進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

5.8.c なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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第一の疑問「なぜエレンの過去干渉は過去を改変しないか?」には前記事で答えました。

残る問題は、これです。

なぜエレンは、過去を改変することができないのに、過去をそうあったとおりに決定するためだけに過去に干渉するのか?

そのことに、いったいどんな意味があるのか?

 

「頭がめちゃくちゃに」なったエレン

あの「記憶の旅」においては、エレンはレイス家と対決したグリシャに干渉しましたが、しかしそれは、因果の時間的連鎖には影響を及ぼさないはずの行為でした(5.8.a を参照)。

そして「始祖」掌握後のエレンは、本格的に過去への干渉をはじめたようです。

最終回でエレンは、親友アルミンに吐露しました。

「始祖の力」には「過去も未来も無い」のだと。

そのせいでかれは、ある残酷な決断を迫られ「頭がめちゃくちゃになっちまった」のだと。

すなわち、ライナーたちがウォールマリアを破壊した日、ベルトルトに近づいた無垢の巨人(ダイナ)がかれを喰わないように、エレンがダイナを自分の母親カルラの方に導いたのだというのです (139話)。

 

ご存じのとおり、エレンが干渉したのはこの場面(96話)。

ベルトルトにわき目もふらずに、無垢の巨人(ダイナ)は壁内へ、向かう先はエレンの母カルラのところでした。 

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96話「希望の扉」

 

これをふまえて推測すると、あの「記憶の旅」で起きたことと同じように、エレンは「始祖」を掌握した瞬間、かれが干渉しなければならない過去を見たのでしょう。

すなわち、かれが選択した未来を成立しえないものにしてしまうような、過去の「ルート分岐」を、エレンは見せられたのだと思われます。

その最たるものが、ダイナ巨人にベルトルトが喰われるという「ルート分岐」だったのでしょう。

 

なぜそういう選択を迫られねばならないのかは、もちろん描かれていないので分かりません。

「始祖」の力を完全に掌握した者は、だれでも「そうあったとおりの過去を選ぶかどうか」という試練を突きつけられるのかもしれません。

あるいは、ちょいワル系の天然ジゴロのエレン君に興味を示した始祖ユミルが、悪趣味なしかたでエレンの覚悟のほどを試したのかもしれません。

まあそのへんの事情は、なにか設定があろうがあるまいが、本質的な問題ではないですが。

 

あえて想像をたくましくしてみると、エレンが選択を迫られた過去のできごとは、他にもあったのかもしれません。

たとえば、巨大樹の森で「女型の巨人」に襲われたことは?

もし過去をやりなおす機会が与えられたなら、エレンがやりなおしたいと思うできごとの、それは最有力候補の一つでしょう。

もしそのとき、エレンがリヴァイ班の仲間と戦っていたら、かれらを失わず、アニをより少ない犠牲で捕らえられたかもしれないのですから。

 

それでもエレンは、過去に干渉しませんでした、あるいは干渉できませんでした。

この件を改変してしまえば、その後にどんな不都合が生じるかは明白です。

まず、ストヘス区での大捕り物がなくなります。

そうなると、逃げようとする「女型」が割った壁から巨人の顔が覗く、というあの(当時は)衝撃のできごとも生じません。

ひいては、ハンジさんがニックに壁の秘密を問い質すきっかけそのものがなくなります。つまり調査兵団は、ヒストリアが「壁の王」の血筋だと知る糸口を得られないことになります。

もうしそうなっていたとすれば、王政との対決において、調査兵団はヒストリアを切り札に使うことができなかったでしょう。 ひいては王政に敗北したことでしょう。

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33話「壁」

 

あるいは、ライナーたちにさらわれたエレンを取り戻す戦いのなか、ハンネスさんが無垢の巨人(ダイナ)に喰われてしまったことは?

ウォールマリア破壊のときにダイナの「無垢」を操作したように、ここでもエレンは、ダイナの「無垢」が過去の自分のところに近づいてこないように操作できたでしょう。

そうすれば、ハンネスさん(かれも「さん」づけにしてしまうなあ)が単身、ダイナの「無垢」に挑むこともなかったでしょう。

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50話「叫び」

 

でも、このときダイナの「無垢」と遭遇しなければ、エレンは自分が「座標」をもつと知ることができなかったはずです(この呼び方いつのまにかフェイドアウトしましたね、つまり「始祖」の力ですが)。

というより、この件の報告を受けることで、ロッド・レイスはエレンが「始祖」をもっていると確信し、行動を開始したわけです。

だとすれば、ダイナの「無垢」との遭遇がなければ、兵団が王政を打倒する未来は成立しなかったかもしれないのです。

したがって、このできごとはエレンにとって必要でした。

ひょっとしたら作中で描写されていないだけで、このできごとにおいても、実は「始祖」掌握後にエレンは、ダイナの「無垢」がそう動くように干渉したのかもしれません。

 

(とはいえ、エレンは過去の自分に「始祖」の能力や、その発動条件を、あらかじめ知らせることはできなかったのでしょうか? でも、もしそのように過去干渉するなら、エレンは当初から「始祖」や「進撃」の能力を完全に理解していることになり、いわゆる強くてニューゲーム状態が成立してしまいます。それもまた、予測不可能な歴史の変化をもたらす可能性が高いといえましょう。未来の予測不能な変化のリスクを避けるにためには、やはり過去を改変すべきではないのです。)

 

こうしてエレンは、掌握した「始祖」の力をもってしても、次のように思い知るしかなかったのでしょう。

すなわち、過去をどう改変しても、より悪い結果がもたらされることはあれど、未来がより善いものになることはないと。

かれが決意した「地鳴らし」遂行よりも望ましい結果があるとすれば、それはもちろんパラディ島と世界との和解でしょうけれど、そういう結果にたどり着くルート分岐を作り出すなんて、とうてい不可能なのです。

 

むしろ、エレンが「始祖」の力を掌握するという結果すら、数えきれないほどの残酷な偶然の積み重ねの上に、かろうじて成立しえたもの。

そうなるまえにエレンが敗北し、王政なりマーレなりに「始祖」を奪われていた可能性だって、大いにあったでしょう。

そう心から納得したからこそ、エレンは過去に干渉する能力を得たのに、過去を改変しないどころか、むしろ過去をそうあったとおりに選び、決定したのです――そのことによって、かれの「頭がめちゃくちゃに」なってしまったとしても。

 

「残酷な偶然」と「創造的意志」

そう、かくも残酷な「現在」をなすのは、無限に生じてくる「残酷な偶然」あるいは「過去」の、とほうもない集積なのです。

そして「過去」とは、無数の諸行為の、それらの因果関係の、無限に複雑な連鎖をなしており、その環のたったひとつに手を加えるだけで、すべてを台無しにしてしまうかもしれません。

だからこそ過去は、そうあったとおりにしかありえないのです。

だからこそ現在を、この「残酷な偶然」の集積を、無力な人間は「必然」やら「宿命」やらと呼びならわしてきたのです。

 

しかし、思い出してください。

あの「力への意志」の哲学者、ニーチェ箴言を。

すなわち、必然性と呼ばれるものが「残酷な偶然」の集積にすぎないという認識は、人間の意志を力づけてくれるということを。

 

※ 併せ読みがオススメ

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ニーチェによれば、さしあたり人間は「残酷な偶然」を、ただ「そうであった」こととして、ひとつの「謎」として、受け入れるしかありません。

このトラウマ的経験に耐えられない者は、それに「必然」という名を与えることをつうじて、あの「何も欲しないよりはいっそ無を欲する」ニヒリストになりおおせるでしょう。

 

しかし人間の意志は、残酷でトラウマ的な偶然を「わたしがそう意志した」ことへと逆転させることができます。

「そうあったこと」を「わたしが意志すること」に変える「創造的意志」は、不条理な世界に意味を与えるのです。

すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。

「だがそう意志するのはわたしだ! だからわたしはそう意志するであろう!」と創造的意志が言うまでは。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」

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「始祖」掌握後のエレンの意志、すなわち、過去をそうあったとおりに決定するエレンの意志は、まさにこのような「創造的意志」の極致といえます。

かれが「始祖」の能力をもっておこなったのは、まさに「残酷な偶然」を「わたしが意志したこと」に、そして「わたしが意志するであろうこと」に置き換えることでした。

しかしそれは、決して無意味なことではありません。

ニーチェがいうように、それは「残酷な偶然」に意味を与える「創造的意志」の行為だったのです。

この創造的行為をつうじてのみ、人間は「残酷な偶然」――ニヒリストが「必然」と呼ぶもの――に振り回される奴隷であることをやめ、自由になることができるのです。

「そう意志するのはわたしだ!」

 

時間の「状況」化

結論を引き出しましょう。

過去に干渉する力を手に入れたエレンは、次のことを明らかにしたのでした。

過去干渉の能力が人間に許す自由とは、過去をそうあったとおりに決定する自由でしかないことを。

時間すら飛び越えてみせる、全能の神のごとき力を手にしたところで、人間には、神のそれには遠く及ばぬほど狭く限界づけられた自由しかもたないことを。

諸行為の因果の無限に複雑な連鎖を、思いどおりに改変できるほど広大な知恵なんて、人間にはもちえないことを。

 

むしろ、こう述べるべきでしょう。

時間を超越する人間は、ひきつづき通常の人間と同じ程度に自由であると。

すなわち、実存としての人間と同じ程度に自由であると。

時間超越者としてのエレンが行使した自由とは、過去と呼ばれる「残酷な偶然」の集積を「わたしがそう意志したこと」として引き受け、意味づけなおす自由でした。

この自由は、実存的自由と、すなわち「状況内存在」としての自己を引き受け、意味づけなおすという、すべての人間に委ねられた自由と、本質的に同じものというべきでしょう。

状況とは、無数の他人により決定されたものとして、わたしに対して現れます。

それと同じように「残酷な偶然」としての過去もまた、わたしの行為と、無数の他人による無数の行為との集積として、わたしに対して与えられるのです。

 

このことを、エレンが掌握した「始祖」の力は、いわば時間を「状況」化することによってかれに示しました。

「始祖」の能力は、その保有者の眼前において、過去や未来のできごとを、ひとつの「現在」という同じ平面に並べるものです。

別言すれば、通時的な行為の連鎖を、共時的な状況として置きなおすのです。

 

もしあなたが時間を飛び越えられるとしても、あなたに時間を支配することはできません。

むしろ、過去に干渉する能力は、時間を「状況」として引き受けなおすことを、あなたに迫ることでしょう。

それでもあなたは、時間を旅行したいなんて、あるいは過去をやりなおしたいなんて、空想にふけっていられるでしょうか?

 

時間を超越したいと欲する資格をもつのは、残酷な偶然の集積でしかない過去に向かって、あえて次のように宣言できる者だけです。

「そう意志するのはわたしだ!」と。

ニーチェとともに、あるいはエレン・イェーガーとともに。

その結果として、どれほど苦い涙を飲み込まねばならないとしても。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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5.8.b なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (中) 〜 自由になることと人間であること

 

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第一に、なぜエレンの過去干渉は過去を改変しないのでしょうか?

第二に、それにもかかわらず、エレンが過去に干渉することには、いったいどんな意味があるのでしょうか?

第一の疑問を、ここでは解き明かしてみましょう。

 

タイムトラベルと過去への干渉

ところで『進撃』は、タイムスリップや過去干渉モノのフィクションとしては、かなり異色な作品といえます。

なぜなら、過去に干渉できるくせに、過去をまったく改変しないからです。

そういう系の作品はふつう、未来を変えるために過去を操作するものだと相場が決まっているものではないでしょうか。

 

タイムトラベルといえばドラえもんですが、なぜ22世紀のセワシが先祖のび太ドラえもんをよこしたのか?

子孫の代まで返せない借金を作ってしまうという、のび太の将来を軌道修正するためですよ(知らない方はウィキペディアでも読んでもらえれば)。

 

サイヤ人の王子の息子もそうですよね。

主人公が病気で死んだあと、超つよい人造人間に地球を滅ぼされるという未来を変えるためタイムスリップし、未来に存在する特効薬を過去の主人公に与えたわけです。

(でもそのせいで、かれが干渉しなかった時間軸と干渉した時間軸とが分岐したわけですが。)

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ちょっとひねりが効いているものだと、たとえば映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。

過去にタイムスリップしてしまった主人公は、父親と母親が出会うはずの場面で自分が母親に出会ってしまいます。

過去のかのじょに惚れられてしまった主人公は、このままじゃ自分の存在がなくなってしまうと慌て、過去の父親の恋路を手伝ったわけです。

それでも主人公が未来に帰ってくると、かれが過去に干渉したおかげで、父親は自身に満ちた性格になっており、子供の頃の夢まで叶えていて、家庭も明るくなった、というオチ。

あと、タイプスリップ装置を作った博士も死なずに済む未来になったしね。

この作品でも、けっきょくは過去への干渉により未来が変化したのです。

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こういう過去干渉モノにありがちな展開への皮肉を効かせた作品で、これも映画だけど『バタフライ・エフェクト』なんていうのもあります。

この作品の主人公は、想いをよせる幼馴染の女の子の人生を自分のせいで狂わせてしまい、それを悔いるあまりタイムスリップ能力に目覚めます。

でも、過去をどういじくっても、幼馴染はかならず何かしらの不幸に陥ってしまう。

ついに主人公は、自分が幼馴染の人生に介入するかぎり、かのじょに幸せは訪れないのだと悟ります。

かれが選んだ最後の手段は、幼いうちにかのじょと絶交することでした。

その結果、二人の人生はまったく交差しなくなります。

そのかわりに、ある日、主人公は街中で、順風満帆なライフコースを辿っているようすの幼馴染の姿を見かける、というのがエンディング。

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この作品の教訓は、もしタイムスリップできたとしても、過去に干渉したところで未来を都合よく変えるなんて不可能だろう、ということ。

でも、そうはいっても主人公は、幼馴染が不幸になる未来だけは変えることができたのです――かれが望む未来は、つまり、かのじょが自分とともに幸福に生きる未来は実現できなかったにせよ。

 

つまり何がいいたいかというと、筆者の知るかぎり、現在を変えるために過去を改変することのない過去干渉もののフィクションは、一つも存在しないということです。

そんな作品は『進撃の巨人』だけなのです。

(筆者が知らないだけの可能性はもちろんあるので、誰か知っていたら教えて!)

 

諸行為の因果の無限に複雑な連鎖

ジークが掌握していたはずの「始祖」の時間操作能力を、乗っ取ったエレン。

さらにかれは、始祖ユミルをたらし込みと心を通わせ、ついに「始祖」の力をジークから奪取します。 

しかしそれでもエレンは、過去に干渉する力でもって、過去をそうあったとおりにしか決定しません。

どうしてなのか?

どう過去に干渉したところで「地鳴らし」実行の決断を迫られる状況は避けられなかっただろうと、そうエレンは悟っていたのでしょう。

「地鳴らし」をやるか、すべてを諦めるかの二者択一しかなく、それ以外の「ルート分岐」は不可能だと、そうエレンは理解していたのでしょう。

 

なぜエレンに「ルート分岐」がありえないのか。

第一の理由は、設定です。つまり「始祖」の能力の限界です。

「始祖」には時間すら飛び越えて何でもできるとはいえ、その力が及ぶ対象は「ユミルの民」エルディア人に限定されています。

このことだけでも、エレンが過去に干渉したところで「地鳴らし」を決断しなければならない状況を避けられなかっただろうことの、じゅうぶんな理由になります。

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123話「島の悪魔」

 

もちろんエレンにとっても、最善の解決とは事態の平和的解決であり、パラディ島の真意を世界が理解することでした。

でも、世界各国の意志決定者たちをそう仕向けるために、エルディア人にできることなどあったでしょうか。

パラディ島の外ではどこでも、エルディア人は脅威と見なされ、迫害の対象でした。

唯一、特権的地位をもっていたタイバー家にすら、そんなことはたぶん不可能だったでしょう。

 

それでは、エルディア帝国時代のエルディア人を操作して、かれらが権勢を失わないように導けばよかったのか。

それが「始祖」掌握後のエレンにはできたかもしれませんが、しかしそれは、歴史をまったく異なるものに書き換えることを意味したでしょう。

エレン自身はおろか、そもそもパラディ島の社会が存在しなかったことになったでしょう。

自分の存在を否定することをエレンが選択しえないのは、言うまでもありませんね。

それに、フロックやかつてのグリシャと違って、エレンには「エルディア帝国再興」を大義として掲げる気など、さらさらなかったでしょうし。

 

第二に、もし過去を変えられたとしても、都合よく望みどおりの結果を作り出すなんて可能なのか? という問題があります。

前記事で紹介した映画『バタフライ・エフェクト』は、この問題に対して「不可能」という答えを提示したわけです。

 

考えてもみてください。

わたしの行為に反応して、無数の人々が無数の行為をする。

同じように、誰かの行為に反応して、わたしと他の無数の人々が行為する。

それらの相互作用をつうじて、ある結果が、ある未来が生まれる。

状況がしばしば帯びる必然性とは、そういう無数の行為の相互作用がもたらす帰結でしかないのです。

必然的な未来とは、無数の行為の諸結果がもたらす一結果、あるいは諸結果の諸結果の諸結果の諸結果の......一結果なのです。

それなのに、変更されるべき過去の行為と、変更したいと望む未来の結果とのあいだに介在する、無数の諸結果を望みどおりに操作することなどできるでしょうか?

ひとつの事実は、諸行為の因果の無限に複雑な連鎖が生み出したものなのです。

この連鎖を余すところなく認識し、この連鎖を計画どおりに変更することが、人間の限られた知性にとって可能でしょうか?

もしタイムスリップができるようになったとして、あなたはゲームやラノベの「ルート分岐」のように、現実の歴史のなかに計画的に「ルート分岐」を作り出すことができるでしょうか?

 

その点を考慮しつつ「道」に広がる光の大樹を見ると、その無数の枝分かれが、諸行為の因果の無限に複雑な連鎖を表現しているのかもしれませんね。

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120話「刹那」

 

決定論と自由意志・再々論

この無限に複雑な連鎖を意味づけている哲学者として、ふたたびあの教父哲学者アウグスティヌスを見てみましょう。

かれによれば必然性(決定論)と自由意志は、神の「恩寵」が人間の自由意志を利用する、という関係にあります。

神の「恩寵」とは、世界と人間をどう動かすかについての、神の善き計画、くらいに理解しておいてください。

つまり神が人間たちの行為を決定している、ということです。

 

神が善き計画を実行しているはずなのに、なぜ世界にはこれほどにも多くの悪がはびこっているのか?

なぜキリストは磔(はりつけ)にされたのか?

そういう不平をいいながら、神を呪ったり、神が存在しないと信じたりする者たちに対して、アウグスティヌスは次のように説きます。

神は「悪しき者たちの心をすら利用する」のだと。

善き者たちを称え、助けるために、神が悪しき者たちの心をすら利用するということが、どう証明されるかを見よ! そうであればこそ、神はユダがキリストを裏切るよう仕向け、キリストをはりつけにするためにユダヤ人を用いたのである。そうすることで、どれほど大きな善を、神は信じようとする者たちに与えたことか!

アウグスティヌス「恩寵と自由意志について」

 

キリスト教によれば、たとえ悪しき者たちが預言者エスの磔という結果をもたらしたにもかかわらず、イエスの磔は、人類に贖罪を、赦しを与えるために、神が欲したことなのです。

悪しき者たちは、必然性の、神の意志の、道具であったにすぎないのです。

 

しかしそのことは、人間たちが自由に意志することを打ち消さないと、アウグスティヌスはつけ加えます。

神がただなにかを作り出そうと欲するだけでなく、それを「人間たちを通じて」作り出そうと欲するかぎりにおいて、人間たちは自由であるのです。

かれらがそこにやってきたのは、自由意志からである。だがそれでも、かれらの魂をそう突き動かしたのは神なのだ。……全能の主は、人間たちを通じて作り出さんとするものを作り出すために、かれらの心のなかに意志の運動をすら生じさせることができる。

アウグスティヌス「恩寵と自由意志について」

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この「神は人間たちを通じて」こそ、必然性(=「恩寵」)と自由意志が両立するという宗教哲学的命題を理解するためのキモです。

その神秘的なベールを剥ぎとれば、この命題が表現しているのは、すでに見た無限に複雑な連鎖の二面性であると理解できます。

この連鎖は、もし何もかも知ることができる絶対的存在がいれば、それを見通せるかもしれないが、しかし人間にはとうてい見渡しえない

しかし同時に、この連鎖は人間たちの無数の行為の結果でしかない

 

このことは、実存主義のことばづかいで言い換えることもできます。

すなわち、状況を望みどおりに変更する自由を人間はもたないが、それでも状況とは無数の人間がもつ無数の自由の産物でしかないのです。

状況を決定する、個々の人間には動かしがたい力――それを神と呼ぶのであれ、必然性と呼ぶのであれ。

しかしこの圧倒的な力は、それでも「人間たちを通じて」しか発動しえないのです。「人間の自由に逆らうことを、神はひとつもなしえない」(サルトル

 

だから、必然性と自由とは、表面的には対立しているように見えるとしても、究極的には相互補完の関係にあるのです。

必然性は自由を必要とするのであり、自由は必然性を意味づけるのです。

 

そのことをエレンは、おそらく「始祖」の力を掌握したとき、悟ったのでしょう。

たとえ過去に干渉する能力をもったとしても、過去を「やりなおす」ことは不可能であると。

しかし、もしそうだとしても、エレンがたんに過去(→過去の未来としての現在)の改変を放棄しただけでなく、わざわざ、そうあったとおりの過去を選択したのは、なぜなのでしょうか?

そのせいで、エレンは「頭がめちゃくちゃになっちまった」とすら、親友アルミンに吐露していました (139話)。

なぜエレンは、あえて過去をそうあったとおりに決定したのか。

残る問題は、これです。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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5.8.a の註 なぜグリシャはロッド以外のレイス一族を殺したのか

 

註を別記事に移しました。本文はこちら。

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グリシャがフリーダから「始祖」を奪い、レイス一族を殺したとき、もしフリーダ以外の子供たちが生き残っていれば、かれらの誰かによって、エレンは「すんなり」喰われていただろうと、エレンは推測していました(115話)。

それはどういう意味なのか。考えてみると、ちょっと複雑です。

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115話「支え」

 

いつエレンが喰われる危険があったのか

第一に、エレンが「すんなり」喰われてしまう危険は、いつあったのか。

ロッド家はグリシャが何者かを掴んでいたわけではなさそうなので、エレンがグリシャから巨人を引き継いだ直後ではないでしょう。

というか、この時点でエレンが「始祖」持ちだと知っていれば、さすがにロッドも、自分で喰うなり、新しく子供を作って喰わせるまでエレンを拘束なり監視なり、なにか手を打ったでしょう。

 

だとすれば、エレンが喰われる危険があったのは、かれが巨人の能力者だと判明した直後しかありません。

しかし当初はロッドにも、エレンが「始祖」持ちかどうか確信がなかったのでしょう。

だからこそ、エレンを調べたうえで殺すと提案した憲兵団に、事態を任せておく以上のことはしなかったのです(19話)。

 

どうしてロッドは、それ以上の手を打たなかったのか?

それは、かれ以外にレイス一族の者がいなかったからでしょう。

もしレイス家の者が複数生き残っていれば、ダメもとでエレンを喰ってみるという強硬策もとれたでしょう。

しかし、一族にはロッドしか残っていないのに、かれが一か八かでエレンを喰って、かれが「ハズレ」だったとしたら?

その場合、13年の寿命という制約がロッドにつきますが、そのあいだに始祖を見つけられるとは限りません。

 

もちろんヒストリアがいました。

しかしこの時点では、それにも無理があります。

もともとレイス家の使命を知らないヒストリアに、まだ「始祖」持ちかどうか確信のもてないエレンを喰わせるとして、どうすればかのじょをそう誘導できたでしょうか?

ましてやロッドには、レイス家が「始祖」を奪われたことを、オモテの王政からギリギリまで隠しておきたいという動機もあったのですから(65話)。

(最後の点についてはケニーの推測ですが、しかしロッドは、わが身かわいさから「始祖」を弟や娘になすりつけたという点だけは否定したものの、この点についてはケニーに反論しませんでした。)

 

そういうわけで、グリシャがレイス家をロッド以外みなごろしにしたことは、巨人の力に目覚めたばかりのエレンを、たしかに守ったのです。

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121話「未来の記憶」

 

なぜロッド・レイスだけが生かされるべきだったのか

第二に、なぜロッド・レイスだけが生かされるべきだったのか。

かれの行動が引き金となって、壁内の王政が隠してきた秘密を、兵団が最終的に暴くことができたからなのでしょう。

もしグリシャがレイス家を根絶やしにしていたら、その後の歴史は大きく変わっていたおそれがあります。

 

まず、後ろ盾を失ったオモテの王政が、どう行動したか分かりません。

5年後に兵団はクーデターを成功させ、王政の秘密を暴きますが、そうなる前に、王政の暴走あるいは迷走のせいで、壁内人類は混乱し、巨人の侵入やら内乱やらで滅んでしまっていた、という可能性もありえます。

 

しかも、ライナーたち「マーレの戦士」が潜り込んでいたのです。

もし万が一、かれらが真の王家の全滅を知れば、さっさと故郷に戻ってそれを報告し、マーレは早々にパラディ島せん滅の攻撃を仕掛けたでしょう。

マーレが報告をうのみにして「地鳴らし」は絶対ないと踏めば、その圧倒的軍事力で島を滅ぼしたでしょうし、王家の生き残りがいるかもと慎重に判断したとしても、より積極的な攻撃を仕掛けてきたことは間違いないでしょう。

そうなれば、パラディ島が生き残ることは不可能だったはずです。

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115話「支え」

 

こうして、エレンの見解は恐らく正しいということが分かりました。

あの時グリシャが、ロッド以外のレイス一族をみなごろしにしていなければ、作品で描かれたとおりの歴史は、きっと成立しえなかったのです。

 

(註おわり)

 

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5.8.a なぜエレンは過去に干渉するか、または時間の「状況」化 (上) 〜 自由になることと人間であること

 

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うわーぜんぜん終わらんな、このブログ。

それでもまあ、3月中には書くべきことは書ききれるかと。

 

過去に干渉するエレン

未来予知の能力を得たエレンは、そのことによって必然性に支配されたわけではないということを、過去記事で明らかにしました。

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むしろかれは、必然性を知るがゆえに自由であり、しかもそれでいて、状況を引き受け、意味づける自由な実存であることをやめたわけでもありません。

スピノザ的意味でもサルトル的意味でも、エレンは自由なのです――それがどれほど大きな災厄をもたらす自由であるとしても。

 

さて、本記事では逆に、時間を超越する能力を手に入れたわりには、エレンの自由は大したことのないものだ、という話をします。

「始祖」の絶対的な力を得たあとですら、エレンの自由は、通常の人間の自由に課された制約を、すなわち、状況という制約を、少しも超え出ることがないのです。

 

エレンは未来予知に留まらず、過去に干渉する能力をも手に入れました。

進撃の巨人保有者がもつ、過去の保有者に「未来の記憶」を送りこむ能力のことではありません。

より直接的に、過去に干渉し、過去のできごとを変更する能力のことです。

どうやらエレンは「道」に入ったことで、そして始祖ユミルの協力を得たことで、過去への干渉すらできるようになってしまったようなのです。

 

過去を変えてしまうなんて、まるで全能の神のそれのごとき力です。

ところが、人間に許された自由の域をはるかに超える絶大な力を使って、エレンは何をしたか?

過去を、そうあったとおりに決定する――ただそれだけです。

しかも、そのあとに「仕方が無かったんだよ...」なんて、泣き言をいう始末(139話)。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

なぜエレンは、過去を思いどおりに変更しようとしなかったのか?

あるいは、なぜそうできなかったのか?

この謎を解き明かすことが、本記事の目的です。

 

過去の父親に語りかけるエレン

まずはエレンの過去干渉能力がどんなものかを、作品中の手がかりから推定しましょう。

作品のストーリーの順序で、はじめてエレンが過去に干渉したのは、かれがジークとともに「道」に入ったあと、ジークが掌握した「始祖」の力により引き込まれた「記憶の旅」においてです(120話)。

エレン出生以降のグリシャの記憶を辿るなか、ある時点でグリシャは、ジークに見られていることに気づいているようなそぶりを示します。

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120話「刹那」

 

これはエレンにも、そしてジークにも、意外なことだったようです。

ジークが意図したのは、グリシャの過去をエレンに見せることだけでした(というより、グリシャが毒親のままだったはずだとジーク自身が確かめたかったのでしょうけど)。

 

さらにグリシャは、エレンに「地下室」を見せてやると予告した、あの第1話の場面で、未来からかれを観察しにきた大人のエレンをガン見しているのです(121話)。

第1話でグリシャの表情を作者が描かなかったのは、このシーンの伏線だったのか! ギャー!

(たまたま当時は表情を描かなかったのを、あとで偶然うまい演出として結びつけることができた、ということかもしれませんけど。)

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121話「未来の記憶」

 

このシーンをよく見てください。

グリシャは明らかにエレンに気づいている表情だし、エレンもかれの視線を自分の視線で受けている様子。

かれらはおたがいに意識しあっているのです。

このときエレンは、自分が過去のグリシャを観察しているだけでなく、グリシャに干渉できるということを、すでに察知しているようです。

 

だからこそ、あのレイス家との対決の場面で、グリシャが戦意を喪失したとき、エレンはすこしも動揺しなかったのです。

そんなはずはないと驚くジークをしり目に、エレンは自然な動きでグリシャのそばに身をかがめながら、自分の父親に語りかけたのです(121話)。

何をしてる 立てよ 父さん

忘れたのか? 何をしに ここに来たのか?
犬に食われた妹に 報いるためだろ?

復権派の仲間に ダイナに クルーガーに
報いるために進み続けるんだ
死んでも 死んだ後も

これは 父さんが始めた 物語だろ

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121話「未来の記憶」

 

いやー改めて、この息子、怖すぎでしょ。

 

「始祖」の能力を乗っ取ったエレン

でも、どうしてエレンはグリシャに干渉できたのでしょうか?

「進撃」の能力、つまり「未来の記憶」を過去の継承者に送り込む能力ではなさそうです。

記憶ではなく、言葉そのものを届けているのですから。

しかしながら「始祖」の能力でもなさそう。

まだここでは、エレンは「始祖」の力を掌握していませんでした。

むしろ、このとき「始祖」の力を操っていたのは、レイス家の「不戦の契り」を無効化し、エレンを「記憶の旅」に連れていったジークであったように見えます。

 

明確に答えが描かれてはいないので、推論するしかありません。

大前提として、ジーク(王家の血)+エレン(「始祖」持ち)=「始祖」の能力が発動。

問題は、誰がどうやって「始祖」の力を行使するかです。

 

当初、力の支配権を手にしていたのがジークだったことは確か。

かれ自身がそう言っていましたし、現に始祖ユミルはジークの命令に従って、偽物の鎖を作ったり、エレンを鎖で縛ったりしていたからです(120話)。

このことから、次のように推論できます。

すなわち「始祖」保有者が能力を行使するためには、その精神がまず「道」に入り、次に始祖ユミルに命令する、という段階をふむ必要があるのではないでしょうか。

現実の時間では一瞬のことですが、当人の精神的経験においては、それなりに手間のかかりそうなことです。

 

さらに推測すれば、このことを利用して、初代「壁の王」カール・フリッツは「不戦の契り」を施したのではないでしょうか。

つまり、後の「始祖」継承者たちが「道」の世界に入ったとき、そこでかれらの意志を縛れるように、カール・フリッツは「始祖」の力を使って、なにかを仕掛けたのです。

でも、その「不戦の契り」の効力すら、絶対的ではなかったのでしょう。

だからこそ、ジークは「気の遠くなる時間」をかけてであれ「不戦の契り」を無効化することに成功したのです。

本人の弁によれば、王家の血筋をひきながらも、歴代の「壁の王」=レイス家の思想には染まっていなかったジークには、それが可能だったのでした。

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120話「刹那」

 

ところが、ジークが「始祖」の力を使って開始した「記憶の旅」において、過去のグリシャが、ジークに気づいているような行動をとりはじめます。

先に述べたとおり、これはジークにも、エレンにも、当初は意外だったようす。

なぜこんなことが起きたか?

「始祖」以外の力が働いたと見るべきでしょう。どうやらジークは、一応は「始祖」の力を支配していたようなので。

まったくの推測でしかないですが、これは「進撃」の能力が「始祖」の能力に干渉して引き起こしたイレギュラーな効果だったのではないでしょうか?

「始祖」以外では唯一「進撃」だけが、時間を超越する能力をもっています。

もともとは過去の継承者=グリシャに記憶を伝える能力だったわけですが、ここでは「始祖」の力との相乗効果で、グリシャに対してさらなる干渉ができるようになった、といったところでしょう。

このときエレンは、いわば「始祖」の力を乗っ取ったのです。

 

エレンが最初から、意図的にそれを引き起こしたようには見えません。

でも、きっとかれはすぐに、そういうことが可能なのだと認識したのでしょう。

そうでなければ、グリシャとレイス家との対峙の場面で、あらかじめそれが可能だと知っていたかのように、エレンはグリシャに語りかけたりはしなかったはず。

 

もしそうだとすれば、過去のグリシャがこんどはジークと意志疎通できるようになったこともまた、エレンが意図的にそう仕向けたとしか考えられません(121話)。

まずグリシャは、その場にジークもいるだろうと推測して「いるんだろ?」「お前の望みは叶わない」などと、一方的に声をかけるだけでした。

ところが次の瞬間、グリシャが驚きに目を見開きます。

とつぜん見えるようになった未来のジークにグリシャは語りかけ、さらには再会した息子を抱きしめさえしたのです。

しかもその背後には、挑発とも侮蔑とも、あるいは哀れみともとれるような、なんともいえない暗い視線をジークに注ぐエレンの姿が。

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121話「未来の記憶」

 

なぜエレンは過去のグリシャをジークに対面させたのか。

もちろん、ジークの意志を挫くためでしょう。

エレンもまた自分と同じように父親に虐待されただろうという、ジークの強い思い込みを見て、エレンはジークの本質に気づいたのです。

つまり、父親グリシャに対する哀しくも歪んだ執着を利用して、ジークの動揺を誘うことができると踏んだのです。

まあ図には当たったものの、それでもジークの意志を完全に萎えさせるところまではいきませんでしたが。

 

とにかく、そういうわけでエレンは「始祖」の力を掌握せずして、過去に干渉することができたのでしょう。

 

過去をそうあったとおりに決定するエレン

ところで、過去の父親に干渉したエレンは、それによって何を達成したのか。

過去に生じたとおりのことを生じさせただけです。

つまり、父親グリシャがフリーダを喰って「始祖の巨人」を奪うだけでなく、幼子たちを含めたレイス一族を、ロッド以外みなごろしにするという結果を、生じさせたのです。

 

グリシャにそうしてもらわねばならなかったのは確か。

別のエピソードでエレンが言っていたように(115話を参照)、他の子供たちが生き残っていれば、かれらの誰かによってエレンは「すんなり」喰われ、レイス家に「始祖」を奪い返されたことでしょう。

(この点についても考察してみたのですが、長い脱線になってしまうので、本記事のに回します。)

 

裏を返せば、グリシャがそうしていなかったら、エレンが生き残り、ジークとともに「道」に入る未来はなかったでしょう。  

というより、そもそもエレンが「進撃」とともに「始祖」を継承することすらなかったはず。グリシャが戦意喪失したままなら、フリーダに返り討ちにされたでしょうから。

だとすれば、エレンが「記憶の旅」でグリシャに語りかけようが語りかけまいが、グリシャがフリーダを喰い、ロッド以外のレイス一族を滅ぼしていたのでなければ、辻褄が合いません。

 

つまりエレンの過去干渉は、どう考えても余計なことです。

だってそれは、あってもなくても違いのないはずの行為なのだから。

それは、すでに生じた出来事をそうあったとおりに決定するだけの行為なのだから。

それは、因果の時間的連鎖には影響を及ぼさない行為なのだから。

 

なぜエレンの過去干渉は、過去を改変しないのか?

それにもかかわらず、エレンが過去に干渉することには、いったいどんな意味があるのでしょうか?

 

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註は別記事に移しました。

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5.7.d 補論 ミカサの後日談は『めぞん一刻』を参考にすべきだった説

 

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以下、またちょっとミカサのキャラ造形に文句を言ってしまいますので、苦手なかたはスルーしていただけましたら。

 

どうして墓場にマフラーをもっていった?

最後に話題にしたいのは、単行本で最後に加筆された一シーン。

ミカサが天寿をまっとうしたあと、あのマフラーを巻いたまま葬られた描写のことです。

あれ、余計なんじゃないかなと筆者は思ってしまいました。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

というのも、あのマフラーは、ミカサが「居場所」としてのエレンに執着していたことの象徴でありましたが、しかし最後の対決で、そのマフラーの意味をミカサは変えることができたのです。

それなのに、あれを死ぬまで巻き続けるというのは、自己解放を達成するまえのミカサに戻ってしまったように、筆者にはどうしても見えてしまうのです......。

 

もちろんミカサは終生、エレンを忘れはしなかったでしょうけど、それでも別の男性(ジャンっぽい後ろ姿)と結婚したことが、やはり加筆で描かれています。

ミカサが他の親密な人と「居場所」を作ることは、エレンを忘れないというミカサの決意と、別に矛盾することではないのです。かのじょの幸せはエレンも願っていたし。

家族を作ることができたミカサは、試練を越えたミカサです。

 

それに対して、死ぬときにエレンがくれたマフラーを巻くというのは、試練を越える前のミカサがやりそうなことではないかと思えます。

あれでは、ミカサはいまだに「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系の主役に都合いいヒロインのままじゃないか、と筆者は感じてしまうのです。

作者・諌山も自分の「萌え」から自由ではなかったか。

 

いまなお高橋留美子には学ぶことがある

めぞん一刻』の音無響子さんと五代くんの関係を考えてみてください。

音無響子さんがミカサ、かのじょの急逝した前夫・惣一郎さんがエレン、それで五代くんがジャン(多分)ですよ。

(毎度ながら例が古くて恐縮ですが、知らない人はウィキペディアであらすじでも見てください。)

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すったもんだをくりかえしつつも、響子さんは、自分が五代くんを愛していることをだんだん自覚するようになるのですけど、それでもやはり惣一郎さんへの想いを整理しきれません。

惣一郎さんを愛した自分の想いが「ウソになりそう」と思ってしまうのです。

 

でも五代くんは、ようやく響子さんとのゴールインが決まったあと、最終回まぎわ、惣一郎さんの墓を前に言います。

早逝したかれは、すでに「響子さんの心の一部」になっているのだと。

だから「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます」と。

その一言を聞いて、五代くんに会えてよかったと、心から感じた響子さん。

きっとその後も、惣一郎さんのことは忘れなかったのでしょうけど、でも今を生きている五代裕作くんを、最愛の人として心にもちつづけただろうと思うんですよね。

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ミカサの場合も、けっこう長くエレンを引きずっていたようですね(かれの期待どおり)。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

でも単行本加筆の墓参りの様子なんかを見ると、ジャン(多分)も五代くんのように、エレンを想うかのじょをひっくるめてミカサを愛する度量をみせたんじゃないですかね。

だとすれば、そんなジャン(多分)に支えられて、ミカサもちゃんと今を生きる人に愛を注ぐように、自然となっていくはずではないでしょうか。

昔の想い人を忘れないことと、今を生きる人たちとのあいだに親密な愛情を育んでいくことを両立できるように、やがてきちんと心の整理がついただろうと思います。

 

だからどうしても、ミカサが墓場にまでマフラーを巻いていったという描写には、あまり説得力を感じられないんですよね、筆者には。

もっともらしさのない、むしろ作者の「萌え」というか何というかが強く出過ぎたシーンに見えてしまうというか。

 

「深淵を覗くとき...」

......と、ここまで書いたところで、筆者はふと、恐ろしいことに気づいてしまいました。

ミカサのキャラ設定を、他のマンガのヒロインまでもちだして事こまやかに分析し、作者・諌山の性癖「萌え」にケチをつけてきたのが、じつは両刃の剣だったということに。

つまり、それが同時に筆者自身の「萌え」を、別にそんなものに興味のないブログ読者にさらしてしまう行為でもあったということに。

 

まさにあのニーチェがいっていたとおり。

「他人の「萌え」を覗くとき、他人もまたお前の「萌え」を覗いているのだ」

嘘です。正しくはこうです。

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」

ニーチェ善悪の彼岸』より)

www.kinokuniya.co.jp

 

うん、哲学解説ブログっぽくまとまりました。

そういうわけで、エレミカの話はおしまい。

ミカサについては文句が多くてごめんね。

でもエレミカエンドは尊いよ。

 

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5.7.c 愛の等価交換、またはミカサと始祖ユミルの解放 (下) 〜 自由になることと人間であること

 

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ミカサの現実逃避と「長い夢」

エレンとの最終決戦。

仲間たちが、もはやエレンを殺さずはにかれを阻止できないと覚悟を決めるなか、ミカサだけは動揺を隠すことができません。

それでもかのじょはどうにか、一度は始祖ユミルに囚われたアルミンを救い出したことで、仲間たちが地鳴らしを止めることに貢献しました(137話)。

 

超大型アルミンの爆発で、粉々になった始祖=進撃。

これでもしエレンが死んだとすれば、かれに「お前がずっと嫌いだった」と冷たく突き放されたときの会話が、二人の関係の結末であったということになります。

またもや頭痛に襲われるミカサ(138話)。

 

ところがどっこい「進撃の巨人」が、超大型サイズで復活します。

そこからの、連載組の読者を阿鼻叫喚に陥れた展開は、わざわざ振り返る必要もないでしょう。

この地獄絵図のなか、残された仲間がそれでも戦いつづける一方で、ミカサだけは残酷な現実に耐えられずに「私達の家」に「帰りたい」と、現実逃避してしまいます。

あの「仕方ないでしょ? 世界は残酷なんだから」と割り切っていたミカサの姿は、見る影もありません(32話)。

こうしてミカサは、最終決戦の最後の局面にいたるまでずっと、状況を引き受けられないままだったのです。

 

しかしそのとき、現実を否定したいというミカサの願望が叶ったかのように、ミカサは静かな山奥の小屋で目を覚まします。

そこでどうやら、ミカサはエレンと二人きりで暮らしているようす。

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138話「長い夢」

 

「地鳴らし」も、あの地獄のような戦いも、なーんだ、ミカサの夢だったのか!

エレンがミカサを「嫌いだった」と突き放すルートなんて存在しなかったんだ!

やっぱりエレミカ・ハッピーエンドこそが正義だったんだ!

 

……というわけでもなく、このルートにおいては、マーレ潜入中にミカサがエレンに本心を打ち明け、そのまま駆け落ちしてしまったことになっています。

二人は穏やかな時を過ごしていますが、しかしそのために、もうひとりの幼馴染アルミンも含めて、他のすべての仲間を見捨ててしまったのです。

しかも、巨人能力者の13年の寿命からエレンが逃れられるわけでもないので、愛し合う二人がいっしょに居られる時間は限られています。

 

それでもミカサは幸福を感じられるでしょうけど、しかしその幸福には暗い影がさしています。

すべてを諦めた代償として、束の間の、かりそめの幸福が、二人には与えられたにすぎません。

それは諦念と、そして後ろめたさと表裏一体のものなのです。

 

目を覚ましたミカサは、まだそのことを知りません。

それにもかかわらず、自分はこんな幸福に浸っていいのかと、かのじょは不意に涙を流してしまいます。

それに対するエレンの「もう… どうすることもできないだろ…」という返答により、ミカサは悟りました。

この幸福な瞬間は、ミカサの心を捕えて離さない「あの時 別の答えを選んでいたら」という後悔が生み出した、空想の世界、もしもの世界なのだと。

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138話「長い夢」

 

こういうの、並行世界とか、ルート分岐とか呼べばいいのでしょうか?

現代のフィクション作品では手垢のついた演出手法といえますし、筆者はあまり新鮮味を感じません。

むしろこれは、並行世界でも何でもなくて、強い後悔に捕われたミカサの意識に、エレンが「始祖」の力で介入することにより作り出した、インタラクティブ(双方向的)な空想として理解すべきだと思います。

というのも、この「もしもの世界」のなかで、けっきょくエレンは現実と同じことをした、つまり「マフラーを捨ててくれ」「オレを忘れてくれ」とミカサを突き放したからです。

まさにそれをするためにエレンは、ミカサの意識に介入したのでしょう。

 

エレンの目的が、ミカサを突き放すこと、かのじょの後悔を断ち切ることであったのは明らか。

もしあのとき、かのじょがエレンに本心を告白していたとしても、けっきょく現実は変わらなかったはずだと、つまり、真の自由と幸福をミカサがエレンとともに得ることはできないはずだと、そう伝えようとしたのです。

どうしてもミカサは、エレンとともには幸福になれないのだと。

だから、ミカサに後悔すべきことは何もない、エレンを忘れるべきなのだと。

 

しかし同時に、エレンは自分の本心をミカサに告げてもいます。

もしあのときミカサがコクっていたらかのじょの愛を受け入れていただろうと、つまり、かれもまたミカサを異性として愛していると、そうエレンは伝えているも同然なのだから。

 

愛の等価交換の成立

こうして、空想世界でエレンと再会したミカサは、かれが本心ではミカサを愛してくれていたことを知りました。

同時に、過ぎたことを後悔しても無意味であると、この状況とは別の状況を望むことは現実逃避でしかないと、ミカサは悟ったことでしょう。

 

だとすれば、この状況において自分が何をすべきかを、いまこそミカサは選択しなければなりません。

「オレを忘れてくれ」「マフラーを捨ててくれ」と懇願したエレンに、いまこそミカサは、自分自身の自由と責任において応答しなければなりません。

 

ついに、あのマフラーをふたたび巻いたミカサ。

かのじょはエレンに応えます。「ごめん できない」と。

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138話「長い夢」

 

こうしてミカサはマフラーを、すなわちエレンに対する自分の愛情を、意味づけなおすことができました。

すなわちそれは、どれほど頑なにエレンに突き放されても、自分自身の愛情を偽りのものとして放棄することはない、という決意表明なのです。

だからといってミカサは、エレンに一方的に愛を注いでいるわけではありません。

いまやミカサは理解しています。

エレンの真意と、ミカサを思いやるかれなりの方法を。

現実に背を向けたところで、二人だけで逃げ込むことができる「居場所」がどこにもないことを。

それらのことを理解したうえで、ミカサはエレンの懇願を拒否し、かれを殺す決意を固めたのです。

 

それでは、みずからの手でエレンの命を断つことに、ミカサはどんな意味を見出したのか。

もちろん人類を悪夢から救うためでもありますが、同時にそれは、もはや後戻りできない道を進みつづけるエレンを解き放つためであり、またしたがって、ミカサが自由な「状況内存在」としてエレンを愛するためです。

エレンを斬ることは、かのじょのエレンへの想いが真の愛であることを、そしてミカサが自由な実存であることを、証明する行為だったのです。

 

※ 併せ読みがオススメ

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エレンの望みをミカサは拒否しましたが、その結果として、かれはミカサが自由になるのを見ることができたのでした。

もはやそこにいるのは「主役より強いけど主役を引き立ててくれる」系ヒロインでもなければ、エレンの「戦え」という教えに忠実な奉仕者でもありません。

「状況内存在」として、自由な実存としてひとりの男性を愛した、ひとりの自由な女性なのです。

 

現実逃避をやめたミカサ。

逃れられない状況のなかで、エレンの想いを受け止め、かつ自分の想いを表現するために、何をなすべきかを見定めたミカサ。

それは、みずからの手でエレンを斬ることでした。

引き返せない地獄への歩みから、エレンを解放することでした。

そうしたうえで、エレンを自分の両腕に抱くことでした。

 

こうして、エレンへの想いを表現するミカサの行為と、ミカサへの想いを表現するエレンの行為とは、お互いにとって、愛という同じ尊い価値をもつ行為となったのです。

若きマルクスのいう愛の等価交換が、ついに二人のあいだで成立したのです。

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138話「長い夢」

 

始祖ユミルの解放

こうして達成されたエレミカエンド。

全世界のエレミカ推しの読者は、心を揺さぶられながらも、満足と、一種の安堵とを得たことでしょう。

しかし、どんな読者よりも「エレミカ尊い」と大満足なのは、あの人、そう、始祖ユミルです。

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138話「長い夢」

 

始祖ユミルはカプ厨だった説はネタとして面白いですが、まじめに考察しましょう。

でもまあ、これは解釈が割れるような難しい話ではありませんね。

ミカサとエレンの結末は、ユミルにとっては、かのじょが生前に叶えられなかった願望の代行であり、それを見ることでユミルの魂は救われたということです。

(略して「エレミカ尊すぎて昇天した」でも、まあいいかもしれませんけど。)

 

すでに論じたとおり(5.4.bを参照)、ユミルは巨人の力でもって自由を手にするのではなく、愛情の関係における自由を得ることに期待をもっていました。

誰かを愛し、誰かに愛されること、つまり、対等な人間(かつ女性)として承認されること――それが奴隷ユミルの夢見た自由だったのです。

しかし、ユミルが愛を捧げた相手は、かのじょを対等な人間として扱おうというつもりは毛ほどもなかったわけですが。

 

では、そんなユミルが、王家の血筋であるジークではなくエレンに従うことを決めたとき、なぜかのじょ自身が地鳴らしに積極的だったのか?

エレンの呼びかけに呼応した始祖ユミルは、人類世界を破壊し尽くすことに、グイグイの前のめりの姿勢を示しました。

あのスリの少年が兄弟とともに踏み潰されるときも、その様子をユミルはじっと眺めていました(131話)。

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131話「地鳴らし」

 

そして、アルミンたちがエレンを止めにやってきたときには、エレンを妨害させないために、歴代・九つの巨人たちを無限に呼び出すという、難易度地獄のクソゲー展開をぶっこむほどの容赦のなさを見せたのです(135話)。

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135話「天と地の戦い」

 

でもそれでいて、ジークが「道」にいたゆかりのある巨人保有者たちの魂を引きつけたときも、かれがクサヴァーさんや父親に感謝を表明している様子をガン見しているユミルの姿が。

アルミンいわく、それはおそらくかのじょが「繋がりを求めて」いることの表れです(137話)。

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137話「巨人」

 

つまり始祖ユミルは、生前からの願望を、すなわち、愛をつうじて対等な人間としての承認を得たいという願いを、放棄したわけではなかったのです。

でも「世界など滅ぼしてしまえ」という破滅への意志は、承認への希望とは正反対のもの。

まあでも、これらの感情は、同じコインの裏表なんでしょうね。

誰かに愛され、同じ人間として承認されたい。

でも、この世界は承認を与えてくれない。

だったらそんな世界、否定してやる、みたいな。

 

他にも、いくつか疑問が残っています。

なぜ始祖ユミルにとっては、ミカサでなければならなかったのか?

自分が達成しえなかった愛情の関係における解放を、他の誰かがなしとげるのを見たいという、ユミルのこじらせたカプ厨のごとき願望を、もっと前に満たしてくれる人はいなかったのでしょうか?

条件としては、愛ゆえに盲目的になってしまうようなタイプで、しかし自分の他律的なふるまいを見つめなおし、最終的には愛する相手と対等の関係になれる女性でなければなりません。

そういう恋愛のドラマはしょっちゅう生じるわけではないでしょうけど、でも、いつだってそういう愛が成立してもおかしくないですよね。

 

しかし、前記事(5.1 を参照)で述べたとおり、始祖ユミルが奴隷的意識から解き放たれるには、エレンという媒介が必要だったのです。

奴隷的奉仕をやめるまでは、現世でエレミカの代わりになるような尊いカップルがいくつ誕生したとしても、ユミルはそれをみずからの願望の代行として見ることができなかったのでしょう。

「人間」どうしの愛は、自分自身をすっかり奴隷にしてしまっていたユミルにとっては他人ごとでしかなかったでしょうから。

 

したがって、いわば始祖ユミルのクリア条件は二つだったのです。

第一に、かのじょを奴隷的意識から解き放つこと。この条件を満たしたのがエレンです。

(その副産物が「地鳴らし」とは、とほうもなく不釣り合いな大災厄ですが。)

奴隷的意識から解放されなければ、始祖ユミルは愛する行為と隷従とを区別することができなかったでしょう。   

マルクスは言いました。あなたの愛が「相手の愛を作り出す」ことがなければ、そのとき「あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない」と。

 

第二に、始祖ユミルの叶えられなかった願望を代わりに実現すること。

この条件は、第一の条件が満たされた後でのみ達成可能であり、それゆえにこそミカサだけが、これをなしえたのです。

始祖ユミルを奴隷的意識から解き放ったエレンとのあいだで、愛の関係をつうじた自由を達成しえたミカサだけが。

 

最後に見ておきたいのが、単行本で加筆された、ユミルがフリッツを助けず、娘たちと抱きしめあうシーン(139話)。

これは、ユミルが選ぶことができたかもしれない可能性を描いたものと思われます。

もしこうなっていれば、そのときユミルの意識はもはや奴隷的ではなくなっていたでしょう。

そして、自分の娘たちとの愛情の関係のなかで、ユミルは人間としての承認を得られたことでしょう。

でも、ユミル自身は生前も死後にも、こういう選択がありえたとは、つまり自分が自由に選びえたとは、気づけなかったのです。

あくまで、エレンがかのじょの意識を解放したあとで、ミカサがかのじょに救いを見せたからこそ、ユミルは自分が自由でありえたはずだと気づくことができたのです。

 

それはつまり、愛を求めつつも奴隷のまま世を去った悲しい亡霊ユミルに対して意味を与えることができたのは、けっきょくのところ生者であるミカサであったということ。

だから、次のような言葉をユミルにかける資格をもっていたのも、ミカサだけだったのです(139話 単行本加筆)。

「あなたの愛は長い悪夢だったと思う」

「それでも あなたに生み出された命があるから わたしがいる」

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139話「あの丘の木に向かって」

 

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5.7.b 愛の等価交換、またはミカサと始祖ユミルの解放 (中) 〜 自由になることと人間であること

 

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愛の等価交換の不成立

愛情の関係における自由――始祖ユミルが求めたもの、ミカサがエレンとの関係において到達すべきもの――とは、わたしの愛する行為とあなたの愛する行為との等価交換を成立させることです。

しかし、ミカサの愛する行為にエレンは応えられず、エレンの愛する行為にミカサは応えられません。

たとえ両者が相手をどれほど強く想っているとしても、行為と行為の等価交換が成立しないかぎり、愛は実現されないままなのです。

愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にすることがなければ、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない」(マルクス『経済学・哲学草稿』第三草稿)

 

この等価交換が成立するときにのみ、エレンに対するミカサの愛は、またしたがってミカサに対するエレンの愛は、対等な二人の愛へと昇華されることでしょう。

真の愛、自由な愛へと。

 

ルイーゼのミカサへの崇敬が意味するもの

単独行動を決意したとき、すでにエレンは、ミカサを自分から「解放」しなければならないと考えていました。

他方で、ミカサがみずからの愛情を問いなおすのは、もっと後のこと、すなわち、エレンが「アッカーマンの本能」説を使ってかのじょを突き放した後です。

 

ただしそれより前に、ミカサには別のきっかけもまた与えられていました。

それは「イェーガー派」のルイーゼとのやりとりです。

ルイーゼは意図せずして、ミカサがみずからの愛する行為を客観視することを促したのです。

 

ルイーゼはかつてのトロスト区防衛戦で、ミカサによって救われた群衆のなかにいました。

あたかもエレンがミカサに「戦え」という掟を与えたかのように、ルイーゼはミカサに「力が無ければ何も守れない」と教えられたのです。

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109話「導く者」

 

力への信念から、ルイーゼは「イェーガー派」に加わりました。

同時に、ルイーゼはミカサに対して、崇拝のような敬意を抱いています。

かのじょは軍紀違反で懲罰房に入れられるとき、ミカサに「近づきた」い一心で努力してきたのだと、ミカサに告白したのでした。

そのとき、なぜかミカサの脳裏に浮かぶのは、エレンにマフラーを巻いてもらった想い出(109話)。

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109話「導く者」

 

さらに、懲罰房から去ろうとする瞬間のミカサに、頭痛とともにあの記憶がフラッシュバックします。

かのじょを救出するために人さらいをメッタ刺しにした、あの幼いエレンが。

返り血を浴びた、鬼気迫る恐ろしい少年の姿で。

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109話「導く者」

 

このときミカサが動揺したのは、ルイーゼにとって自分が「戦え」という掟の立法者の役割を、図らずも演じたと知ったからです。

この掟は、幼少のミカサがエレンから受け取ったのと同じもの。

それをルイーゼは、ミカサに授けられたというのです。

しかも、ルイーゼのミカサへの感情は、恋愛の要素を含まないだけになおさら、疑似宗教的な崇拝として、力への信仰や大義への信奉と区別しがたい崇敬の感情として、純化されてしまっています。

 

このような崇敬が自分に捧げられるのを見て、おそらくミカサは意識させられたことでしょう。

自分がそれを愛だと信じているエレンへの感情は、実は、いまルイーゼが自分に向けている崇拝の念と同じものを、愛だと思い込んでいるにすぎないのではないかと。

 

なぜミカサはルイーゼからマフラーを取り返したか

こういう可能性をうすうす認識していたからこそ、エレンに奴隷よばわりされたとき、ミカサはエレンの作り話を否定できなかったのでしょう。

ジークとイェレナの真の計画を知ったアルミンが「エレンの目的がジークと同じはずはない、だからミカサの件も作り話だ」と言ってくれるまで、ミカサはほんとうに、自分がアッカーマンの本能によって動いていたと信じてしまっていたのです(118話)。

 

しかし、あれが作り話だったとしても、もうエレンをかつてのようには信じられないミカサ。

というより、自分はエレンを愛しているのだという確信を、もはや以前のようにはもてなくなったのでしょう。

それを表しているのが、襲いかかるマーレ軍に応戦する準備中、ミカサがマフラーを置いていったことです(118話)。

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118話「騙し討ち」

 

そのマフラーに、妙に感心を示したルイーゼ。

かのじょは戦いのあと、ミカサのマフラーを身に着けちゃっていました。

ちょっとこの人ストーカー気質入ってませんかね。

 

ルイーゼがそうしたのは、以前にエレンと話したとき、このマフラーをミカサに「捨ててほしい」とかれが願っていたからです。

他方で、ルイーゼにとってそれは、憧れのミカサのトレードマーク。

それを すてるなんて とんでもない!

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他方で、さきほどの戦闘中にルイーゼが負った傷は深く、どうやらもう助かりそうにありません。

そこでかのじょは、憧れの人が身に着けていたアイテムを、本人がいらないなら墓場にもっていってしまうと考えたわけです。

ミカサの「返して」というつれない態度にも動じず、ルイーゼは去り際のミカサに告げました。

ミカサに憧れて戦ってきた結果、信念に殉じることになっても悔いはないと(126話)。

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126話「矜持」

 

一連のできごとをつうじてルイーゼがミカサに見せつけたのは、ミカサがエレンに示してきた愛情の、ある一面です。

すなわち「掟」への服従と、立法者への崇拝です。

言い換えれば、ミカサの愛における他律的側面です。

わたしの愛の意味とは、これだけだったのか?

そうミカサは自問せざるをえなかったでしょう。

 

しかしながら、エレンの意向を伝えたルイーゼに、間髪入れずにマフラーを「返して」と強い口調で求めたその瞬間、ミカサの心には、小さくも頑強な反抗の意志が芽生えたように見えます。

ミカサとエレンとの愛の絆を象徴するはずのマフラーを、エレンは捨てるよう望み、そしてルイーゼは墓場にもっていこうとしている。

もしそうなるままに任せてしまえば、ミカサの愛の意味は、ルイーゼの純化された他律的な崇拝と同じものでしかなかったと、最終的に決定されてしまうでしょう。

わたしの愛はそんなものではない!

ミカサの心には、そういう反発が生じたに違いありません。

だとすれば、いまこそミカサは、かのじょの愛情に含まれているはずの能動的要素に、かのじょ自身の自由に、向き合わねばならないのです。

 

ミカサの後悔と「状況内存在」

エレンを止めようというハンジさんの提案にミカサが間髪入れずに応じたのも、エレンの意向に対する芽生えたばかりの反発からでしょう(127話)。

しかし同時に、ミカサの心には後悔が残っています。

ついに「始祖の巨人」の力を発動したエレンに目を奪われながら、ミカサの胸には次のような想いが去来していました。

ミカサや仲間たちが知っていたエレンは、かれの一部にすぎなかったのではないか。

単独行動をはじめたエレンは「最初から何も変わっていない」のではないか。

他の選択肢が存在したかどうかは分からない。

でも「あの時」つまり、エレンに「オレはお前の何だ」と尋ねられたとき、自分が「別の答えを選んでいたら 結果は違っていたんじゃないか」(123話)。

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123話「島の悪魔」

 

こうして、エレンの「地鳴らし」阻止に参加するミカサの心中には、エレンが自分を突き放すことへの反発と、かれがそうする前に自分の本心を告白しなかったことへの後悔とが、同居することになります。

エレンの意向は受け入れたくない。だからこそ、できることならやり直したい。

それがミカサの正直な願望だったことでしょう。

 

ここでのミカサの意識は、半分は自由、しかしもう半分は他律性に囚われたままです。

かのじょが自由であるのは、みずからの愛情の意味を他人に決定されたくないと、愛情の対象であるエレン本人にすらそうされたくないと、そう意志しているかぎりにおいてです。

しかし同時にミカサは、あのとき選択を誤らなければ、思い切って本心を告白していれば、自分はエレン=「居場所」を失わずに済んだのではないかと後悔しています。

この後悔が残るかぎり、ミカサの愛情の意味は、不確定なまま浮遊しつづけるでしょう。

 

実存主義によれば、人間がほんとうに自由になるためには、つまり本来の自己を獲得するためには、自分自身を「状況内存在」として実現しなければなりません。

その一方で、状況とは無関係に、心の願望が満たされることを夢想する者は、決して自由ではなく、むしろ状況に、そして本来の自己に、向き合い損ねているのです。

「状況内存在」としての自己を引き受けることが、いまだミカサはできていないのです。

 

※ 併読がオススメ

unfreiefreiheit-aot.hatenablog.com

 

ルイーゼから取り返したマフラーを、最後の最後まで、ミカサはずっと身に着けないままでした。

これもまた、ミカサが状況を引き受けられていないことの表れとして読み取るべきでしょう。

かのじょはまだ状況に対して、すなわち「地鳴らし」を発動したエレンに対して、かのじょを想ってくれているはずなのにかのじょを突き放したエレンに対して、ミカサはまだ態度を決められずにいるのです。

エレンが捨ててほしいと望んでいるミカサのマフラーに、ミカサ自身がどんな意味を与えるべきなのかを、いまだ決められずにいるのです。

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132話「自由の翼

 

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