見まいが、最終的には「地鳴らし」に踏み切るよう決まっている、ということになります。

ほんとうにそう言えるかどうかを見るために、次のように仮定してみましょう。

もしもエレンが「未来の記憶」を見なかったとすれば?

 

それでも、エレンは最終的には「地鳴らし」しかないと決意したかもしれません。

しかしながら、そもそも「地鳴らし」がほんとうに実行可能であるという確信を、王家の血筋ではないエレンは、どこから得たのでしょうか?

自分自身の「未来の記憶」のほかに、そういう確信を与えてくれる情報源などなかったはず。

そもそも、エレンがみずからの目的を達成するためにジークを利用できるということも、それを「未来の記憶」で見ていなければ、あやふやな推測の域を出なかったはずです。

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118話「騙し討ち」

 

つまり、エレンは「地鳴らし」という選択肢の存在だけではなく、その実行可能性についても、一定の見込みをもっていなければならなかったはずです。

その見込みが一切なかったとすれば、はたしてエレンは、あれほどの強い目的意識をもって「地鳴らし」発動に向けた行動をとりえたでしょうか?

あれほどにも周到で首尾一貫したやりかたで、いっさいの迷いも動揺もなく、一心不乱にそれを追求し、成功させることができたでしょうか?

 

つまり、じゅうぶんな前知識がなければ、そもそもエレンにとって「地鳴らし」が選択肢たりえたかどうかも定かではないのです。

だから「未来の記憶」を見なければ、エレンが「地鳴らし」実行を選択しなかった可能性は大いにあったと筆者は考えます。

あるいは実行を決意したとしても、それを実現できる見込みはずっと少なかったでしょう。

 

だとすれば、エレンが見た「未来の記憶」は、決定された不動の未来ではありません

エレンが自由な実存として「地鳴らし」実行を決意したさいに、その判断材料をなしたにすぎないのです。

 

むしろ「未来の記憶」は、確定的な未来ではなく、あの『マクベス』の魔女たちの口から発されたものと同じ、一種の予言として見なされるべきでしょう。

それを知らなければやらなかっただろうことを人に実行させる予言として、つまり自己実現的予言としてです。

それ以上の影響、たとえばエレンの意識そのものを乗っ取り、操るといった効果を、エレンに「未来の記憶」が及ぼしたとは、決して言えないのです。

 

「神は人間の自由に逆らえない」

いまや、次のように言うべきでしょう。

「未来の記憶」は、それを受け取った過去の人間を、サルトルのいう「自由の刑」から免除することはないと。

 

まさにそのことを『進撃』は描いています。

マーレに潜入した一行から離れて、エレンが街をさまよう場面を見ましょう(131話)。

かれが「未来の記憶」のとおりに「地鳴らし」を発動すれば、この活気のある街に暮らす人々はみな踏み潰され、地上から消え去ります。

それでも「地鳴らし」を実行してよいのかと思い悩みながら、街をそぞろ歩くエレン。

そうしているうちに、昼間に会ったスリの少年を見かけます。

通りの裏で、地元の商売人たちに殴られる少年。

そのときエレンは、この少年を「未来の記憶」で見たことに気づきます。

それと同時に、この少年を自分は助けるだろうということも、エレンは予知します。

ところが、そう知っていながら、将来みずから殺してしまうはずの少年を助けるなんて偽善的だと考えたエレンは、その場を立ち去ろうとしたのです。

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131話「地鳴らし」

 

でもけっきょく、少年を助けてしまったエレン。

未来は「変わらないらしい」と悟り、そんな自分はライナーと同じ「半端なクソ野郎」だと、むしろ「それ以下」だと自嘲します。

ついにエレンは涙を流し、事情が分からない少年に「ごめん」「ごめん」と泣いて謝ったのでした。

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131話「地鳴らし」

 

このときエレンは、変更不可能な未来に屈したように見えるかもしれません。

しかし、殴られている少年に背を向けて立ち去ろうとしたエレンに、振り返って少年を助け出すよう仕向けたのは、いったい何だったでしょうか。

かれが見た「未来の記憶」? 神とか運命とか呼ばれる、抗いがたい大きな力?

そのどれでもありません。

エレンを振り返らせたのは、かれ自身の、かれ自身の意志でしかなかったはず。

それ以外のなにも、未来の自分自身から送り込まれた「記憶」ですら、立ち去ろうとするエレンの足を強制的に止めることが、できたはずはありません。

 

エレンが未来を変えられなかったのは、かれが少年を助けずに去るのを選ぶことができない人間だったからです。

自由な実存として、かれが少年を助けざるをえなかったからです。

自分が「地鳴らし」を実行する未来もまた避けられないとエレンが悟ったのも、それと同じ理由からというべきでしょう。

すなわち、自分自身の生きる価値を否定し、自己破滅に甘んじるという結末を、エレンは選ぶことができない人間なのです。

自分はそういう人間なのだと、かれは自覚せざるをえなかったのです。

だからエレンは、かれが助けておきながら殺してしまうであろうスリの少年に、ただ泣いて詫びるしかなかったのです。

 

未来は変わらない。

しかしそれは、わたし自身がそう決定するからである。

ほかの選択肢なんて存在しないと、わたしが判断を下したからである。

たとえいま意志する以外のことを、わたしは決して選択しえないとしても。

――こうしてエレンは、逃れられない必然性のなかで、それでも自由であるのです。

 

以前に紹介した、サルトルの神秘劇(5.3.b を参照)には、次のようなセリフがあります(しかもセリフをあてられた登場人物をサルトル自身が演じました)。

「人間の自由に逆らうことを、神はひとつもなしえない」(サルトル『バリオナ』第6幕)。

全能の神ですら、人間の自由に働きかけずには、なにも実行できないだろう――サルトルはそう言います。

 

エレンにおける「未来の記憶」についても、同じことが言えるでしょう。

予知された未来は、次のことを告げるにすぎないのです。

それは必然的な未来であると。

それは決定された未来であると。

それは確かに起こるはずのことだと。

にもかかわらず、自由な人間がそれを意志し、選ぶように仕向けること以外に、予知された未来があなたに干渉する方法は、一つもないと。

未来を知る人間は、それでも自由に未来を選ぶという点においては、他の人間とすこしも違わないのだと。

 

「すべてが最初から決まっていたとしても」

以上に見てきたことを、エレンはよく理解していました。

だからこそ、いよいよ「地鳴らし」を開始したエレンは、さまざまな記憶や感情が交錯する意識のなかで、自分にこう言い聞かせたのです。

どこからが始まりだろう
あそこか? いや… どこでもいい

すべてが最初から決まっていたとしても
すべてはオレが望んだこと
すべては… この先にある (130話)

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130話「人類の夜明け」

 

「すべてが最初から決まっていたとしても」――この部分は、自分が知っている以外の未来はありえないという、エレンの判断あるいは意識を表現しています。

それはすなわち、必然性を洞察し、これに従って行為しようとする、スピノザ的意識です。

「すべてはオレが望んだこと」――この部分は、自分が意志するだろうと知っていたことを、自分自身の自由と責任において実行するのだという、エレンの自覚または決断を表現しています。

それはすなわち、みずからの全実存をもって状況を引き受けようとする、サルトル的決断です。

 

こうして、冒頭で予告したことが証明されました。

自由のスピノザ的命題サルトル的命題とは、未来予知という能力を与えられたエレンにおいて矛盾なく両立する、ということが。

エレンは未来予知の結果、必然性に支配されるのではない、ということが。

エレンは必然性を知るがゆえにスピノザ的意味で自由であるが、だからといってサルトル的な「自由の刑」を、つまり状況を引き受けるかどうかをみずから決定する自由を免除されるわけではない、ということが。

 

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5.5.a なぜエレンは「未来の記憶」を見るか、または自己実現的予言 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

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予告と違いますが、ミカサの話に入る前に、エレンの考察を挟もうかと。

ええそうです。アニメに合わせようと思ってね。

ちなみに(上)は原作121話までしか扱っていないので、アニメ派の方も安心して読めますよ! すみません、アニメ79話時点でのネタバレも少しあります。

 

決定論と自由意志・再論

これまで『進撃の巨人』の主な登場人物たちを、さまざまな哲学的自由論に結びつけてきました。

でも、多くの『進撃』読者がなによりも期待しているのは、決定論と自由意志の話なんですよね。

筆者は知っていますよ。

だって、このテーマを扱った次の記事が、閲覧数最上位みたいなので。

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

でも、どうして決定論と自由意志というテーマが、マンガ・アニメファンのあいだで流行っているんですかね? そこはぜんぜん知りません。

ネットとか検索してもよく分からないので、誰か知っていたら教えてください

 

さて、上の記事では汎神論の哲学者スピノザから、次のような命題を引き出しました。

逆に考えるんだ 自由意志なんて「あげちゃったっていいさ」と考えるんだ

なぜ自由意志なんて「あげちゃったっていい」のか。

自由意志にこだわる者は、実は無知に囚われた者であって、そのぶんだけ自由から遠ざかっているからです。

逆に、必然性を知る者は、何にも動じず、何にも惑わされることがなく、真の満足に達します。

したがってスピノザによれば、必然性を知る者こそ真に自由であるのです。

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そして、次のことも指摘しました。

すなわち、ミカサとアルミンに真意を隠し、かれらを突き放そうとしながら、自分は「自由意志」に従っていると称したエレン(112話)は、実は無知のなかでもがいていたのだということを。

そのかぎりで、ネットで一部が揶揄していたように、エレンを「自由の奴隷」と呼ぶのは間違っていないということを。

 

しかしながら、次のことも同時に論じました。

スピノザを離れ、サルトル的な実存主義の観点を採用するならば、人間存在とはつねに偶然の産物であって、必然性の観念は、人間の自由を否定することと同義なのだと。

ちゃきちゃきの江戸っ子風にいうと、こうです。

「なーにが人間の本質だ、しゃらくせえ! そんなもんあるかい、てやんでぇ!

(......)

だって、神の偉大な目的の「ために」人間は作られたってぇのは、人間が紙を切る「ために」ペーパーナイフは作られた、っつーのと変わんねぇもんな。

人間は道具じゃねぇ! 人間が何の「ために」存在するかは、その人間自身が決めるんだ。その人自身が決めるしかねぇんだ。

人間の本質なんて「飾り」です。偉い人にはそれがわからんのですよ。

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必然性が、すなわち外的要因が、人間の思考や行動を制限することは確かです。

しかしそれでも、人は選択することを、判断することを、決して免れることはありません。

「状況」に流されるか、それとも状況」を引き受けるかを決める自由と責任だけは、サルトルのいうように、いつでも人の手に残されているのです。

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こうして、一見したところ矛盾する二つの命題が、二人の哲学者から引き出されます。

① 必然性を知る者こそ自由である。 by スピノザ

② 必然性が人間の意志を完全に決定することはなく、つねに人間は状況を意味づける自由を保持している。 by サルトル

正反対のことを言っているように見えますね。

でも、ひょっとしたら、これらの命題に対立は存在しないのかもしれません。

 

本記事で明らかにしたいのは、まさにこのこと。

すなわち、未来予知という能力を与えられたエレンにおいて、自由のスピノザ的命題とサルトル的命題とは両立する、ということです。

 

エレンには未来予知ができてしまいます。

でも未来予知とは、これから必然性に起きることを知ってしまうこと、つまり未来を変える自由がないことを意味するのではないでしょうか?

まあ、予知した未来のうち、自分に都合の悪い結果だけは自由に回避できてしまう、とんでもなく卑怯な能力をもった某ギャング団の親玉もいますけど。

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ところがエレンは、予知した未来(=必然性)を避けられなかったにもかかわらず、最後まで自分のことを、自由な行為者であると信じつづけました。

どうしてかれは、そういう確信がもてたのでしょうか。

以下、くわしく見ていきましょう。

 

必然性としての「未来の記憶」

エレンの未来予知能力とは「進撃の巨人」に固有の能力、グリシャによれば「未来の継承者の記憶をも覗き見る」能力です(121話)。

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121話「未来の記憶」

 

実際、グリシャに「進撃」を授けたフクロウことグリシャ・クルーガーは、かれが知るはずのない「ミカサやアルミン」の名を口にしたとき、未来のエレン・イェーガーから記憶を受け取っていたはず(89話)。

まだ「九つの巨人」保有者が過去の継承者から記憶を引き継ぐという設定しか公表されていなかったため、このエピソードが当初、さまざまな推測を呼んだのは周知のとおり。

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89話「会議」

 

「未来の記憶」を見る能力は、まさに「進撃」保有者の自由を支えた能力だといえます。

そのことは「壁の王」フリーダとの対決において、グリシャが説明しました(121話)。

「進撃」保有者たちは、歴代「何者にも従うことが無かった」というグリシャ。

かれがいうように、たしかに「進撃」だけはマーレに軍事力として利用されませんでした。

それよりも昔、エルディア帝国時代には「始祖」以外の八つの巨人をもつ名家が内乱を起こしたといいます(99話を参照)。

その時代に「進撃」の一族がどうふるまったかは描かれていませんが、恐らく未来予知能力のおかげで、カール・フリッツとタイバー家の策略にひっかかることもなかったのでしょう。

 

だからこそ、マーレに奴隷化されたエルディア人をしり目にカール・フリッツがパラディ島に「壁」を築いた後にも、ひとり「進撃」の継承者だけは抵抗を続けることができたのでしょう。

グリシャはいいます。

「王の独善に抗うため」に「皆」が、すなわち、歴代の「進撃」継承者が「この記憶に導かれた」のだと。

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121話「未来の記憶」

 

こうして歴代の「進撃」保有者たちは、未来予知のおかげで自由でいられたのでした。

かれらの自由は、まさしく「必然性を知る者こそ自由である」というスピノザ的命題に当てはまるといえるでしょう。

 

状況としての「未来の記憶」

ただし「進撃」の未来予知能力とは、未来の「進撃」継承者が経験するであろうことを、現在の継承者がかいま見るというもの。

しかもどうやら、この能力を発動させる権限は現在の継承者にはなく、未来の継承者の意志に従って、記憶が過去に飛ばされるようです。

だからグリシャは、フリーダを喰いレイス一族を殺した後、未来のエレンに向かって「これでよかったのか!?」「なぜ…すべてを見せてくれないんだ…」と虚しく呼びかけたのです(121話)。

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121話「未来の記憶」

 

つまり「進撃」保有者たちは、自由に未来を予見するわけではありません。

突然かれらに襲いかかる、断片的で不可解な光景として、すなわち、かれらの意志を決定するというよりも動揺させるような光景として「未来の記憶」を受け取るのです。

歴代の継承者は「未来の記憶」に「導かれた」とグリシャはいいましたが、しかしそれは、かれらの意識を「未来の記憶」が乗っ取ってしまった、という風に理解すべきではありません。

むしろ、作中のハンジさんの言葉(83話)を借りれば、未来から届けられた「記憶」は「判断材料」でしかなく、それを実行するか否かは「私の判断」に、つまり記憶を受け取った者自身の判断に委ねられているというべきでしょう。

 

そうだとすれば、未来の断片的光景を見ることは、たとえば夏の青空に浮かびはじめる入道雲を見ることと、本質的に何も変わりません。

入道雲の光景は、近い将来のできごとを、つまり激しい夕立ちを、見る者に予期させます。しかも、その予想は恐らく当たります。

でも、それを予知したからといって、わたしには、夕立ちが降らないように決定する自由などあるでしょうか?

それどころか、夕立ちが降らない場所に脱出する猶予すら、たいていの場合はないでしょう。

わたしに許されているのは、せいぜい、避けられない未来に備える自由だけです――傘をもって出かけるとか、洗濯物を取り込むとか。

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つまり、わたしの意識に与えられた未来の光景とは、それもまた「状況」の一要素でしかないのです。

予見された未来の必然性は、眼前の状況が察知させる必然性と、同じ程度の必然性しかもたないのです。

だとすれば、わたしが「状況」を引き受けるかどうかを決定する自由をもつように、予見された未来を引き受けるかどうかもまた、わたしの自由に委ねられているのです。

 

こうして、サルトルのいう「状況を意味づける自由」は、歴代の「進撃」継承者と「未来の記憶」との関係においても当てはまります。

またしたがって、サルトル的命題と、スピノザ的命題すなわち「必然性を知る者こそ自由」とは、未来予知者において両立するのです。

 

自分自身の「未来の記憶」

「進撃」の未来予知能力には、さらにもう一ひねりあります。

エレンはグリシャに記憶を送りますが、しかしエレンの後には「進撃」継承者は存在しないので、かれ本人には未来は予知できないはず。

ところが、九つの巨人すべてに共通する能力として、以前の継承者(一代前とは限らない)から記憶が引き継がれる、という特性もあります。

この過去の記憶もまた、現在の巨人継承者が自由に思い出せるものではなく、なにかのきっかけに断片的にフラッシュバックするものです。

 

この記憶伝達能力と「進撃」の能力との組み合わせが、さらなる能力をエレンに与えました。

すなわち、未来の自分自身の記憶を覗き見ることができたのです。

 

121話では、そのことが効果的に描き出されています。

フリーダとの対決までに、グリシャの意識は、未来のエレンから、かれが実行した「地鳴らし」の記憶を受け取っています。

「エレンの望み」が「叶う」ことを、すでにグリシャは知っているのです。

「始祖の巨人」の力で記憶の旅をしているジークを、なぜか見られるようになったグリシャは、ジークに謝罪し、エレンを止めてくれと懇願しました。

この光景とオーバーラップするのが、かつてシガンシナ区での決戦後、エレンが見せた鬼の形相。

この瞬間、すなわち(たぶん勲功と慰霊の)式典においてヒストリアの手に触れたとき、エレンの脳裏には突如、父グリシャがフリーダたちと対面した光景がよみがえったのでした(90話も参照)。

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121話「未来の記憶」

 

そのときエレンは、グリシャとレイス家の対決の光景だけでなく、そのときグリシャの脳裏に焼きつけられていた、未来の自分自身が「地鳴らし」を実行する光景をも見たのでした。

それをエレンは「あの景色」と呼び、すべてはそれに到達するための行動だったのだとジークに告げたのです(121話)。

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121話「未来の記憶」

 

ところで、ひょっとしたらグリシャもまた自分自身の記憶を見ていたのではないでしょうか?

再度引用すると、レイス家との対決において、グリシャは「王の独善に抗うため」に「皆」が「この記憶に導かれた」のだと言っていました(121話)。

でも「この記憶」って何のこと? 作中では、はっきり示されていません。

しかし、エレンの「地鳴らし」ではないはず。

だって、ここでグリシャは「王の独善に抗う」という話をしているのですから。

したがって「この記憶」とは、まさにグリシャが目にしている光景を、つまりレイス家とグリシャとの対決の光景を指すと考えるべきでしょう。

エレン自身、シガンシナ区の決戦後の勲功式でヒストリアの手に口づけたとき、まさにグリシャがレイス家と対峙する光景を思い出し、そこからさらにグリシャをつうじて未来の自分の記憶を見たわけですし。

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121話「未来の記憶」

 

だとすればグリシャは、いまかれ自身が目にしている光景を、あらかじめ「記憶」として与えられていたという可能性が考えられます。

未来から、つまりグリシャの記憶を継承したエレンから、その「記憶」はグリシャに届けられたのかもしれません。

あるいはエレンが自分の「未来の記憶」を見たのと同じ方法で、つまり、グリシャ自身が過去の「進撃」継承者、たぶんクルーガーに送った記憶を、かれからグリシャは引き継いだのかもしれません。

 

わたしが何を未来に意志するかは決定されている?

こうしてエレンは、それにひょっとしたらグリシャも、自分が未来に何を意志するかを予知したうえで、それと同じものを意志した、ということになります。

このことは、雨が降る予報に備えるといった、不確定な状況に備えることとは別だといわれるかもしれません。

つまり『進撃』の作中世界では、登場人物が未来に何を意志するかが決定されている、ということにはならないでしょうか。

「未来の記憶」が示しているのは、エレンの意識や意志が、なにか大きな力——神や運命などと呼ばれる――によって操られているということなのでは?

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しかし筆者は、そうではないと考えます。

エレンが見た自分自身の「未来の記憶」は、かれを操る外部の力の存在を証明するものではなく、やはり「状況」の一要素であり、かれにとっての「判断材料」でしかないと見るべきです。

自分自身の「未来の記憶」を見ることで、エレンの自由が否定されるわけではないのです。

だとすれば、どうしてエレンは未来の自分の意志に従おうと決めたのか

それは、かれの「未来の記憶」が、いわば自己実現的予言として作用することによってであると、説明することができるでしょう。

 

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5.4.b 始祖ユミルの愛と隷従 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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愛情の関係における自由

逃げることでも、男たちととも戦争に参加することでも、自由になれない奴隷ユミル。

そういうかたちでの解放は、つまり巨人の力をもって(超人間的な)戦士として認められることは、そもそもユミル自身が望んでいなかったように見えます。

ユミルは人間として、そしてなによりも女性として、自由になりたかったのでしょう。

かのじょが結婚式を眺めていたシーンは、そのことを示唆しています。

 

男性が財産所有者として権力を握る家父長制では、女性は対等な存在とはいえません。

法的にも、社会的にも、男性が優位に立っているのです。

それにもかかわらず、女性が男性と対等になれるかもしれない唯一の関係があります。

それは精神的な関係、すなわち愛情の関係です。

もちろん、恋愛の関係においても男が女を支配することはよくあります。

それでも愛情の関係は、当人たちの一対一の個人的関係に左右されるもの。

だから、結婚制度そのものは所有主としての男性を優遇するものでありながら、家庭内では「カカア天下」が成立する、なんてこともしばしばあるのです。

 

男女の親密な関係における平等を、平等それ自体の達成と見なしてよいのか?

そういう疑問は生じて当然です。

人間みな平等というなら、やはり権利において両性の平等が確立されねばなりません。

そういう考え方を哲学の分野で基礎づけているのが、近代哲学における自然権の思想ですね。ロックとかルソーとか。

 

しかし、それはそれとして、この作品で描かれていることがらの考察に徹しましょう。

近代的平等原則とはかけ離れた世界しか知らない始祖ユミルには、そういう男尊女卑の社会(家父長制)を前提とした自由しか、夢想しえなかったのではないでしょうか。

 

巨人の力をもって働いてきたユミルに、フリッツ王が「褒美だ 我の子種をくれてやる」と言った、あの超絶キモいシーン(122話)。

いかにも奴隷らしくこうべを垂れていただけのユミルが、そう告げられた瞬間、微妙なしぐさながら、明らかに反応を示しています。

それも、どうやら「なに言っちゃってるの、このオヤジ? キモい、臭そう、不潔、ありえない!」というかんじではありません。

どちらかといえば、意外さと、かすかな期待とが、思わず態度に表れたように見えます。

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122話「二千年前の君から」

 

そして実際に子を授かったユミル。

生まれたばかりの赤子を、なにやら感慨深そうに、しげしげと眺めています。

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122話「二千年前の君から」

 

わが子を見つめながら、胸中のささやかな期待が、より大きく膨らんでいくのをユミルは感じたのではないでしょうか。

わたしはこの奴隷状態から、ほんとうに解放されるのかもしれないと。

奴隷としてでも、巨人としてでもなく、人間として、わたしは他人に必要とされるのかもしれないと。

ひとりの女性として、愛情の関係のなかで、わたしを奴隷主は対等に扱ってくれるようになるかもしれないと。

わたしは自由になれるのかもしれないと。

 

しかしながら、ユミルに解放の瞬間は訪れませんでした。

身を挺してフリッツ王をかばい、死へと沈んでいくユミルの意識に、最期に届いたフリッツの呼びかけ。

それは「我が奴隷ユミルよ」という、いままでと変わらない呪いの言葉でした。

真実の愛によって解放されるかもしれないというユミルの期待は、ついぞ叶うことはなかったのです。

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122話「二千年前の君から」

 

愛情の関係に入ることで、わたしは自由になれるかもしれない。

――それが始祖ユミルの、悲しくも虚しい願望でした。

望み叶わず、奴隷の身分のまま死んだユミルは、エルディア人に「道」をつうじて巨人の身体を送りつづける、まるで賽の河原の石積みやシーシュポスの岩運びのような、永遠の苦役に従いつづけたのです。

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シーシュポスの罰

 

「愛が奴隷状態を自由にする」

愛が人間を自由にするとは、どこかで聞いたことがあるようなフレーズ。

たとえば「ラブ&ピース」を唱えたヒッピーも主張していたことです。

それは使い方によっては非常に陳腐なフレーズですが、しかし長い歴史をもつ哲学的な命題でもあります。

 

キリスト教の主要教義を確立した、最大の教父哲学者アウグスティヌス(354-430)を、ここで参照してみましょう。

後年みずから「肉欲におぼれていた」とする若年期をへて、ミラノで弁論術の教師となったアウグスティヌスは、ある日「取りて読め」という声を聞いて聖書をとり、キリスト教に回心しました。

『進撃』のテーマでもある「自由意志」(liberum arbitrium)という言葉を、哲学的な用語として確立したのは、この人だといっていいでしょう。

アウグスティヌスは、神が宇宙を正しく秩序づけているという考え方(予定説、まあ決定論と見なしていいでしょう)を、自由意志と両立させました。

世界を創造した神は全能であるとはいえ、人間が救済されるかどうかは、各人の善くあろうとする意志に委ねられており、そのことは神の恩寵と矛盾しないと論じたのです。

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アウグスティヌス

 

さて、そんな自由意志論者アウグスティヌスによれば、人間は天国のみならず現世においても、自由になることができます。

まずかれは、俗世の価値観を逆転させます。

哲学者の常とう手段ですが、一般に自由だと思われている所有主は、欲望や罪に囚われた奴隷にすぎないのだと指摘するのです。

アウグスティヌスいわく「多くの敬虔な人々が不正な主人に奉仕する一方で、その主人は自由ではない」。

それに比べれば、他人に奉仕する者(つまり奴隷)のほうが、真の幸福に、つまり来世での救済に近づいています。

人間に奉仕することは邪欲に奉仕することよりも幸いである。……この支配欲というものは、もっとも荒々しい支配力によって人間の心を荒廃させるからだ。

アウグスティヌス神の国』第19巻 第15章

www.kinokuniya.co.jp

 

こうして「高慢は支配する者たちを害する」が、それとは逆に「謙虚は奉仕する者たちを利する」。

そしてここからが、いかにも宗教哲学らしい自由論となるところ。

アウグスティヌスは、こう続けるのです。

もし奴隷が奴隷状態から解放される希望をもてないとしても、心からの愛をもって奉仕することで、奴隷はみずからを「自由」にするのだと。

……もし奴隷が主人によっては解放されえないならば、不正が過ぎ去り、あらゆる人間的な権勢が虚しくなり、すべてにおいて神がすべてとなるときまで、彼らはその主人に……真実の愛から奉仕することによって、その奴隷状態を、ある意味で自由にする。

アウグスティヌス神の国』第19巻 第15章

 

もちろんこれは、奴隷は奴隷の境遇に甘んじ、身の程にあった幸福を求めればよい、というメッセージに解すべきではありません。

もし不正な支配から脱却できる望みがないとしても、魂だけは自由であれと、アウグスティヌスはそういいたいのです。

(そうはいっても、社会の争乱よりは奴隷に支えられた平和のほうが望ましいという思想が、近代以前のキリスト教において主流だったのは事実ですが。)

 

始祖ユミルに話を戻すと、かのじょが抱いた自由への願望は、このアウグスティヌス的な自由に近いものに見えます。

真実の愛から他人に奉仕することで自由になれるというのは、まさしくユミルの信念でした――ただし恋愛や性愛を意味する愛でしたが。

アウグスティヌス的な意味において、かのじょは自由を渇望する誠実な奴隷であったのです。

 

ひとりの人間として、女性として、他人に必要とされたいと欲しながら、ユミルは奴隷の務めに死ぬまで徹しました(というより、それに徹したせいで死んでしまったのですが)。

しかしその結果、死後の世界においてもユミルは自由にはなれず、奴隷のままでした。

かのじょに救済は訪れず、死後も、永遠に終わらない苦役に縛られたのです。

アウグスティヌスが約束したような魂の自由を、ユミルはついぞ得られなかったのです。

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122話「二千年前の君から」

 

しかしながら永い時をこえて、ついに始祖ユミルの魂は解放されます。

かのじょを解き放つための決定的な役割を果たしたのは、ミカサでした。

始祖ユミルが達成できなかった自己救済を、ミカサが代行したのです。

始祖ユミルの運命とミカサの運命は、どこで合致し、どこで分岐していくのでしょうか?

次に解き明かすべきは、それです。

 

...…といいつつ、そのまえにエレンの話を。

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5.4.a 始祖ユミルの愛と隷従 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

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始祖ユミルの苦しみと願望

生まれないことが奴隷の幸福であるという、呪詛のごとき信念から解放されたジーク。

でも、ついぞかれは、始祖ユミルが何を欲していたのか理解できませんでした。

それこそまさに、かれがエレンに敗北した理由だったのですが。

唯一ジークに見当がついたのは、ユミルがなにか「未練」を抱えていたということ。

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137話「巨人」

 

とはいえ、すでに読者には、手がかりが与えられていました。

少女のころ、奴隷の日課を務めるあいだに足を止め、結婚式の様子に見入っていた始祖ユミル(122話)。 

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122話「二千年前の君から」

 

さらに、最終回でエレンが報告したところでは、なんとユミルは、かのじょを奴隷扱いするだけであったフリッツ王を愛していたというのです。

かのじょは自由を求め、苦しんでいながら、それでも同時にフリッツを愛してもいたのだと。 

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139話「あの丘の木に向かって」

 

えーそれエグすぎじゃない? 

奴隷が主人に向ける一方通行の愛なんて、DV気質のキモ男に好都合な妄想だと非難されても、文句は言えないでしょう。

とはいえ作者・諫山は、この話を考えなしに描いたわけではなさそうです。

 

なぜ始祖ユミルはフリッツを「愛した」のか?

この問題は、なぜユミルが救われるためにミカサを必要としたのかという、この作品の最終的な謎にも関わってくるものです。

それを解き明かすには、多くの段階をふまねばなりません。

ともあれ、まずは始祖ユミルを考察してみることにしましょう。

 

戦士の自由と女性の隷従

始祖ユミルについては、ひきつづきヘーゲル弁証法的構図が、考察の手がかりを与えてくれるはずです。

ヘーゲルによれば、みずからの命をあえて危険にさらす戦士は、奴隷を従え、自由な身分を享受します。

他方で、主人に奉仕する奴隷は、やがてみずからの労働をつうじて自由を知ることになりますが、さしあたりは恐怖に屈し、主人の所有物となっています。

 

このことは、以前にも紹介したボーヴォワール4.4.a 参照)によれば、ジェンダー的非対称性、いわゆる男尊女卑の問題にも当てはまります。

男性による女性の支配がいつ、どのようにはじまったのかを解き明かすために、かのじょはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を念頭に置いているのです。

 

男尊女卑の歴史は、ボーヴォワールによれば、女性が戦士の仕事から締め出されたことではじまりました。

命をかけるという特権的な仕事を独占した男たちは、次のことを証明する機会をも独占したというのです。

わたしはこの動物的な生命活動と同じものではなく、それ以上意味をもつ存在であると。

すなわち、わたしは「自己意識」であると。

自分の属する部族や氏族の威信を高めるために、戦士は自分の生命を賭ける。そうやって、人間にとって最高の価値は生命ではないこと、生命は生命それ自体よりもっと重要な目的のために役立てねばならないことを、みごとに証明するのだ。

ボーヴォワール第二の性 Ⅰ』第1巻第2部

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自由な戦士は侮辱を受ければ決闘あるのみ

 

男女の身体能力の差や、妊娠することなどを理由に、女性は戦争から締め出されてきました。

この点について、ボーヴォワールはいいます。「女に重くのしかかっている最大の不運は、女がこうした戦士たちの遠征から除外されていることである」と。

 

しかしそれでも、石器時代の原始的な農耕においては、畑仕事にあまり大きな労力は必要ないので、農作業は女の仕事でした。

家内工業も、商業も、女性が担っていました。

そして女性には「産む性」としての、決定的に重要な役割がありました。

これらの役割を担う女たちによって、氏族の生命は維持され、繁殖します。

だから石器時代には、いまだ女性の従属は、完全には成立していなかっただろうとボーヴォワールは推測します。

 

ついに男性が優位を確立するのは「作る人間(ホモ・ファーベル)の時代」において。

銅や鉄による新技術を覚えた男たちが、戦争のみならず生産労働からも女性を締め出すことに成功します。

かくして男は「自然の征服者」としての「能動的自己」を確立するのです。

 

かつて自然に支配されていた人間=男(man, homme)は、ここでは財産所有者として現れます。

いまや男は「ひとつの魂とひとかどの土地を所有する」主人であり、この財産を維持するために、女と子孫を支配しようとするのです。

こうしてボーヴォワールによれば、男=「戦う性」が財産所有者としての、つまり主人としての権力を独占するとき、女性の隷従が確立されます。

財産所有者の地位をもって男性が女性を支配することを「家父長制」といいます。

www.decitre.fr

 

始祖ユミルにおける奴隷状態と女性の隷従

架空の話ではあれ、始祖ユミルの時代においても、ボーヴォワールが説明したような様式において、男性優位が、ひいては家父長制が、成立していると見ていいでしょう。

フリッツ王らの時代には、すでに鉄が利用されています。

そして、奴隷が存在します。

奴隷とは、財産のための存在、すなわち、家族だけでは維持できない大きな家や、家族だけでは耕せない大きな土地で働かせるための存在であり、かつ、その存在自体が財産です。

したがって、奴隷ユミルの背景には、男が戦う性かつ主人としての権力を掌握した社会が存在しているのです。

だとすればユミルは、奴隷制だけでなく、家父長制という鎖にもつながれているのです。

 

では、どうすれば始祖ユミルは自由になれるか?

一つは、逃げること。

ただし、逃亡奴隷が逃げきるのは難しかったでしょう。

逃げた先に、その奴隷を自由な仲間として迎えてくれる共同体があればいいのですが(せいぜい故郷くらい)、そうでなければ森の中でサバイバル生活(それが可能だとして)くらいしか自由に生きる方法はありません。

つまり逃亡は、居場所を失うことと同義であり、さらには、とさえ隣り合わせなのです。

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奴隷が逃げきるのは困難

 

豚を逃がした罪を咎められたユミルの身に、何が起きたかを思い出してみてください(122話)。

かのじょをフリッツは「自由」にしてやりましたが、しかしそれは、つまるところ死と同義でした。

ここでの奴隷解放宣言は、奴隷ユミルを、誰にも属していないが、同時に、どこにも居場所のない存在に、またしたがって、動物のように狩りの標的にされても構わない存在にされることを意味したのです。

この場合、奴隷ユミルは逃亡を企てたわけではありませんが、その結果は逃亡とほぼ同じです。

居場所を失うこと、そして、死の脅威のなかに放り出されること。

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122話「二千年前の君から」

 

こうして逃亡が不可能だとすれば、ユミルがフリッツらとともに属する社会のなかで、かのじょは自由になるしかありません。

フリッツらが財産主としての権力を、家父長的権力を握っているのは、かれらが「戦う性」であるからこそ。

でも、巨人の力を手に入れたユミルは、戦争に参加したではありませんか?

「産む性」でありながら、戦士にもなったのではないでしょうか?

巨人の力を手に入れた奴隷ユミルを、はじめフリッツ王は生産力としてしか活用しませんでしたが、後には軍事力としても利用しました(122話)。

 

でも、だからといってユミルは「戦士」になったわけではありません。

命をかけることをつうじて、みずからの自由を他者に証明する機会を、かのじょが獲得できたわけでないのです。

戦士が命がけで自分の自由を証明できるのは、かれらが人間としての生命を危険にさらすからこそ。

圧倒的な力で敵国を蹂躙する巨人ユミルは、ほとんど生命を危険にさらしていません。

そもそもかのじょは、人間あるいは女として戦争に参加しているわけではないのです。

むしろ、相変わらずユミルは、フリッツ王への奴隷的奉仕の一環として、巨人の力で敵軍を叩き潰すという労働をしているにすぎません。

巨人ユミルにとって戦争は、みずからの自由を証明する行為とはなりえないのです。

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122話「二千年前の君から」

 

巨人になれる始祖ユミルが、力づくでフリッツの支配から脱することはできたでしょう。

しかしその場合にかのじょは、人間としての自由ではなく、まるで神話や伝承における怪物がもつような自由しか得られなかったでしょう。

そもそもユミルは、そのような考えが頭に浮かぶことすらなかったのだと思われます。

かのじょの願望は、人間として、女性として、自由になることだったようです。

でも、どうやって?

 

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5.3.c 生まれないことが奴隷の幸福というジークの信念について (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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生まれたことを赦された反出生主義者

ジークが赦されるきっかけを与えたもの、かれが「苦しみの向こう側」を存在しうると教えたものは、二つあります。

 

第一に、記憶の旅において再会した、かつての毒親グリシャの言葉。

かれはジークに自分の過ちを謝罪し「お前を愛している」と告げました。

そのうえで、どうかエレンを止めてほしいと、つまり世界を救ってほしいと、ジークに懇願したのでした(121話)。

子を愛さなかった親による心からの謝罪によって、子はようやく、自分が生まれてよい存在だったのだと思いなおす、そのきっかけを得ることができたのです。

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121話「未来の記憶」

 

第二に、「道」でのアルミンの言葉。

グリシャの謝罪で救われかけたのに、人類みなごろしを実行に移そうとするエレンを止めることができなかったので、ジークは「道」に引きこもり、すべてを諦めてしまいました。

そこに、始祖ユミルに囚われたアルミンが現れます(137話)。

 

諦めないアルミンに対して、すべての生命はけっきょく苦しんで死ぬのだから、みんな死んで楽になっちゃえばいいじゃないかと、さじを投げるジーク。

この無意味な世界で「自由になったって…」と、ニヒリズムに閉じこもるジーク。

しかしそのとき、アルミンは「道」の荒涼とした砂漠のなかに、一枚の木の葉を見つけます。

それが想起させるのは、エレンやミカサと「丘にある木に向かって」「かけっこ」した思い出。

そのときアルミンは、なぜかふと感じたのでした。

自分は「三人でかけっこするために 生まれてきたんじゃないかって...」と。

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137話「巨人」

 

このエピソードは、たんなる生命の維持以上の生きる意味を知ることが人間のすばらしさ、ということを伝えているのかもしれません。

日常の何気ない一瞬に、かけがえのない生の尊さを見出せることが、人間の人間らしさなのです。

某寄生生物の言葉を借りれば「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」

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でもジークにとっては、それ以上のことをアルミンの言葉は意味したでしょう。

ジークにいわせれればアルミンもまた、かれがエルディア人であるかぎりは、苦しみしかない残酷な世界に、間違って生まれてしまった奴隷でしかないはず。

しかしながら、この呪われた生でしかないはずの子供は、日常の「なんでもない一瞬」を「すごく大切な」ものとして受け取ることができます。

この子供は、この残酷な世界の奴隷であるとともに、しかしこの世界にそれ以上の意味を与える、ひとつの「下地」なのです。

この子供は、奴隷でありながら自由なのです。

 

そしてジークもまた、アルミンと同じように自由な子供であったはず。

生みの親が非情であろうとも、世界がかれに奴隷の烙印を押そうとも、かれが生まれるべきではなかったと決定する権利だけは、親だって、世界だって、もってなどいなかったはず。

その証拠に、苛酷な少年時代においてすら、ジークは喜びを、生きる意味を、感じ取ることができたのです。

少なくとも「きっとピッチャーに向いてるぞ」と言ってくれた恩人と、かれがキャッチボールをしていたあいだだけは。

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114話「唯一の救い」

 

クサヴァーさんと共有した幸福な瞬間の記憶がよみがえり、ついにジークは次のように信じることができたのです。

自分は世界を意味づけることができたのだと。

自分は「苦しみの向こう側」であったのだと。

自分は奴隷でありながらも自由であったのだと。

自分は生まれてきてよかったのだと。

 

主人と奴隷の弁証法・再論

ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」は、ジークの意識においては作動しないと、先に指摘しました(5.3.a を参照)。

ジークが「自由な自己意識」になれない理由を、改めて説明するならば次のとおり。

ヘーゲルの構図において、奴隷は他人に奉仕しながらも、しかし労働の産物というかたちで、自己意識の自立性を、みずからの外部に、つまり世界において、客観的に実現するのです。

しかしジークは、かれが無価値と見なした生命を滅ぼすばかりで、なにも価値あるものを世界のなかに作り出そうとしません。

実存主義的に言い換えれば、こう述べることもできるでしょう。

ジークは他人を殺しつづけることにより、生まれないことが奴隷の幸福という信念を、世界の客観的意味としてくりかえし確認しているのです。

 

しかし最終的には、ヘーゲルの構図とはやや異なるにせよ、ジークの意識は「主人と奴隷の弁証法」を通過して、自由の境地に達したといえます。

すなわち、かれの意識は、たんに奴隷状態から解放されたのではなく、この奴隷という在りかた自体に含まれる真理を知ったことにより、自由になれたのです。

 

アルミンとの会話をつうじて、ジークが得た気づき。

みじめな奴隷として生まれた自分は、それでもクサヴァーさんとキャッチボールしているあいだは、世界を、自分の生を、価値あるものとして意味づけていたのだ、という気づき。

あぁ… そうだ

ただ投げて 取って…
また投げる ただそれをくり返す

何の意味も無い… でも… 確かに…
俺は… ずっとキャッチボールしているだけでよかったよ (137話)

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137話「巨人」

 

この気づきは、自分が奴隷ではなかったという気づきでは、決してありません

ジークを奴隷にしてしまう「残酷な世界」が、この気づきによって消失するわけではないのです。

そうではなくて、かれは奴隷の境遇にもかかわらず自由でした。

それは、奴隷の在りかたに身を浸しきったジークにのみ、深い確信をもって発見することができた真理なのです。

ジークは弁証法を経験したのです。

――この真理に辿り着くには、かれは遅すぎたことも確かですが。

 

奴隷的パターナリストの自己免罪

ついに赦しを得たジーク。

その瞬間にかれは、かれ自身にしか、すなわち、王家の血をひく巨人継承者にしかできない役目をなしとげます。

「道」で眠っていた、かれにゆかりのある死んだ巨人継承者たちの魂を呼び覚ましたのです(137話)。

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137話「巨人」

 

いまでも「安楽死計画」は間違っていなかったと思うと称しつつも(まあそれはエレンの「地鳴らし」という結果と比べてでしょう)、いまやジークは、次のようにクサヴァーさんに告げることができます。

「あなたとキャッチボールするためなら また... 生まれてもいいかもなって...」

だからジークは、かれに謝罪した、かつての毒親グリシャのことも赦せたのです。

「…だから 一応感謝しとくよ 父さん…」

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137話「巨人」

 

こうしてジークに与えられた赦しとは、実存的にいえば、ジーク自身の自己免罪です。

かれは魂の枷(かせ)をみずから外し、自由になることができたのです。

 

みずからの目的のために、いともたやすく他人の生命を奪ってきたジークが「免罪」されるだなんて、とんでもない! と、怒る読者もいるかもしれません。

ジーク絶許!」と誓ったリヴァイじゃなくても、そう思うのは当然ですね。

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137話「巨人」

 

でも、ここで言いたいのは、そういうことではありません。

ジークが免罪されねばならなかったのは、エルディア人にかけられた呪いからです。

エルディア人に生まれたこと自体が罪深いという、罪の意識からです。

この罪の意識は、たしかにマーレが政治的に作り出したものですが、エルディア人が巨人に変身する民族であるという事実(フィクション内の「事実」ですが)によって正当化されており、そして、ジークが自分自身の人生経験にもとづいて深く内面化してしまった意識なのでした。

そのような罪の意識から解放されたとき、はじめてジークは、かれ自身の手で奪ってきた他人の命に対して、責任を引き受ける準備が整うのです。

 

自分はエルディア人から命を「奪って」いるのではなく、かれらがこの「残酷な世界」に生み落とすであろう子供たちを「救って」やったのだという、ジークの歪んだ信念(114話)。

あれこそ、ジークの奴隷的パターナリズムの表現そのものでした。

あの信念があればこそ、殺される人々の自由も、将来生まれるかもしれない子供たちの自由も一顧だにせず、かれは平気でいられたのです。

でも、あの歪んだ信念のは、自分なんて生まれなければよかったのだという、ジークの根深い絶望でした。

生まれたこと自体が罪だという、あの忌まわしい固定観念でした。

それにもとづいて自分自身を無価値だと信じてきたからこそ、ジークは他人の生命をも軽んじてきたのでした。

 

だとすれば、この絶望から救済され、この(ほんとうは存在しないはずの)罪を自分自身から免除しないかぎり、ジークは他人を尊重することができないでしょう。

かれがパターナリズムと「裏返しの優生思想」の罪悪を自覚できるようになるのは、自分自身が生まれてきたことを免罪しえた後のことなのです。

そのときはじめて、ジークは心から理解するでしょう。

どれほどリヴァイに非難され、ののしられても、かつては感じとれなかったことを。

すなわち、ジークが奪ってきた一つ一つの生命が、それぞれに生の意味を発見し、作り出すことができる、代えのきかない一個の実存であったことを。

 

いまや自分の魂を解放したジーク。

みずから選んだ最期の瞬間、果てしなく広がる青空を目にしたジーク。

そのときかれは、この残酷だけど美しい世界への感嘆を、もらさずにはいられませんでした。

「…いい天気じゃないか」と。

そう感じられるようになったジークは、次のことも認められるようになったのです。

「まあ... いっぱい殺しといて そんなの虫がよすぎるよな…」と(137話)。

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137話「巨人」

 

こうしてジークは、みずからリヴァイに首を斬られました。

「生まれるべきではないのに生まれてしまった」などという架空の罪ではなく、かれ自身の自由と責任に帰される現実の罪に、けじめをつけるために。

和解した父親グリシャとの約束を、すなわち「エレンを止める」という約束を果たすために。

この残酷だけど美しい世界を、未来に遺すために。

――クサヴァーさんに再会するためなら「また生まれてもいい」とジークが思える、この世界を。

――これからも子供たちが生まれ、そして一人ひとりの子とともに新しく意味づけられ、言祝がれるであろう、この世界を。

「一人の子が生まれるたびに、救い主は永遠にその子のなかで、その子によって生まれる」

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137話「巨人」

 

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5.3.b 生まれないことが奴隷の幸福というジークの信念について (中) 〜 自由になることと人間であること

 

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おかげさまで、ハンジさんの記事がたくさん読まれているようです。

かのじょの人気の高さが分かります。

かくいうわたしも、イチオシのキャラはハンジさん(とジャン)でしてね。

ハンジ・ガチ勢に納得していただけたなら望外の喜び。

 

サルトルと反出生主義

さて、ジークの考察に戻りましょう。

生まれないことが奴隷の幸福だと信じた、反出生主義者。

裏返しの優生思想に心を囚われ、民族的「安楽死」に暗い希望を見出した、奴隷的パターナリスト。

それがジークという人間です。

エルディア生まれの毒親育ちであるかぎり、ジークの到達点は、この絶望的希望しかなかったのでしょうか?

 

考察のために、またまたサルトルを持ち出しちゃいます。

「もーまたかよー」「サルトルびいきもいい加減にしろよー」 そんなヤジが聞こえてきそうですが......。

でも、もしサルトル反出生主義をテーマに含んだ作品を書いていたとしたら?

あの実存主義の哲学者が、実存的自由とは対極的な「生まれるべきではない」という思想を扱っていたとしたら?

意外に思われるかもしれませんが、実はそういう作品があるのです。

以下、あらすじの紹介がやや長くなりますが、面白い話だと思うので、お付きあいください。

 

サルトルの神秘劇

対ドイツ戦に徴兵された後、ドイツの侵攻により捕虜にされてしまったサルトルは、1940年末までに『バリオナ』という戯曲を書き上げました。

その年のクリスマスに、かれと同じトリーアの収容所に囚われていたフランス人捕虜たちの前で上演するためです(戦争捕虜が気晴らしのため自主的に文化活動をすることが、当時の西洋では認められていたようです)。

honto.jp

 

観客は、出自も階級も、世代も教育水準もさまざまな、フランス人の男たち。

その大部分は一般民衆ということになります。

ちなみに役者も捕虜で、サルトル自身も役を担いました。

かれらは自由を奪われた捕虜の身であり、故郷の未来も、家族の生活状態も、それどころか明日の我が身がどうなるかすら知らず、不安と苦しみの日々を耐え忍んでいます。

 

そういう客層をふまえて、サルトルは一計を案じます。

まず、クリスマスにちなんだ神秘劇、つまり聖書の物語を題材にした演劇にすること(かれ自身は無神論者ですが、ここではそこは妥協しました)。

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そして、ナチス支配への抵抗のメッセージを作品に込めること――ドイツ当局に見とがめられぬようカムフラージュを施しつつ(たとえば、ドイツ人ではなくイギリス帝国主義者が風刺されているような見せかけ)。

抵抗のメッセージとはいっても、サルトルのそれは、ひとひねりあるものです。

この作品は「苦難を乗り越えて自由をかちとろう」と訴えるのではなく、むしろ「人間は苦しむからこそ自由なのだ」と教えるのです。

そして、このメッセージを効果的に伝えるための仕掛けとして、サルトルは、ジークのそれによく似た反出生主義の思想を、役者に語らせるのです――しかも、ほかでもない劇の主役、バリオナに。

 

生まれないべき理由としての苦しみ

サルトルの神秘劇の主人公バリオナは、古代ローマ帝国に支配された、険しい山あいにあるさびれた小村の、若き村長(むらおさ)です。

この村は、ローマが課す税によりたっぷり搾取され、若者はほとんどみな街に働きに出てしまい、残っているのは年寄りばかり。

それでもローマの行政官は、人頭税の値上げをバリオナに告げます。

拒否すれば、ローマ軍が報復にやってきて、村を荒らしまわるでしょう。

そこでバリオナは、増税に応じるが、そのかわりに自滅を受け入れると宣言することによって、せめてもの抵抗の意志を示します。

つまり、自分を含めた村人に、子を作ってはならないと命じるのです。

われらはこれ以上、生を永続させることも、種族の苦しみを長引かせることも欲さない。われらはもはや子をなさず、悪と、不正と、苦しみに思いを凝らすことの中に生を費やすだろう。

サルトル『バリオナ』第2幕

 

ところが皮肉にも、バリオナがそう命令を発したそのとき、伴侶サラに、二人が待ちわびていた子をついに身ごもったと告げられたのです。

しかしバリオナは、堕胎せよとサラに告げたうえで、こう続けます。

「いまお前が胎内に宿しているこの子に生まれてほしくないのは、この子のためなのだ」と。

バリオナいわく、人間とは世界の「下地」です。

つまり物質的な意味での世界のなかに、人間と同じ数だけ世界が並存しているのです。

だとすれば、ひとりの人間を産むことは、この世界を、そこで人間が味わう苦難とともに「もう一度作る」ことにほかならない。

それでもお前は、子とともに、苦しみに満ちた世界を新たに生み出すというのか。

そうバリオナは、みずからの伴侶に問い詰めるのです。

www.dimanoinmano.it

 

ここでバリオナは、世界の苦しみには絶望をもって向き合うしかないという、暗い確信を表明しています。

人生には絶望しかないと決めつけることが、残酷な世界へのせめてもの復讐だとすら考えている様子。

だからこそ、同じ苦しみを、自分の子や、それを味わう必要のない全ての子供たちには、かれは経験させたくないのです。

こうして、バリオナは反出生主義の代弁者となります。

 

ところがサラは、どうしても子を産むのだと、揺るがぬ決意を表明します。

「この子が盗人のように十字架にかけられ、わたしを呪いながら死んでいくのが確実だとしても、わたしはこの子を産むでしょう」。

こうして反出生主義者の伴侶が、反・反出生主義者として、前者に対峙するのです。

 

「苦しみの向こう側」としての自由

サルトルの神秘劇は、次のように続きます。

絶望のあまり世界を呪い、神すら呪うバリオナに怒った神が、かれの誤った信念を挫き、人間が希望をもつべきことを示すために、キリストを降臨させます。

 

現世では、来たるべき救世主を拝むため旅をする「東方の三博士」が、バリオナの村に立ち寄ります。

救い主の到来の報せを受けて、村人たちは喜びに湧きかえり、三博士につきしたがい、イエスが生まれたベツレヘムに出立しました。

バリオナは、天使の報せは偽りであり、救済への期待はかならずや絶望に変わるだろうと断言して、村人たちに留まるよう説得しますが、だれも耳を貸しません。

もぬけの殻となった村に、バリオナは一人取り残されました。

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東方の三博士

 

この世には苦しみと絶望しかないと信じるバリオナは、三博士ら一行に先回りしてベツレヘムに到着し、偽りの希望の源である赤子のイエスを殺そうと決意します。

そうすれば、この世に誰も新たに生まれるべきではないという、かれの反出生主義的な信念の正しさを皆が理解するだろうと考えたのでした。

しかしバリオナは、イエスの養父ヨセフの希望にかがやく眼を見ることで、赤子を殺すという恐ろしい計画を思いとどまります。

そんなバリオナの姿に、三博士の一人バルタザールが気づきます。

ちなみに、このバルタザールを1940年の捕虜収容所で演じたのは、ほかでもない、サルトルその人です。

 

バルタザール=サルトルはバリオナに告げます。

キリストが降臨したのは、人間の苦しみを取り除いてやるためではないと。

「人間の苦しみは終わるだろうと人は期待するが、いまから二千年後にも人は今日と同じように苦しんでいることだろう」。

ところが、そのことを知るバリオナこそ「誰よりもキリストの近くにいる」と、バルタザール=サルトルは続けます。

なぜなら、キリストが到来したのは、人間が「苦しみにどう向き合うべきかを示すため」だったのだから、と。

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旅する三博士

 

では、どう苦しみに向き合うべきなのか?

まるで当然の責務のように」と、バルタザール=サルトルは教えます。

まるで当然の責務のように苦しみを引き受けるのがふさわしいのであって、……苦しみのことを話しすぎるのは的外れなのだ。

サルトル『バリオナ』第6幕

 

なぜそうしなければならないのか?

苦しむことが、それも人間らしく苦しむことができるのは、人間だけだからです。

石は苦しむでしょうか。天使は人間が苦みと呼ぶものを知っているでしょうか。

でも、もし苦しみのことを考えすぎるなら、人間はモノに、苦しみそのものになってしまいます。

 

だからバルタザール=サルトルは、反出生主義者バリオナに語りかけます。

あなたは苦しみという存在ではない」。

路傍に石が、夜に闇があるように、苦しみを当たり前のものとして引き受けよ。

そのときあなたは「苦しみ」ではなく「苦しみの向こう側」を存在することができるのだ。

そのときあなたは「天空」にいるかのように「自由」になるのだ。

 

生まれることへの赦しとしての自由

それでは、なぜ子が生まれることを妨げてはならないのか?

反出生主義の何が間違っているのか?

バルタザール=サルトルは続けます。すべての人間が自由だからだと。

 

この場合の自由とは、こういうことです。

すべての人間は、世界の「下地」である(バリオナ自身も認識していたこと)。

だとすれば、世界に存在する苦しみは、新しい「下地」のうえで別の意味をもつかもしれない。

苦しみを意味づけ、その存在のしかたを変えるのは、人間ひとりひとりである(バリオナが見なかったこと)。

言い方を変えれば、苦しみとは、モノではなく意味なのです。

したがって、どれほど激しい苦痛であろうとも、苦しみは人間の自由に属するのです。

 

そうだとすれば、バリオナには、生まれようとする子に対して「お前は生まれないほうが幸せだ」などと教える資格も権利もありません。

かれがこの世の苦しみに与えた意味を、かれの子が同じように経験するとは決めつけられないからです。

あなたの子は苦しむだろう。それは確かだ。しかしそれはあなたには関係ない。その子の苦しみに憐れみを抱いてはならない。そんな権利はあなたにはないのだ。その子だけが苦しみに関わるのであり、その子だけが苦しみをみずから欲するものとするだろう。なぜなら、かれは自由なのだから。

サルトル『バリオナ』第6幕

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バルタザール=サルトルが反出生主義者バリオナに教えたのは、つまりこういうことです。

人間の誕生とは、苦しみに満ちた世界に、一つ新しい意味が付与されることである。

すなわちそれは、一つの新しい世界の、言祝ぐべき創出なのである。

一人の子が生まれるたびに、救い主は永遠にその子のなかで、その子によって生まれる」。

 

バルタザール=サルトルの教えによって、バリオナは信仰に目覚め、反出生主義から解放されました。

バリオナは赤子イエスを救い主(メシア、キリスト)と信じ、そしてかれとサラの子の誕生を願います。

それは神への信仰という外観をとった、人間の自由への希望なのです。

反出生主義者バリオナ、世界の苦しみには絶望をもって向き合うしかないと信じたバリオナは、いまや赦されたのです。

この苦難に満ちた世界において、それでも希望をもってよいのだと。

 

救世主の降臨への喜びもつかのま、ヘロデ王の軍がイエスを殺しにきたという報せ(ここでは聖書の物語が改変されています)に、はやくも失望する村人たち。

ところが、いまや村人たちに希望をもつよう説くのは、反出生主義と決別したバリオナです。

エスを、そして生まれてくるバリオナとサラの子を逃がす時をかせぐために、バリオナは村人を率いて、ヘロデ軍を迎えうつのです。

絶えることのない苦しみのなかで、しかし希望と歓喜に心を震わせながら。

 

ジークは赦しを得られるか

サルトルの演劇のあらすじが長くてすみません。

でもそれは、ジークの救済と解放を説明するために、ぜひとも必要だったのです。

 

優生学的反出生主義の執行者ジーク。

かれの意識に、ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」は作動しません。

民族的「安楽死」の計画を実現すること以外に、かれは世界になにも作り出そうとしないからです。

世界のなかに客観化された自己意識を見て「わたしは奴隷ではない、わたしは自立した人間である」と確信することができないからです。

「自分なんて生まれなければよかった」と信じる者に、そんなことができるはずはありません。

生まれないことを、存在しないことを、つまり絶望を完成させることを、唯一の希望として抱く者には。

まさに「この世に生まれないこと これ以上の救済は無い」というわけです――これはジークではなく、なかなかの演技派に成長したエレンが、ジークに話を合わせるために使った言葉ではありますが(115話)。

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115話「支え」

 

こうしてジークは、とことん純化された「虚無への意志」であり、あの「壁の王」フリーダと同じ種類のニヒリストなのです――かれ自身が記憶の旅で「あのお姉ちゃんとは気が合いそう」と漏らしたことが示しているように(121話)。

フリーダのようにジークもまた「何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する」のです。

フリーダよりもはるかに、ジークのほうが能動的、積極的に「虚無」を追い求めている、という違いはありますが。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

そんなジークが奴隷的意識から解放されるためは、ひとつの救済、ひとつの赦しが必要でしょう。

どれほど「世界が残酷」であっても、あなたはこの世界で「虚無」「無意味」以外のなにかを欲してもよい――そういう赦しだけが、反出生主義者ジークの魂を解き放てるのでしょう。

 

そして、この赦しは、バルタザール=サルトルの教えが反出生主義者バリオナに与えた赦しと、まさに同じものであることでしょう。

バリオナが反出生主義から解放されるためには、まず、かれ自身が救われることが必要でした。

希望をもってよいという赦しを、かれ自身が得ることが必要でした。

かれ自身が「苦しみの向こう側」となることができたからこそ、かれは自分の子にも「あらゆる苦しみにもかかわらず、お前は生まれてよいのだ」と確信をもつことができたのです。

 

『進撃』の反出生主義者ジークは、どうすれば赦しを得られるのでしょうか?

どうすればかれは、次のように信じることができるのでしょうか?

わたしは苦しみという存在ではないと。

わたしは「苦しみの向こう側」であると。

わたしは世界の「下地」であると。

わたしは自由であると。

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137話「巨人」

 

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