進撃の巨人・自由論

半分は哲学の解説ブログ、半分は作品の考察ブログ(最近は3:7くらい)。

1.4.a 不安を生き抜くことの倫理 (上) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

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たいへん長らくお待たせしました!

今回のメインは、みんな大好き、リヴァイ兵長ですよー! 

...といいながら、たいして待っている人もいない当ブログではありますが...(読んでくださる方々、いつもありがとうございます!)、でもそれなりに投稿数は増えてきました。

そんなこんなで、2か月くらい前の記事には、こんなことをチョロっと書いておいたのですが...

「本作においてリヴァイは、実存的自由をもっとも徹底的に実践している登場人物ですが、そのことを論じるのは別の機会にしましょう。」(0.6

その機会がようやく訪れました。

作品世界の基本的ムードとしてのニヒリズムと、それに抗う登場人物たちが体現する反ニヒリスト的な自由の話が終わったところで、ようやく兵長の出番なのです。

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20話「特別作戦班」

  

不安を直視する強さ

やはり以前に説明したことですが、このマンガのテーマとなる自由とは、自己決定または自己支配という「状態」としての自由(積極的自由)です。

積極的自由には、人間の本質としての自由という、あるいは「人間賛歌ッ!!」としての自由という理想が含まれています(0.2)。

ところが、巨人に脅かされた壁内人類にとって人間らしく生きることは難しく、それどころか人間らしく死ねる保障すらない。

人民が世界の真実を知らされないことで、秩序が保たれている世界。

そこでは、何が正しいのか誰も請け合えず、だれもが不安から自由ではない。

そんな世界で、それでも人間らしくありたいと欲する者は、どうすればいいのか。

何をなすべきか、どう生きるべきか、何が価値ある生きかたであるかを、自分で選ぶしかない。

こうして『進撃』の登場人物たちは、積極的自由という主題からいつの間にか離れ、実存的自由を、あるいはサルトルのいう「自由の刑」としての自由を演じるようになるのです(0.6, 0.7)。

 

さて、この構図においてニーチェ的自由は、すなわち反ニヒリズムとしての自由は、どう位置づけられるでしょうか。

それは、強くなければ自由になれないという判断に従うことです。

自由であるためには、正しくあるためには、そして人間らしくあるためには、強さを目指さなければならないと理解することです。

ひとたびそう理解したならば、どのような逆境にも、どのような試練にも、どのような運命にも屈せず、みずからを「力への意志」として首尾一貫させることです。 

 

エレンは、あるいはシガンシナ区の決戦におけるベルトルトは、そのような「力への意志」でありました。

でもかれらは、そういう鉄の意志を、物語の最初からそなえていたわけではありません。

むしろかれらは、不安に翻弄される無力な弱者であり、さながら「風にもてあそばれる木の葉」(ニーチェ道徳の系譜』第三論文)でありました。

でも、そうであるからこそ、かれらは自分自身を「力への意志」たらしめようと鼓舞したのです。

欲することを躊躇なく実行する意志として、自己を一貫させようとする努力

ニーチェ的自由の、反ニヒリスト的自由の、これこそが精髄なのです。

 

でも、ここであえて意地の悪い問いを発してみましょう。

なぜそこまで「力」や「強さ」に執着しなければならないのか?

「強さ」にしがみつく両腕が振りほどかれたら、人は「弱さ」のなかに、気まぐれな「風」にもてあそばれる「木の葉」の境遇に、すなわち不安のなかに、送り返されてしまうだろうと恐れるからです。

だとすれば「力への意志」もまた、ある意味で、虚無への恐怖によって駆り立てられた意志なのかもしれません。

この意志は、不安に陥ることへの、まったく無力な存在として自己を見出すことへの、耐えがたい恐怖を原動力としているのかもしれません。

 

このような意志は、ほんとうの強さと言えるでしょうか?

もしあなたが真の強者であるなら、そういう種類の「強さ」に固執する必要が、どこにあるでしょうか?

もしあなたが真の強者であるなら、どんな不安にも恐れず立ち向かうことができるはず。 

 

そう、リヴァイのように。 

人は不安から逃れられないことを、だからこそ「悔いが残らない方を自分で選」ぶしかないことを知り抜いている、リヴァイのように。

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25話「噛みつく」

   

作中で、圧倒的強者としてふるまうリヴァイ。

かれはたんに戦闘に秀でているから強いわけではありません。

不安が人間の避けがたい条件であることを直視しているがゆえに、リヴァイは強いのです

どんなに強い者でも、サルトルのいう「自由の刑」からは逃れられない。

だからこそ、人は「せいぜい」自分で選ぶしかない。

この実存的条件に慣れ、この実存的条件にいつでも対処できることこそが、リヴァイの底力なのです。

 

「臆病にならないように」

ニーチェ的自由において問題となるのは、不安に打ち克つこと。

それに対してリヴァイが体現する自由とは、いわば不安を生き抜くことです。

このことは、不安の克服とはどう異なるのか?

この違いを鮮明に浮かび上がらせた哲学者を参照してみましょう。

実存主義創始者とされるデンマークの哲学者、セーレン・キルケゴール(1813-55)です。

www.degruyter.com

 

それまでの哲学の伝統的テーマとされてきた世界の究極的真理を脇に置いて、主観的真理を、すなわち、ほかでもないわたしにとっての真理を探究しようと志したのが、キルケゴールという哲学者。

かれが最初の実存主義者とみなされるゆえんは、この新たな哲学的問いの様式にあります。

わたしにとって真理であるような真理を見つけ出すこと、わたしがそのために生きようとも死のうとも思えるような理想を発見すること、それこそ価値あることだ。

キルケゴール、1835年の日記より 

 

そんなキルケゴールの名を世界に広めたのは、主著『あれか、これか』(1843/1849年)や『死に至る病』(1849年)といった著作です。

でもここでは、かれが『建徳的講話』として公刊した諸著作の一部をなす「臆病にならないように」と題された短編をひもといてみましょう。

この短編においてキルケゴールは、俗世において勇敢と称えられる決断と、真の意味で「臆病さ」の克服であるような決断とが、どう異なるのかを考察しています。

 

世にいう勇気は「おれはこんなにも勇敢なのだ」という誇り、自尊心をしばしば伴います。

しかしキルケゴールにいわせれば、それは臆病さの一つの表れでしかありません。

「誇りと臆病はまったく同一のものである」と、かれは断言します。

どういうことか。

選ぶ者、決断する者、あえて「危険のなかに飛び込」んでみせる者は、本当の危険から目を逸らしているという意味です。

人間だれもが否応なく投げ込まれている「危険」から、すなわち、生きるということ自体の危険から、目を逸らしているということです。 

仰々しい話し方をしていると、実際に危険のただなかにいることを忘れてしまうので、問題は大胆に危険のなかに飛び込むことではなく、自分を救うことである、ということが見失われてしまう。……私たちは、生まれたことによって危険のなかに投げ込まれ、いまなおそこにいるのである。

キルケゴール 『四つの建徳的講話』1844年(新地書房『講話・遺稿集』第2巻)

www.e-hon.ne.jp

 

「大胆に危険のなかに飛び込む」決断ときくと、ニーチェがいう「力への意志」を連想させられます。

力への意志」とは、不条理で残酷な世界を前にして、ならばわたしが世界を意味づけてやろう、と宣言するような意志です。

ところがキルケゴールにいわせれば、みずからの大胆な決断に酔いしれる者は、ただの臆病者です。

勇敢に決断する者は、無意味や不条理と関わり合いになることを恐れているのです。

しかしながら、ほんとうの決断とは「無意味」を「意味」に取り換えることではなくて、無意味を耐え、無意味を潜り抜けようとする努力なのです。 

決断は、無意味なものが意味のあるものになる、などと主張するのではない。ただ、無意味なものを無意味なものとして扱い、しかもたえず決断を改めるということでそれに対処すべきである、と主張するだけである。これとは違って、臆病はたえず意味のあるものにかかわりを持ちたがるが、……失敗しても、それが意味のあるものであったとすれば、慰めになるからである。

キルケゴール 『四つの建徳的講話』

 

つまり、こういうことです。

あえて危険を冒すことには意味があると人は思い込む。

しかし、そもそも人間の生そのものが危険に満ちている。生が無意味であり不条理であること自体が、人間にとって危険なのである。

この無意味を意味だと見せかけようとして「大胆に危険のなかに飛び込む」ことは、臆病者の愚行にすぎない。世にいう勇敢な決断とは、じつは形を変えた臆病なのである。

だが、真の決断は「無意味なものを無意味なものとして」扱うことを恐れない。すなわち「たえず決断を改める」ということである。

わたしは一度選んだものに固執しつづけるべきではない。むしろ、何度でも、何度でも選ばねばならない。

選択を恐れないことが、選択の繰り返しを恐れないことが、ほんとうの「決断」なのである。

 

あれ、こうして見るとキルケゴールの文章は、なんだかリヴァイのセリフっぽくありませんか?

リヴァイ「俺にはわからない」「ずっとそうだ...」「結果は誰にもわからなかった...」

キルケゴール「無意味な生を無意味として扱え」

リヴァイ「だから... まぁせいぜい... 悔いが残らない方を自分で選べ」

キルケゴール「たえず決断を改めながら、無意味な生に対処せよ」

ほらね?

 

リヴァイにおける「無知の知

実際、リヴァイが直面している世界は、極めつきに残酷で不条理な世界です。

人間を喰らう正体不明の巨人たちに包囲されつつも、どうやって築かれたか分からない謎の壁によって巨人から守られて、いつまで続くかも分からない平穏を享受している。

そのような壁内世界を、リヴァイは「常にドブの臭いがする空気で満たされ」ていると形容しました。

この臭気は、無知に身を委ね、自由を放棄している壁内人類の生き方そのものを指します。しかしリヴァイは、壁の外の空気を「吸った」ことで、この無知に気づくことができたのです。

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53話「狼煙」

 

ソクラテスの「無知の知」みたいなことをいうリヴァイ。

しかしこの「知」は、世界の不条理を少しも減らしてくれません。

それは世界の真理について、わずかな手がかりすら含んでいません。

しかしリヴァイは、みずからが無知であること、逃れられない不条理のなかに生きていることを鋭く自覚しています。

だからこそ、かれは「悔いが残らない方を自分で選」ぶ生き方を貫けるのです。

キルケゴールのいう「たえず決断を改め」る生き方を。

あるいは、サルトルのいう「自由の刑」を。

 

「役者」 としてのリヴァイ

そのようなリヴァイの生きざまが凝縮されたセリフを見てみましょう。

レイス家の血筋だと判明したヒストリアに、現政権の代わりに壁の王になれとリヴァイが迫るシーン(56話)。

かれは怖気づくヒストリアを締め上げながら「いやなら逃げろ」「俺たちは全力をかけてお前を従わせる」「選べ」とかのじょに迫りました。

そのさまにドン引きの新リヴァイ班(104期)に、リヴァイは「お前らは明日 何をしてると思う?」「隣にいる奴が... 明日も隣にいると思うか?」と問いかけます。

俺はそうは思わない そして普通の奴は毎日そんなことを考えないだろうな...

つまり俺は普通じゃない 異常な奴だ...

異常なものをあまりに多く見すぎちまったせいだと思ってる

だが明日... ウォール・ローゼが突破され 異常事態に陥った場合 俺は誰よりも迅速に対応し 戦える

明日からまた あの地獄が始まってもだ

お前らも数々見てきたあれが...... 明日からじゃない根拠はどこにもねぇんだからな

しかしだ こんな毎日を早いとこ何とかしてぇのに... それを邪魔してくる奴がいる

俺はそんな奴らを皆殺しにする異常者の役を買って出ていい   

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56話「役者」

 

リヴァイの話を整理すると、こういうことです。

① いつ巨人が壁を破って襲撃してくるか分からない世界では、あらゆる状況に対して、いつでも、迅速に判断し、躊躇なく対応できるような心構えが、自分はできている。

② だから、敵が巨人ではなく、巨人との戦いを妨害する人間であったとしても、自分は迅速に判断し、必要とあらば容赦なく相手を殺すことができる。

③ でも、ヒストリアが王座に就けば人類同士で流す血が少なくて済むなら、そっちのほうが望ましいに決まっている。だから自分はいっさいの躊躇なく、ヒストリアに王の役目を強制する。(上の引用では省略したけど。)

つまり、ヒストリアは王になるべきだし、逡巡している時間もないから、かのじょを脅してでも従わせるしかねぇんだよオラァ! という話です。

 

エレンに対しては、リヴァイは本当に選ばせるつもりで「選べ」と言いましたが(0.6)、このヒストリアに対する「選べ」は、服従させる気まんまん。かのじょには選択の余地も、ゆっくり考える時間の余裕すら与えませんでした。

酷すぎるよ兵長! そりゃ新米の部下たちがドン引きするのも当然です。

でも、このあんまりにあんまりな物言いも、リヴァイの口から出てくると説得力を帯びてくるから不思議。

どうしてでしょう。かれの腕力や戦闘能力がズバ抜けていて、逆らっても敵いっこないから?

いやむしろ、リヴァイの精神的な強さキルケゴールのいう真の意味での「決断」を実践できる強さこそが、かれの言葉に説得力を与えていると言うべきでしょう。

「俺は異常な奴だ」「敵対する人間を皆殺しにする異常者の役を買って出ていい」と、リヴァイは宣言してはばかりません。

つまり、この不条理で不可解な世界に対処するためならば、どんなに「異常」と見なされようとも、迅速に、躊躇なく、必要な判断を下し、実行できるというのです。

 

このようなリヴァイの覚悟は、ニーチェ的な「力への意志」とは区別されねばなりません。

かれは「どれほど異常と見なされても自分が決めたことを貫く」と言っているわけではないのです。

というのも、かれは「自分が決めたこと」に、自分の決断そのものに、固執しているわけではないからです。

絶えず変転する状況に対処するためには何であろうとやってみせると、リヴァイはそう言っているのです。

必要ならば、どんな役割でも、まっとうな人間なら忌避するだろう汚れ仕事であっても、機を逸することなく遂行してみせる。

しかし状況が変われば、いつでも判断を変更し、新たな状況のなかでなすべきことに対処してみせる。

「臆病」にはならない。「たえず決断を改める」ことを恐れはしない。

リヴァイはそう覚悟しているのです。

 

このエピソードの題名は「役者」。

壁の王に仕立て上げられようとしているヒストリアを指すようにも聞こえますが、リヴァイのセリフをかみ砕いてみると、じつは誰よりもリヴァイのことを意味しているのだと分かります。 

リヴァイは、キルケゴールの言う意味での「決断」に向けて、すなわち「たえず決断を改める」ことに向けて、つねに心の備えができています。

「たえず決断を改める」とは、状況が必要とするかぎりで、どんな「役割」でも引き受ける覚悟をもつこと。

どれほど自分を苦しめ、貶める役回りであっても引き受け、なおかつ状況が変われば、かつての役割には固執しないこと。

危険に満ちた人生という舞台劇において、どんな演技でも引き受けることができる「役者」になること。

それができるからこそリヴァイは、真の意味における強者、真の意味における勇敢な者なのです。

  

真の決断ができる人間を、キルケゴールは「聖別」を受けた人間として祝福しています。

リヴァイのような人物にこそ、キルケゴールの祝福が与えられるべきでしょう。

……このようなことがわかると、自分が臆病であるのを自覚しながら、感謝することができる。……決断による緊張や決定を冷静にする慎みをともない、すべてが結実することを目ざして、その人は落着いていられるようになる。このような認識、このように決断に賛同すること、それこそ第一の聖別である。

キルケゴール 『四つの建徳的講話』 

 

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1.3.b 反ニヒリストと「力への意志」 (下) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

「上」から読んでね!

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力への意志」になりきったエレン

 そんなこんなで、いろいろ経験して成長し、覚悟ガンギマリになったエレンは、最終的にはテコでも揺るがぬ「力への意志」の持ち主となりました。

「道」をつうじた過去旅行で再会した父親グリシャに「これは 父さんが始めた物語だろ」と、レイス家の一族を幼子もろとも踏みつぶす選択を迫るほどの、肚の決まりようです(121話)。

このシーンでは、本作のニヒリスト最右翼であるフリーダを睨みつける、エレンの凄い目つきもまた印象的です。 

グリシャをはさんだ、極めつけのニヒリストと極めつけの反ニヒリストとの対決という趣がありますね。  

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121話「未来の記憶」

  

力への意志」とは、世界が残酷であることを、そのような世界のなかで自由であろうとすることの苦しみを、あえて引き受けようとする意志です。

初期に出てきた「どれだけ世界が残酷でも関係無い」というフレーズに象徴されるような意志です。

そして終盤のエレンは、自分自身をそのような「力への意志」の化身にしてしまいました。それが「地鳴らし」なのです。

純粋な「力への意志」になることで、世界中の人々を蹂躙するだけでなく、自分自身も苦しみ抜きながら(0.9.b 参照)。

そのようにしてエレンは、自由への渇望をその極限にまで推し進めましたが、この自由とはまさにニーチェ的な自由だったのです。

 

反ニヒリストとしてのベルトルト

もう一人の際立った反ニヒリストは、ベルトルトです。

というより、かれは存命中最後の見せ場で「力への意志」へと、反ニヒリストへと変身してみせたのです。

でも、そのような決断に至るまでに、かれは実存的なドラマを潜り抜けねばなりませんでした。

 

ベルトルトはポテンシャルは高いけど、引っ込み思案で他人任せな性格。

パラディ島での訓練生時代にも、教官に「高い潜在性」を感じさせる反面「積極性」に欠けると評されていました(18話)。

正体を露わにした後は、エレンに「腰巾着野郎」とディスられてしまう始末(46話)。

高い能力をもっていて、しかも実は「超大型巨人」なのに、意志の力はポンコツなベルトルト。

かれの精神性は「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」とは真逆といえます。

 

そんなベルトルトも、かれらマーレの「戦士」に課された任務を遂げるために、かれなりに努力している。

でも、かれの意志は任務に忠実だけど、任務をわがこととして引き受ける覚悟は整っていない。

だから、訓練生時代の仲間に囲まれ「全部嘘だったのかよ」と問い詰められると、ベルトルトは耐えられない。

「誰か僕らを見つけてくれ...」と泣き言をもらしてしまうのです(48話)。

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48話「誰か」

 

そんなベルトルトが、迫る調査兵団との最終決戦を前に思い出すのは、かれらの秘密を知った同期生マルコを巨人に喰わせて口封じしたこと。

マルコの悲痛な訴え。悲しみに歪んだアニの表情。

そして、自分で命令しておきながら、マルコが巨人に喰われるさまを見て「オイ...何で...」と人格分裂をきたしたライナー。

これらを思い出して、もうこんな苦しみは自分たちで「終わり」にしなければならないと、ベルトルトは覚悟を決めます(77話)。 

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77話「彼らが見た世界」

 

それからのベルトルトは、まるで別人のような肚のすわりよう。

かれはアルミンらに、君たちは「悪魔なんかじゃない」けど、でも全員殺すことを「僕が決めた」と、落ち着き払って宣告します。

アルミンの精神攻撃をものともせず、ミカサの奇襲もたくみに跳ね返したのです(78話)。 

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78話「光臨」

  

もうベルトルトは決めたのです。

もうベルトルトは選んだのです。

この残酷な責務から逃れられないなら、自分の力でそれをやり遂げ、終わらせるしかないと。

だから、もはやかつての仲間を「悪魔の末裔」とののしる必要は、ベルトルトにはありません。

かれらが悪魔であろうがなかろうが、ベルトルトはかれらを自分の意志で殺せばいいのです。

 

ここでベルトルトが実演しているのは「自分」を選ぶ自由、すなわち実存的自由です。

同時に、みずからを「力への意志」たらしめる反ニヒリスト的自由でもあります。

ニーチェの哲学的立場もまた実存主義と見なされることがありますが、実際、ニーチェの反ニヒリズムは「自分自身を選ぶ自由と責任」という実存主義的テーマと響きあうものがあります。

いかなる指針も規範にも導かれることなく、みずからの意志のみにしたがって、みずからを能動的な力たらしめよと、ニーチェは説いているのですから。

そしてベルトルトのエピソードは、実存主義と反ニヒリズムの共鳴を、よく表しています。

 

力への意志」としての自分を選んだベルトルトは、このように達観します。

またもや「残酷な世界」というフレーズのリフレインです。

きっと... どんな結果になっても受け入れられる気がする

そうだ... 誰も悪くない...

全部仕方なかった

だって世界は こんなにも――残酷じゃないか (78話) 

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78話「光臨」

 

終盤のエレンにとって「地鳴らし」以外に選択肢がなかったように、ここでのベルトルトにも、大切な仲間を殺すというもっとも残酷な選択肢しかありませんでした。

すべてが「仕方なかった」。

でもそれは、運命への受動的服従者に実行できることではない。

運命を克服せんとする不屈の意志がなければ、みずからを悪魔にすることはできない。

だからエレンやベルトルトには「自分がそう決めた」と宣言することが必要だったのです。

ツァラトゥストラになる必要が、かれらにはあったのです。

再度、引用しましょう。

すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」

 

ニーチェ的に生きる者がニーチェ的には死ねない世界

でもまあ、ベルトルトは「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」はできたものの、死に際に「我が生涯に一片の悔い無し」はダメでした。

巨人化したアルミンに喰われるところで意識が戻ったベルトルトは、思わず仲間に助けを求めてしまいます。その仲間とさっきまで殺し合っていたことを、一瞬忘れて(84話)。 

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84話「白夜」

 

このシーンのせいで、やっぱりベルトルトは覚悟の決まらない臆病者で終わった、みたいな評価に落ち着いてしまったように思います。

でもこの作品で、巨人に喰われながら立派に死ねる人なんて、ほとんどいないんですよね。

喰われる瞬間まで醜態をさらさなかったのは、前記事で触れたイアンくらい。

あとはみんな、もがき、泣き叫んでいます。たとえば、調査兵団でリヴァイに次ぐ実力者だったミケでも(35話)。

 

でも、そんなもんですよね。

もし巨大な化け物に喰われて死ぬとなったら、人間、そうなるのが普通ですよ。

巨人にかじられながら「我が生涯に一片の悔い無し」するなんて、想像できますか?

いやームリムリ。

『進撃』の世界で「力への意志」を貫き、某拳王のように死ぬなんて、ハードルが高すぎるのです。

 

その点、作者・諌山は意識的に描いているように見受けられます。 

この作品は、強者信仰を煽ったり、困難に挑む勇敢な者たちの悲劇的な英雄主義をロマンチックに理想化したり、ということを、実はしていません

断片的にはロマンティックな英雄主義もありますが、しかしそれは常にどこかの段階で覆されてしまうのです。 

その一方で、ニーチェ的な反ニヒリストだけでなく、無力な者、自分を「力への意志」と化すことができない者にも、ちゃんと役柄が割り当てられています。

このように仕立てられた舞台劇に「我が生涯に一片の悔い無し」的なシーンが入り込む余地はありません。

ニーチェが理想化したような、自己を死の瞬間まで運命の肯定者として貫くことは、この作品世界ではできない相談なのです。

 

いや、実はそんなことないな。

「我が生涯に一片の悔い無し」に似たムードで最期を迎えたキャラもいました。

思い浮かぶのは、仲間を決戦の地に向かわせるために命がけで「地鳴らし」の足止めを試みた、ハンジさんの最期です。

死にゆく彼女は、夢か現か、先に死んだ仲間に「お前は役目を果たした」と告げてもらえました(132話)。

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132話「自由の翼

 

そのときのハンジさんの表情は「一片の悔い無し」 感をたたえてるようにも見えます。

もちろん「あーあ、やっぱ死んじゃったか、自分」という諦念も混ざっているような表情であって、拳王的な、清々しいまでに傲慢な「悔い無し」ではありません。

でも同時に、自分の生を価値ある自由の表現たらしめることが最期にできたという実感が、彼女の表情からは読み取れるのです。

  

ベルトルトはニーチェ的な「力への意志」となりました。

しかし、自分が選んだ自由のために死ぬとき、ベルトルトは運命の肯定者として世を去ることができませんでした。

ハンジさんはニーチェ的自由を行動原理にはしませんでした。

彼女が目指す自由、すなわち調査兵団の自由とは「力への意志」ではなく、それとは別のなにかでした(0.9.c も参照)。

しかし、自分が選んだ自由のために死ぬ瞬間、ハンジさんは運命の肯定者として、最期に自分の生き方に納得することができたのです。

『進撃』はニーチェ的ムードに始まるが、それには終わらない作品だ、という筆者の主張は、この対比によっても証拠づけられていると言えるでしょう。

 

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1.3.a 反ニヒリストと「力への意志」 (上) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

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力への意志」 ~ ニヒリズムを克服する自由

ニーチェによればニヒリズムとは、挫折させられた自由の埋め合わせです。

「虚無への意志」は、まるで魔法のように、無意味を意味に、無目的を目的に、不条理を条理に、行為する理由がないことを行為の理由に、変えてしまうのです。

だからニヒリズムは、無力な者がより無力な者を支配するための手段にすらなりえます。

でもニヒリズムは、やはりほんとうの自由とはいえないでしょう。

虚無を欲することは何も得られない虚しさよりはマシかもしれないけど、それは結局のところ、運命の奴隷であることの受忍でしかないのです。

 

そのようなニヒリズムを克服するためには、どうすればいいのか。

ニーチェによれば反ニヒリストは、生きることの虚無、その無意味、その無目的、その不条理を、人間の能動性の、その創造性の、その自由の、逆説的な条件として引き受けます。

このことを見ていきましょう。

 

ニーチェもまた「世界は残酷」であることを認めています。

世界とは、すべての「そうであった」ことの帰結であり、他の「そうであったかもしれない」ことの帰結ではないからです。

そのような世界に直面することは、われわれにとっては「残酷な偶然」でしかありません。

しかしながら反ニヒリストは、この「残酷な偶然」を「そうであった」ことの結果から「わたしがそう意志した」ことの結果へと逆転させることができるのです。

これがニーチェの反ニヒリズムの精髄といえるでしょう。

すべての「そうであった」は、一つの断片であり、謎であり、残酷な偶然である――「だがそう意志したのはわたしだ!」と創造的意志が言うまでは。

「だがそう意志するのはわたしだ! だからわたしはそう意志するであろう!」と創造的意志が言うまでは。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「救済について」

 

この一節には、ニーチェの「永劫回帰」の思想が表現されていると言われます。

 「これが人生だったのか。よし、もう一度!」という運命肯定の思想ですね。

運命を受け入れるという点では、永劫回帰は中央憲兵団兵士の「構いませんよ 全ては無意味です」と同じことに見えるかもしれません。

でも、実際は全然違います。不条理な世界を受動的に受け入れるニヒリストと、不条理な世界に能動的に挑みかかる反ニヒリストとは、根本的に違うのです。 

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サッカー少年に喩えてくれる親切なツァラトゥストラ

   

意志は、過去を変えることも、過去の積み重なった結果としての現実を変えることもできません。

でも、反ニヒリストはこんな風に宣言し、行動することができます。

「無意味な人生? 不条理な世界? 上等じゃあないか。それならわたしは、自由に意志しよう。人生を、世界を、自由に意味づけよう。」

「どんな困難、どんな挫折が待ちうけていようが、わたしは自由に意志することをやめないだろう。」

「さあ運命よ、人生とはどんなものかわたしに教えてみよ!」

(これ、ニーチェ自身の言葉じゃなくて、筆者による「超訳」です。乾いた笑い。)

 

こういう能動的態度をとるわたしにとって、自分の人生の意味をはかる尺度は、外的なものではなく内的なもの、すなわち、不条理な世界でも、不条理を覆い隠す道徳的善悪や良心の教えでもなく、自分自身の力、それのみになります。

いかなる意味も価値も外からはやってこないと知っているからこそ、わたしはみずからの力を発揮し、みずからの意志を成し遂げることに意味を見出すことができます。

無意味な世界において、自分自身が意味の源泉であると知っているからこそ、わたしは「よし、もう一度!」と言うことができるのです。

 

あなたは反ニヒリストになれるか

こうしてみると、ニーチェのいう「力への意志」とは、人生を意味づけるのは自分しだい、自分の力しだいという意味に理解できそうです。

ただし、ここでいう人生の意味づけを「自分を信じて前向きに生きていこう」みたいなヌルい自己啓発と取るべきではありません。

もっと毒々しいことをニーチェは言っています。

彼のいう「力」とは、生をより豊かにするための力、すなわち能力、才知、健康さ、精神の強靭さ、等々も含んでいますが、しかし同時に、他人と競い、他人に抜きん出て、他人を支配するための力、つまり腕力や権力のことでもあります。

ニーチェにおいて、運命に抗う力と、他者を支配する力に、基本的には区別はないのです。

 

超訳ニーチェ』がヒットしたあたり(ずいぶん前の話だけど)から特にそうなのでしょうけど、ニーチェは読者を元気で前向きにしてくれる自己啓発系の哲学なんだと誤解する向きがあります。

しかしニーチェ哲学は、自分を信じて前向きに生きようなんて、ホンワカした話じゃないのです。

中島義道が「あなたがたニーチェの解説本だけ読んで「神の死」とか「ニヒリズムの克服」とか分かった気になってますけど、バカですか? お前ら無力だから死ぬしかないぞって言われてる「畜群」とは、あなたがたのことなんですが。それでもニーチェ読んで元気になれます?」(大意)と言っていますが、その点はまったく同感です。

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人間はどうすれば自由になれるんですか、ニーチェ先生

「強者であれ、運命をなぎ倒せ、他者を屈服させよ! 傲慢にふるまえ、後悔するな、自分の意志を貫き通せ! どれほどの苦しみに直面しようとも!」

ニーチェが主張しているのは、要するにそういうことです。

ノリとしては、某世紀末の世界そのもの。

「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」という聖帝様の精神が、そして「我が生涯に一片の悔い無し」という拳王の精神が必要でしょう。

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もちろん、そういう言葉に説得力をもたせる強さがあれば、という但し書きがつきます。

あなたやわたしのような、ひ弱なパンピーがそうふるまったところで「汚物は消毒だ~!!」されてしまうのが関の山でしょうから。

ニーチェ的自由、ニーチェ的な反ニヒリズムは、エリート主義的な自由であって、実践するには相当ハードルが高いのです。ニーチェ自身、実践できてないですからね

 

反ニヒリストとしてのエレン

とはいっても、ニーチェ的な脱ニヒリズムは、核の炎に包まれた後の世界を拳で制覇することでしか達成できないわけではないのです。

みずからを「力への意志」たらしめること。

自由を阻む敵に打ち勝つだけでなく、運命の「残酷さ」に直面しても、なお強くあること。

力をもつだけでなく、意志そのものにおいて力であること。

それが反ニヒリストの生きざまなのです。

 

『進撃』で一番強烈な意志の持ち主は、やはり主人公エレンでしょう。

かれは実力が伴わず、トロスト区襲撃であっさり巨人に喰われてしまいますが、そのとき巨人の力に開眼し、その意志を貫くための力を手に入れます。

この力で最初に成し遂げたのが、トロスト区の破壊された扉を岩でふさぎ、巨人から人類の領土を守ること。

このシーンには、エレンの独白らしいナレーションがかぶせられます(14話)。

かれはみずからを鼓舞します。自由のために「戦え!!」と。

そのためなら「命なんか惜しくない」と。

どれだけ世界が残酷でも関係無い」と。

このシーンで、おとり役である駐屯兵団の上官イアンたちが巨人に喰われるさまが描かれているのを見ると、この「命なんか惜しくない」は、かれら犠牲となった兵士たち自身の心の叫びを同時に代弁しているようにも読めます。

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14話「原初的欲求」

 

見ようによっては、人類が巨人に初めて勝利するテンション爆上げのシーンですが、見ようによっては、人命軽視の特攻精神の称揚のようでもあり居心地の悪くなるシーンです。

いずれにせよ、この「どれだけ世界が残酷でも関係無い」という揺るがぬ意志は、ニーチェ的な「力への意志」と解することができます。

ここではニーチェ的自由が、残酷な運命(=巨人)に打ち勝ちました。

 

しかし、これほど激烈なエレンの意志も、別の場面ではグラッグラに揺らいでしまいます。

アニが「女型の巨人」だと判明したシーン。

彼女が壁を破壊した知性巨人の仲間だとは信じられなかったエレンは、いつものように自分の手を噛んでも、巨人に変身することができません。

「傷を負うこと+なにか行動を起こそうと意志すること」が巨人化の条件なので、彼にはアニと戦おうという心の準備がなかったのです。

巨人に対しては憎しみをむき出しにして戦えるけど、仲間と戦う覚悟はぜんぜんできていないエレン。

かれはミカサの「仕方ないでしょ? 世界は残酷なんだから」の一言で、ようやく覚悟が決まり、巨人化できたのでした(32話)。ミカサがニヒリストであること(だから反ニヒリズムにも転じうるのだけど)は先に論じました(1.1)。 

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32話「慈悲」

 

ニヒリズムを克服しようとする強者には、さまざまな危険や試練や苦難に耐えることが予定されていると、いや、それらは必要ですらあると、ニーチェは考えます。

生命の危険だけではなく、精神の動揺も克服しなければならないのです。

求めた自由の代償として、何を突きつけられようが「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」の精神を貫かねばならないのです。

だからこの作品では、登場人物が試練を克服しようとするときに、くりかえし「世界は残酷」というフレーズがリフレインするのでしょう。

 

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1.2.b ニヒリストと「虚無への意志」 (下) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

「上」から読んでね!

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自由の埋め合わせとしてのニヒリズム

前記事で見たことを要約しましょう。

ニーチェによれば人間は、どれほど無力であろうとも、価値を、意味を、自由を、欲せずにはいられない存在です。

挫折した自由に対して、その代償となるような生きる意味が存在しなければ、無力な人間たちは悲惨で奴隷的な生を耐えられない。

だからこそ、人間は「何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する」のです。 

エルディア人が巨人に変身する「悪魔」であることを免れないなら、いっそ滅びを受け入れ、人類の罪深さを軽減しようと、みずからを無にすることに価値を見出した「壁の王」たちのように。 

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121話「未来の記憶」

  

「残酷な世界」に翻弄される大多数の弱者たちは、なにかを自由に意志しても挫折に終わるだけと知っている。

そういう無力な人間たちにとっては「虚無」を自由に意志することだけが救いとなる。

そうニーチェは言い放ちました。

こうして「虚無への意志」とは、どれほど歪められたものであれ、それでも人間的自由の一表現なのです。

あるいは、むしろ挫折した自由の埋め合わせと呼んだほうが適切でしょう。

 

「虚無への意志」と「力への意志」 

しかもニーチェによれば、無力な「畜群」に対して人間の無価値さを説く「牧人」たち自身は、つまり聖職者たちは、実は「力への意志」に従っているのです。

生あるものを見出したところに、わたしは力への意志を見出した。そして、奉仕者の意志のなかにすら、わたしは支配者たらんとする意志を見出した。

弱者は強者に奉仕するようにと弱者を説得するのは、いっそう弱い者の支配者でありたいと意志する弱者自身の意志なのである。

ニーチェツァラトゥストラはこう語った』 第2編「自己克服について」

神や君主への奉仕者を自任し、無力な弱者たちにも奉仕の義務を説く聖職者は、内面的な意志を救済することだけでなく、外面的世界における自由をも、すなわち支配をも欲しているのです。

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人間をむしばむ「虚無への意志」

「虚無への意志」とは、置き換えられ歪められた自由であり、さらには「力への意志」ですらありうる。

このことは、ウォール教団における最重要の地位を占め、そして壁内人類の真の支配者である、レイス家の人々には当てはまるでしょうか。

 

かれらはたしかに「畜群」を従える「牧人」です。

「牧人」としてのレイス家に、無力な人々を支配する「力への意志」を見出すことは可能でしょう。

でもかれらの教えは、実のところ「不戦の契り」にもとづいて民族的自滅を受け入れるためのものでした。

民族的自滅への意志を、挫折した自由の代わりと見なすことは、置き換えられた「力への意志」と見なすことには、さすがに無理がないでしょうか?

人間の生に罪深さを見出す意志は、それでもやはり、一種の生を意味づける意志でありました。

でも「不戦の契り」の思想は、人間一般の罪深さだけでなく、その人間以下の存在、つまり人間一般よりも一段と罪深い存在がエルディア人であるという見解を含んでいます。

人間一般にとっては、精神的次元での自己否定が、人間らしさの表現でありうるでしょう。

しかしエルディア人の場合、物理的な自己否定つまり死しか、人間らしさの表現手段がないのです。かれらは生きているかぎり「化け物」なのですから。

  

それゆえに「始祖の巨人」を継承したフリーダは、みずからの「罪深さ」を自覚することで、少しも救われていません。

彼女はたしかに権力者ですが、しかし彼女の精神は「不戦の契り」を受け入れた後も、解決しない葛藤に苦しめられ続けていたことが窺えます(66話)。

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66話「願い」

  

フリーダの内的葛藤は、必然的なものです。

もし彼女がほんとうに、エルディア人が滅ぶことを意志し、欲していたとすれば、滅ぼせばよかったのです。

「始祖の巨人」の継承者には、そのことが可能でした。たとえばジークの「安楽死」計画のようなしかたでも。

しかし彼女や、先行の「始祖」継承者たちは、それをしなかった。

滅びの運命が外部から訪れてくる、その瞬間までは生きていたかった。

だからフリーダは、エルディア人は滅びを受け入れるべきだと口では言いながら、しかしこの信念にみずから苦しめられ続けたのです。

だからフリーダは、エルディア人の滅びを欲する「虚無への意志」によっては自由になれなかったのです。この意志を「力への意志」に置き換えることは彼女にはできなかったのです。

この点でフリーダは、同じようにエルディア人が滅ぶことを意志しながら、どれほど多くのエルディア人を殺しても葛藤を感じることのなかったジークとは対照的だと言えるでしょう(0.5 参照)。

 

自由の埋め合わせとしてのニヒリズムの限界

「虚無への意志」が自由の埋め合わせであるとしても、やはりそれは人間を自由にはしません。

それはさながら錬金術のように、無意味を意味に、無目的を目的に、不条理を条理に変え、行為する理由がないことを行為の理由にしてくれることでしょう。

しかし、この意志によって人が無為から救済されたとしても、それは運命の奴隷であることを受け入れる受動的態度でしかないのです。 

たとえば「構いませんよ すべては無意味です」と言い、切り裂きケニーを上官と認め、そして「人間と残された領土を巡り争い合う」不条理さを戦う目的として受け入れた、中央憲兵団の女性兵士の態度のように(69話)。

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69話「友人」

  

このシーンにおいて彼女は、典型的なニヒリストです。ほかの兵士たちもまた、きっとそうなのでしょう。

かれら中央憲兵団の兵士たちは、世界の不条理に疲れ切った、すれっからしのニヒリストであったからこそ、ケニーの謎めいた企み(「始祖の巨人」を奪うことだと後で判明します)の放つ妖しい魅力に惹かれ、かれに進んで従ったのでした。

 

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1.2.a ニヒリストと「虚無への意志」 (上) ~ ニヒリズムと実存的自由

 

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「残酷」な世界のなかで、価値ある自由を求めて

強者をかせにはめようとする奴隷的大衆と、それでもあえて強者であろうとする自由で勇敢な少数者。

そんなニーチェ的構図で読み解ける側面を『進撃』はもっています。

ただし、この作品世界において強者であることは、ことのほか難しい。

ちょっとやそっとの秀でた能力をもっていたところで、巨人が襲いかかってくれば喰われて終わりなのですから。 

弱い者は喰われて死ぬだけ。善も悪も無意味。

この作品にたびたび現れる「世界は残酷」というフレーズは、そういうニヒリズムを意味するのだと理解する人が多いのは当然のことです。 

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8話「咆哮」

 

でも『進撃』は、ニヒリズムにはじまるとしても、ニヒリズムに終わる物語ではないと筆者は考えます。

本作の登場人物たちはみな、この「残酷」な世界をただ生き抜くだけではなく、その先に虚無ではないなにかを見つけだせるかどうか、という試練を課されているのです。

理不尽な世界のなかで自由に生きられるかということだけでなく、なにか価値ある自由をそこで達成できるのかということが、登場人物の行動には賭けられているのです。

前記事で見たように、早くも物語の冒頭で、エレンを失った(と思った)ミカサやアルミンは、そのような試練に直面したのでした。

 

ニヒリズムの根源に迫るニーチェ

『進撃』の作品世界のムードはニヒリズムを基調としていますが、本作のテーマとなる自由は、むしろニヒリズムの克服です。

これら両方の側面を考察するために、俗にニヒリズムの哲学者と呼ばれるフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は、導きの糸となるでしょう。 

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前記事では、ニーチェによる奴隷的道徳の批判を見ました。

彼にいわせれば、善悪とは畢竟(ひっきょう)、強者に対する「畜群」の「ルサンチマン」にすぎません。

ところで「ニーチェといえばルサンチマン」ってくらいよく知られたルサンチマンという語ですが、なかなか扱いの難しい用語であります。

この言葉を好んで使う人は「道徳なんて弱者のルサンチマン」「大衆は有能な少数者の偉業を称えよ」といった類の見解を、喜んで支持しがちでしょう。

逆に、この言葉に反感をもつ人は、善悪を弱者の怨恨に還元し、道徳や倫理を無価値にしてしまうとき、人間は弱肉強食の世界かファシスト的独裁のもとでしか生きられないのではないかと懸念することでしょう。 

 

でも、ほんとうにニーチェが言いたかったのは、弱者を見下して傲慢に生きればよいということでも、凡庸な人間は有能な独裁者に従えということでも、きっとなかっただろうと思います。

彼は世にいう善悪をたんに否定すればよかったのではなく、この善悪という価値判断それ自体がもつ価値または意味を知りたかったのです。  

......人間はいかなる条件のもとに善悪というあの価値判断を考え出したか?

しかして、これら価値判断それ自体はいかなる価値を有するか?

ニーチェ道徳の系譜』序言

こうしてニーチェは、世のならいを無意味と蔑むだけの単なるひねくれたニヒリストに留まっているわけではなく、むしろ、世にいう善悪の真の意味を暴き出そうとして、ニヒリズムの正体に迫ろうとしているのです。

 

道徳的良心の極限としてのニヒリズム

ニーチェは言います。

善悪という色眼鏡を外して人類の歴史を眺めてみれば、国家の起源とはつねに強者による弱者の征服であったと。

征服者たちは奴隷的道徳を知らず、つまり「負い目の何たるか、顧慮の何たるか、責任の何たるか」を知る由もないのだと。

では善悪は、善悪を感じ取る「良心」は、自分には罪があるという「負い目」の感情は、一体どこから出てくるか?

屈服させられ、自己の支配者であることを放棄させられた、被征服者たちの「自由の本能」からでしかないと、ニーチェは断言します。

暴力によって潜在的なものとさせられた、この自由の本能......。これが、これだけが良心のやましさの始まりなのだ。

ニーチェ道徳の系譜』第二論文

 

挫折した自由に起源をもつ「良心」。

この良心は、ニーチェによれば、敗北者であるわたしの死を免除してくれた征服者への「負債」の感情から、祖先に対する負い目へ、さらには神的な存在に対する負い目へと、歴史のなかで発展していきました。

征服者であれ、祖先であれ、神であれ、人間を生かす権力をもった上位者に、わたしは生を貸し与えられているのだという観念。

わたしは「債権者」に対する「債務者」として生を許されているのだという観念。

これこそが「良心」の起源なのです。

 

そして「良心のやましさ」を永遠化したのは、キリスト教でした。 

聖書の物語によれば、われわれが背負うべきであった「罪」を、債権者である神(イエスとしての)が肩代わりしてくれたのです。

これによって、永遠に報いることのできないほど無限に大きな恩義を、人間は神から受けたのです。

かくして人類のなかに「おのれ自身を救いがたいほどに罪ある者、呪われるべき者として見ようとする意志」が確立された。そうニーチェは喝破します。

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ニーチェ道徳の系譜』初版本

 

つまり善とは、良心とは、みずからの生の無価値を自覚することなのです。

このことをニーチェは「僧侶的」または「禁欲主義的」理想と名づけました。

彼いわく、この理想は「畜群」が蓄積するルサンチマンの「危険な爆薬」の着火を防ぐためにあります。 

この不満を人間自身の罪深さに差し向け、もって「ルサンチマンの方向転換」を達成し、世を平和に保つこと。それこそが良心の、あるいは「禁欲主義的理想」の、ほんとうの「価値」なのです。

 

なぜニヒリズムはこれを達成することができたのか?

無意味な世界に翻弄され、なにも自由に成し遂げることができない、無価値な存在でしかない大多数の人間たちにとって、それだけは自由に成し遂げることが可能だから。

すなわち、みずから虚無たらんと欲し自分自身を虚無たらしめることは、無力な人間が、その内面において自由に成し遂げることが可能であったからです。

このようにして、虚無ですら「人類に一つの意味を与え」ることができてしまうのです。

それ以来、人間はもはや、風にもてあそばれる木の葉のごときものではなくなった。もはや、無意味、没意味の手毬ではなくなった。いまや人間は何かを意欲することができるようになった。......要するに、意志そのものが救われたのである。

ニーチェ道徳の系譜』第三論文

こうして無力な人間は、それでも自分の奴隷的状態に意味を見出すことにより、ある種の内面的な自由を行使することができるのです。

ニーチェいわく「人間は何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する」。

 

ニヒリストとしての「壁の王」

ニーチェのいうニヒリズムとは、要するに道徳的良心の極限、善くあろうとする意志の極限なのです。

人間の生を虚無、無意味、無価値と見なすことにより、挫折した自由を贖うこと。

そうやってルサンチマン(奴隷的道徳)を飼いならすこと。

それこそが道徳的良心=ニヒリズムの本質的役割なのです。

 

だとすれば、ニーチェのいうニヒリストとは、奴隷的道徳に甘んじる「畜群」のことでも、世にいう善悪などものともしない強者のことでもありません。

そうではなくて、むきだしの暴力のかわりに「良心」によって「畜群」を支配する者たち、ルサンチマン虚無への意志に昇華させ、無力さそのものを人生の意味と信じさせようとする者たちこそが、ニヒリストと呼ばれるべきなのです。

 

あれ、こんな人たち『進撃』に出てこなかったかな?

そう、ほかならぬ真の「壁の王」たるレイス家の人々です。 

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90話「壁の向こう側へ」

 

そして、レイス家の思想にもとづく「ウォール教」の信仰を説く人々です。

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33話「壁」

 

作者・諌山はさいしょ、宗教を信じる人々を非常にシニカルに描き出しました。

神聖な「壁」に祈りをささげる信者たちは、女型の巨人が倒れてきたせいで、がれきに潰されてしまいます(33話)。

このシーンは、自力で困難を克服しようと努力することもなく、天に身をゆだねることのバカバカしさを皮肉っているように見えます。

「祈るな!! 祈れば手が塞がる!!」 

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でもこのエピソードは、宗教の信者を皮肉って終わりではないんですよね。

信仰と受動性の徳を唱えるウォール教の司祭ニックは、実はどうやら、なにか深い考えにもとづいて教義を広め、そしてなにか深刻な理由のために「壁の秘密」を守っているようなのです。

ニックを脅して秘密を吐かせようとしたハンジさんも、あとで彼を「まっとうな判断力を持った人間に見える」と評しています(37話)。 

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34話「戦士は踊る」

 

この秘密、つまり「始祖の巨人」が操ることのできる無数の超大型巨人が壁に隠れていることは、物語が進むにつれてしだいに判明していきます。

とはいえ、この真実を秘密にしておくことの意図が明らかにされたのは、王家最後の「始祖の巨人」継承者であるフリーダの口からでした。

いわく、人間は「あまりにも弱い」ので、強大な巨人の力を正しく用いることはできない。だからむしろ「人の手から巨人の力を守らねばならない」のです(121話)。

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121話「未来の記憶」

 

ここでいう人間とは、エルディア人にかぎらない人間一般でしょう(マーレも巨人を自国の戦力として活用していましたし)。

弱く、罪深い人間は、だれも巨人の力を行使すべきではない。

このことは突き詰めると、人類全体の幸福を考えるなら、巨人の力をもつエルディア人は滅びたほうがいいという結論になります。

「不戦の契り」に縛られるレイス家の目的は、運命のなすがままに、この結論が実現される日にはそれを受動的に受け入れることだったのです。 

 

人間は弱く、罪深い。

そのような弱者たちに、巨人の力はまったく不相応である。

したがって、罪深き人間をさらに罪深くする「力」そのものとしてのエルディア人には、生きる価値がない

これこそが、ウォール教や「不戦の契り」を下支えする根本思想なのです。

 

まさしくこれは、ニーチェの言う「禁欲主義的理想」そのものではないでしょうか――人類一般とエルディア人の区別という、ちょっとした捻りが入っているにせよ。

「壁の王」の思想においては、エルディア人の生のみならず、人間一般の生そのものが、罪深く、無意味で、無価値です。

でも、人類がもつべきでない巨人な力そのものであるエルディア人が滅びるならば、人類はその罪深さから少しは救済されるのです。

こうして、罪の象徴でしかなかったエルディア人は、その自己犠牲によって、人類に意味を、価値をもたらすことができるのです。

このことへと、エルディア人が達成できる唯一の価値へと壁内人類を導いていくことが、レイス家の責務だったのでした。

 

ニーチェニヒリズム論は、まさにそのようなレイス家の思想の本質を、的確に突くものだと言えるでしょう。

「人間は何も欲しないくらいなら、いっそ虚無を欲する。」 

 

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1.1 「世界は残酷だ そして とても美しい」 ~ ニヒリズムと実存的自由

 

ニヒリスト的世界としてのパラディ島

『進撃』の作品世界において、人類は自由ではありません

なぜなのか。人類を無残に喰い殺す巨人たちに、自由を奪われているから?

そうではありません。むしろパラディ島の人類は、自由をみずから放棄しているから、自由ではないのです。

 

物語のはじまりにおいて、人類の大半は、巨人の脅威を忘れ、壁の中の平和に満足しきった存在として描き出されています。

(パラディ島=Paradis Islandという後で判明する島名は、このかりそめの平和を表すアイロニーというわけですね。さんざん指摘されていますけど。)

多くの人々は、壁の外に出て巨人と戦う調査兵団を、ムダな努力をくりかえす厄介者と見なしています。

その一方で、主人公エレン・イェーガーは、このような壁の中の安寧を「まるで家畜」のような生き方と断じます(1話)。

1話「二千年後の君へ」

 

自分たちの弱さ、自分たちの不自由さに甘んじることを善しとする大衆。

かれらにとって調査兵団のような、あえて強くあろうと、あえて自由であろうとする者たちは、不可解な存在であり、非難や嫌悪の対象ですらあるのです。

 

このような自由を求める少数者と安楽な不自由に満足する多数者との対比は、どう見ても作者・諌山が意図的に描き出しているもの。

この対比を見ると、ニヒリズムの哲学者ニーチェが提示した「主人の道徳」と「奴隷的道徳」との対比を、連想せずにはいられません。

 

ニーチェによれば、生まれながらの強者が体現する「主人の道徳」は「良い(優良)/悪い(劣悪)」を尺度とする価値観です。ドイツ語でいうと gut / schlecht (グート/シュレヒト)で、英語では good / bad と訳されます。

ここでいう「良い」とは、優れていること、まさっていることを意味します。

逆に「悪い」とは「弱い」「無力」と同義です。

 

他方で「畜群」である大衆の「奴隷的道徳」においては「善い(善良)/悪い(邪悪)」が価値尺度です。ドイツ語でいうと gut / böse(グート/ベーゼ)で、英語では good / evil と訳されます。

ここでいう「善い」とは、悪をなさないことです。

この価値観においては、弱者を屈服させてはばかることのない強者こそが「邪悪」とされます。

こうして、大衆のいわゆる「ルサンチマン」が、人間のなかの優秀な部類に向けられ、その力を発揮することを妨げてしまうのです(ニーチェ道徳の系譜』第一論文)。

www.chikumashobo.co.jp

 

このような道徳観の克服を、ニーチェは唱えます。

奴隷的な「善悪」の価値観は、人間の人間らしい活力を否定し、そのかわりに「虚無」を価値であるかのように見せかけていると、彼は断じます。

ニーチェはニヒリストと言われますが、実はこのように「虚無」の克服を目指しているので、むしろ反ニヒリストと呼ばれるべきかもしれません。

でもまあ、ニーチェ通俗的な道徳規範を虚無と見なしていることは確かなので、その意味では、やはり彼をニヒリストと称するのは正しいといえましょう。 

 

強者信仰としての自由?

あえて自由な強者であろうとする、勇敢な少数者としての調査兵団と、前者を疎んじ、恨み、その足を引っぱる、凡庸で奴隷的な大衆。

このように図式化すると、この『進撃』という作品は、倫理的にみて非常にアブナイ自由をテーマにしているように見えてくるかもしれません。

ニーチェのいうように、大衆とは「畜群」であり、自由になりえない弱者で、強者を呪うことしかできないのだとすれば、人間の自由は、かれら「畜群」が強者に従うことでしか成立しえないということになってしまうからです。 

 

この作品では、ほかでもない主人公エレンが、ときとして、そのような強者信仰を表現しているように見えます。

彼が壁内人類に投げかける「家畜」という呼称は、ニーチェの「畜群」を強く連想させないでしょうか。

さらには、自分が巨人化できることを知ったばかりのエレンが、巨人になる人間という未知の存在に怖気づく「腰抜け共」に対して「いいから黙って 全部オレに投資しろ!!」とタンカを切ったことも想起してみてください(19話)。

これなど、まさに力こそが正義という見解の率直な表現に見えます。

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19話「まだ目を見れない」

 

もし『進撃』の基調がこのような強者信仰であるとすれば、この作品の自由観は、きわめてニヒリスト的です。

いや、ファシスト的とすら言えるかもしれません。

大衆とは無能な弱者、本質的な奴隷、ルサンチマンを抱く「畜群」であって、みずから自由の状態に達することができない。

それにもかかわらず人間の自由が達成されうるとすれば、それは強者が「畜群」たる大衆を支配する一方で、大衆はルサンチマンの産物でしかない通俗的な善悪を放棄し、有能で英雄的な指導者に、歓呼賛同を捧げることでしか成立しない。

そういう政治的含意が、このニヒリスト的自由観からは引き出されうるのです。

これをさしあたり、強者信仰としての自由と呼ぶことにしましょう。

 

そうだとすれば、この『進撃の巨人』という作品に漂うニヒリスト的ムードに、ある種の政治的反動性を見てとることも、あながち的外れとは言い切れません。

たとえば大塚英志は、この作品が、戦争責任問題を追及する左派や近隣諸国のせいで、日本が外部の脅威に対して武力で対抗できずにいるという、右派のストーリーをなぞっていると指摘しました。

あるいは少なくとも、そういうストーリに賛同する日本の「若者」が、現実の「歴史を代償」するために消費する歴史修正主義的なファンタジーとして、この作品を受容したというのです(『メディアミックス化する日本』2014年)。

www.eastpress.co.jp

  

ちょっと一面的に解釈しすぎじゃないでしょうか、大塚先生?

うーんでも、ファンによる受容のされ方を見ると、大塚が言うように『進撃』を受容する向きがあるというのは、実際そうだと思えます。

作者自身、実際にそういう意図を作品に込めて描いているのかもしれません。

(とくにガビにエルディア人の歴史的な罪について語らせているシーンは、現実の歴史認識問題を強く連想させます。)

 

『進撃』のニヒリスト的ムードは、たしかに「力だけが正義」というメッセージをそこに読み取ろうと思えば読み取れるものです。

「所詮この世は弱肉強食」、だから奴隷道徳を放棄しろ、敵を打ち倒すことをためらうな、という某人斬りのそれと同じ教訓を、この作品から引き出すことは可能なのです。

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でも『進撃』は、ニヒリスト的ムードのなかで自己完結してしまっているでしょうか?

このムードが作品の本質そのものを規定しているわけでははないと、筆者は考えます。

『進撃』はニヒリズムを教えるための物語ではなく、ニヒリズムの先にあるものを見つけ出すための物語であるように思えるのです。

 

ニヒリズムの先へ ~ 残酷だけど美しい世界 

いかにしてニヒリズムを潜り抜けるか、その先に何を見出すか、というテーマをよく表しているのが、この作品のキャッチフレーズともいうべき、ミカサのセリフです

この世界は残酷だ そして とても美しい

このセリフは、単独で切り抜いてみると、世界の不条理さに直面し、価値判断を放棄して、それをただ耽美的に眺めている、ある種のデカダンス主義にも見えます。

はたしてミカサは退廃的な耽美主義者なのでしょうか?

さもなくば、このセリフは何を表現しているのでしょうか?

作品の筋書きのなかに文脈づけながら、解釈してみる必要があります。

 

ふたたび、本作における英雄的少数者と奴隷的多数者とのコントラストを想起してみましょう。

このニーチェ風の対比は、少数の気高い「強者」と同一化したいという欲望を読者に掻き立てがちなものです。

でも『進撃』のこの側面だけを強調するのは、フェアではない。

むしろ、そのような「強者」への同一化の欲望を突き放す場面が、本作の随所にちりばめられいるのですから。

 

巨人と戦い、人類の自由を体現する役柄であるはずの調査兵団

しかしかれらは、物語の冒頭から、無益な敗北に打ちひしがれた姿で登場します(1話)。

その「不屈の精神」には読者は自己同一化できるかもしれませんが、しかしかれらを強者として称えることは、とてもできない相談でしょう。

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1話「二千年後の君へ」

 

あえて強くあろうとする者にとって、この世界はあまりに「残酷」である

あえて自由であろうとする者は、無残に引き裂かれ、身をもって挫折を味あわされるしかない

このマンガは「そういう作品ですよ」ということを、まざまざと読者に見せつけるために、調査兵団は冒頭で無残な姿をさらしたのです。

 

この「残酷さ」をダメ押しで示してみせるのは、ほかでもない主人公エレン。

壁を破壊し侵入してきた巨人に対して、人類による反撃の口火を切ろうと意気込む彼は、ふたたび現れた巨人たちに勇んで挑みかかるも、あっさり喰われてしまうのです(4話)。

 

読者からすると、ここで主役がホントに死んだわけはないだろうと推測がつくところ。

しかし、そういうメタ視点でツッコミを入れるのはグッと我慢して、このできごとが物語にもたらした効果に注目してください。

エレンの死の報せに対する他の登場人物の反応の描かれ方が、この作品のテーマを浮き彫りにするためにきわめて重要なのです。

 

ニヒリズムに抗するアルミン

まずはアルミン。

彼はエレンの死に直面し、彼らが置かれている状況を地獄のようだと感じますが、すぐに思い直します。

この世界は「最初から」残酷であったと。

もともと「強い者が弱い者を食らう 親切なくらい分かりやすい」残酷な世界だったのだと(5話)。

5話「絶望の中で鈍く光る」

 

でも、ここでアルミンは、ニヒリズムに襲われたのではありません。

けっきょく世界は弱肉強食なのだと、虚無感に陥っているわけではありません。

むしろアルミンは虚無主義に屈せず、残酷な世界のなかでも強くあろうとしたのに、それに成功しなかったことを悔やんでいるのです。

もともといじめられっ子だったアルミン。

そんな彼は、強い者には逆らわないという世のならいを受け入れずに、彼を助けてくれるエレンに感化され、彼の助けを必要としないほど強くなり、彼と対等な友でありたいと願っていたのでした。

この悔恨は、虚無感への屈服と見なされるべきではないでしょう。

 

ニヒリズムに抗するミカサ

そしてミカサ。

彼女は戦闘能力としては、予測できない動きをする「奇行種」の巨人すらものともしない圧倒的強者で、上官にも「逸材」と驚かれています(5話)。

そんな彼女は、幼少期、人さらいの大人をちゅうちょなく刺殺するエレンと出会い、彼が人さらいの仲間に絞殺されそうになるのを目の当たりにしたとき、突如、もともと世界は残酷ではないかという悟りの境地に達し、人並み外れた身体能力を開花させたのでした(6話)。 

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6話「少女が見た世界」

 

しかし、すでに「世界は残酷」と悟っているミカサですら、エレンの死の報せに動揺し、その結果、立体起動装置が使えないのに巨人にはさみうちにされるという、絶体絶命の窮地に。

ここでようやく出てくるのが「この世界は残酷だ そして とても美しい」というセリフ(7話)。 

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7話「小さな刃」

 

ここでミカサが世界の「美しい」面として想起するのは、弱肉強食の残酷さとは対照的な、帰る場所を失った彼女にマフラーを巻いてくれたエレンの思い出です。

強いものが生きるが弱い者は死ぬだけだと悟っていながら、それでもミカサは別種の力に、すなわち、たがいを慈しみ助け合う人間的感情の力に価値を見出します。

そして彼女は、最後まであきらめずに巨人に抵抗しようと刃を構えるのでした。

 

作品の序盤において、ニヒリズムもっとも鮮明に体現しているのはミカサです。

彼女は兵士になるまえから、強くなければ「残酷な」世界を生き残れないと達観していました。

(そう彼女に悟らせたきっかけはエレンですが、序盤の彼はむしろ、自由への渇望を原動力とする、実力の伴わない英雄主義者であって、ニヒリストとは対極的というべきでしょう。)

そしてミカサは、戦闘能力としては、この残酷な世界を生き残るじゅうぶんな強さをそなえていました。

つまりニヒリストとして生きる素質があったのです。

 

でも、そんな彼女ですら、エレンを失ったショックで、絶体絶命の窮地に陥り、自分の強さの限界に直面したのでした。

まさにここでミカサは、いかにして強者への屈服を拒むか、いかにしてニヒリズムを乗り越えるか、という試練に対峙したのです。

ここで彼女を勇気づけたのは、この世界の「美しさ」を象徴する、マフラーを巻いてくれたエレンの思い出でした。

かけがえのない思い出に支えられて、いままさにニヒリスト的諦念を突き抜けようとするミカサ。

だからこそ彼女のセリフは、世界は「残酷だ でも美しい」ではなく「残酷だ そして美しい」なのでしょう。

 

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0.9.c わたしは他人とともに自由でありうるか (下) ~ 自由の哲学入門書として読む『進撃の巨人』

 

「上」「中」を先に読んでね!

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調査兵団の自由 

でも、ミカサ一人だけでは、エレンを止め、彼を解放することはできませんでした。

エレンが「地鳴らし」をはじめたとき、これを阻止する責任をみずから引き受けたのは、彼女が属する調査兵団でした。

ただし、ここでいう調査兵団とは、そのときすでに事実上解体した、パラディ島の軍事組織としての調査兵団ではなく、むしろ理念としての調査兵団です。

組織内の規律よりも、国家体制から与えらえた大義よりも、各団員が胸に誓った「人類の自由」という約束をこそ存在理由とする、そのような集団としての調査兵団です。

 

14代団長のハンジさんは、自由のために生命を賭した仲間たちを想起しながら、こう言います。

この島だけに自由をもたらせばそれでいい
そんなケチなこと言う仲間は いないだろう (127話)

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127話「終末の夜」

 

そして調査兵団の象徴と呼ぶべき兵士であるリヴァイもまた、戦いのさなか、巨人なき世界とは「呆れるほどおめでたい理想の世界」でなければならない、そうでなければ「あいつらの心臓(いのち)と見合わない」と、心中で吐露します(136話)。

ハンジさんやリヴァイが体現する、理念としての調査兵団は、なぜ故郷の人々と敵対してまで、全人類の自由を追求したのでしょうか。

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136話「心臓を捧げよ」

   

「仲間の想い」と内なる声

ハンジさんが、壁外人類のみなごろしという結末を死んだ仲間たちは望まないだろうと述べたとき、ネットでずいぶん叩かれていたように記憶します。

生き残った団員はイェーガー派になったかもしれないとか、死者を勝手に代弁するなとか、そういう趣旨の批判でした。

私はとても悲しくなりました。ハンジさんがなぜ「仲間たちに見られている」と感じたのか、その理由が曲解され、彼女がバカにされてるように思えたからです。

 

ハンジさんは、自分の判断を「死んだ仲間」によって美化するために、死者を呼び出したのではありません。

そうでなくて、仲間に顔向けできる自分であるために、いまわたしは何をすべきだろうかと、自分自身の心の奥底から発される内なる声に、問いかけられたのです。

この状況で、どう行動するのが正しいのか。

何をするのが、もっとも自分らしいもっとも自分自身にたいして誠実なおこないだと言えるのか。

それを知るための方法が、彼女にとっては、死んだ仲間ならどう考えるか? と自分に尋ねることだったのです。

 

以前の記事(0.6)にも引用した、サルトルの一節を思い出してください。

彼によれば、もし「汝かくなすべし」という命令が死者の声や天のお告げとして降ってきたように感じられるとしても、それを死者の声や天のお告げとして見なすのは、つねにわたし自身なのです。

〔自分の息子を犠牲にささげよという、天使のアブラハムへの命令について〕それが天使の声であると決定するのはつねに私である。……この行為は悪であるよりもむしろ善であると述べることを選ぶのは私である。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

 

だとすれば「この島だけに自由をもたらせばそれでいい」という「ケチなこと」を言う仲間などいないと断じたハンジさんは、死者の想いを代弁したのではなく、自分自身にたいして恥じることのない自己を選んだのです。

巨人なき世界が「呆れるほどおめでたい理想の世界」にならなければ「あいつらの心臓(いのち)と見合わない」と独白したリヴァイもまた、死者の想いを代弁したのではなく、自分自身にたいして恥じることのない自己に従っていたのです。

  

ハンジさんやリヴァイの心の奥底から湧き上がる、内なる声。

これを理解するには、他ならぬ調査兵団にとって、人類の自由という理想が、いったい何を意味しているのかを考えてみる必要があります。

  

調査兵団の「心臓」が「人類」に捧げられている理由

調査兵団に入る者は、人類のために「心臓を捧げ」ることを誓います。

この人類とは誰か? 

それは当初、すべての壁内人類を指していました。

実際には「パラディ島のエルディア人」のことでしかなかったといえば、それは確かにそうでしょう。

しかし筆者は、壁外世界を知らなかった頃から、すでに調査兵団の誓いは、壁内人類だけには限定されない、普遍的な誓いであったと考えます。

 

そもそも「公のために心臓を捧げよ」のポーズは、憲兵団であれ駐屯兵団であれ、すべての兵士が、壁内人類とその体制への忠誠を表明するためにおこなう、よくある軍隊式敬礼です。

それでは、兵団組織はその誓いのとおり、人類の自由という理想の体現として評価されていたでしょうか?

まったく逆です。

憲兵団は腐敗し、いばりくさっていて、中層や下層の人民に嫌われていました。

駐屯兵団も、少なくともウォールマリアが破られるまでは、昼間から飲んだくれていても許されるような弛緩した組織でした。

 

それでは調査兵団は?

「心臓を捧げよ」という誓いをもっとも忠実に実践しているのは、かれらです。

ところが、彼らの誓いが向けられた相手である壁内人類の大部分は、調査兵団をよく思っていません。

人民に支持されていたかというと、むしろ必要のない危険を無理やり買って出て、無駄死にし、税金を無駄遣いする集団として、非難され、厄介者扱いされ、あるいはバカにされていたのです。

ウォールマリア破壊前はおろか、人類が後のないところまで巨人に追い詰められた状況になっても、調査兵団をめぐる世評は、本質的にはさほど変わっていませんでした(30話)。

あげくのはてには、世界の真実を人民に知らせないことに利益をもつ権力の中枢(宮廷の貴族たちと中央憲兵団)により、調査兵団は一時、お尋ね者にされてしまう始末(57-61話)。

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30話「敗者達」

 

人類のために命を投げうっているけれど、現実の人類にはほとんど感謝されていない、調査兵団

誇張なしに命がけの任務を課され、壁外調査のたびに多数が命を落とす、調査兵団

苛酷なのにほとんど見返りもないような条件にもかかわらず、なぜ調査兵団に加わる人たちがいるのか?

かれらを駆り立てたのは、他者の意向ではありません。

たとえば総力戦体制下のように、国家的大義への献身を煽り、自己犠牲を美化するプロパガンダによって、彼らは「心臓を捧げ」る決意を促されたわけではないのです。

むしろ、かれらの誓い、かれらの献身は、現実の「人類」の大部分には評価されてこなかったのですから。

 

調査兵団のメンバーたちが誓いを捧げている相手は、壁内の人類というよりも、誰でもない「人類」、すべての人であると同時に特定の誰でもない「人類」だというべきでしょう。

誰でもない「誰か」のために、調査兵団に加入する者は「心臓を捧げ」ることを決めるのです。

そのように命を投げうつことが、人間にはできるのか?

すくなくとも、ほかならぬ自分自身の深い決意、確信、納得からでなければ、そのような選択を人はおこなわないでしょう。

しかし、調査兵団に加わった兵士たちは、ほかならぬ自分自身の内なる声に従って、そうしたのです。

調査兵団への加入が、大義への献身や自己犠牲といった美談からは、どれほどかけはなれた決断であるのかということを、作者・諌山は意識的に描いています(たとえば21話)。

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21話「開門」

 

だからこそ、調査兵団の成員たちは、かれらが引き受けた「人類のために」という約束が、かれら一人ひとりにとって、どれほど重く、どれほど大きな価値をもっているのかを、他の誰よりもよく理解しています。

だからこそ、かれらの指導者エルヴィンは、自分の夢のためにすべてを犠牲に投げうつことができるマキャベリストにはなりきれなかった。

かれはためらいながら、それでも夢をあきらめて、仲間に、調査兵団の誓いに、忠実であることを選んだのです。

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76話「雷槍」

  

調査兵団の忠誠の対象は、当初から一貫して「人類」だった

すべての人であると同時に、特定の誰でもない「人類」。

そのために、かれらは戦ってきたのです。

この「人類」は、お仕着せの大義ではありえません。

個々の兵士が、周囲の人々や体制に求められてではなく、みずからの心に問い、みずから選び取った理念なのですから。

だから、かれらの「心臓を捧げよ」は、たんなる儀礼的な宣誓ではなく、個々の兵士が「人類」と、そして自分自身と結んだ約束なのです。

 

でも、壁外人類がパラディ島の自由を否定しているのに、なんでパラディ島の調査兵団が、全人類のために戦わねばならないのか? そうしてあげる義理なんか、調査兵団にはないではないか?

たしかにそうでしょう。

しかし調査兵団にとって、壁外人類を滅ぼすという選択は、かれら自身の「人類のために」という誓いを裏切ることを意味したのではないでしょうか。

 

意味づけとしての自由と「地獄」としての他者

さらに深堀りしていくために、ここでふたたび、実存的自由の考え方に立ち返ってみましょう。

人間はその本質においてではなく、自分自身を意味づけることができる存在として、自由です。

自由とは、意味づけなのです。

 

でも、わたしたちは、自分の思いどおりに自分を意味づけることなんて、現実にできているでしょうか?

他人に「あいつは嫌な奴」「無能」「怖い人」などと意味づけられてしまい、周囲の自分への評価を変えようとがんばってもうまくいかない。

人生はそんなことばかりです。

わたしたちは、自由であること、自分を意味づけることに失敗してばかり。

そして、わたしにそのような挫折を味あわせるのは、他の人間たちなのです。

 

このことを、サルトル相克(conflit)という語で言い表します。

かれによれば、実存としての「わたし」は、わたし自身だけではなく、わたしが関与する世界そのものを同時に意味づけることができる存在です。

でも、そのような人間たちが複数並存している世界において、何が起きるか?

わたしをわたし自身が意味づける前に、他人によって意味づけられてしまうのです。

人間たちのあいだのもっとも根本的な争いとは、意味づけをめぐる争いなのです。

 

ただし、自分を意味づける自由が他人によって制約されるということは、人間の相互的な条件でしかありません。

つまりお互いさまです。

だからサルトルは、彼が書いた『出口なし』という戯曲を、次のようなセリフで結びました。

地獄とは他人のことだ」と。

三人の登場人物は、そろって地獄に落とされたのですが、彼らを地獄行きの罪人として決定したのは、お互いのお互いに対するまなざし、お互いのお互いに対する意味づけの行為だったのです。

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「状況」の変革としての自由

この世界においては、わたしが他者に意味づけられてしまうように、わたしも他者を意味づけている

このことをふまえて、エレンの決断をどう解釈できるか?

彼が「地鳴らし」を実行したのは、他者による、つまり世界人類による「パラディ島のエルディア人は世界の脅威であり生きる価値がない」という意味づけを拒むためでした。

この意味づけを拒み、パラディ島が生き残るためでした。

でも、そのためにエレンは、島外人類によって意味づけられたとおりに、全人類を踏み潰す「島の悪魔」として自己実現してしまったのです。 

要するに、他者による意味づけを拒むための行為によって、他者による意味づけを引き受けてしまった

この点において、エレンは自由に行為しながら、しかし自由たりえていないのです。

 

このことの教訓は何か。

結局のところ、わたしの自由は、わたしと他の人間たちとが共有する「状況」そのものに依拠しているということです。

たとえ他者を物理的に滅ぼしたとしても、他者による意味づけから逃れられるとはかぎらないのですから。

ならば、どうすればいいのか。

他者が自由な存在として、わたしがそう認めて欲しいと望むように、わたしを認めること。そうなるように他者に働きかけること。

つまり「状況」を変革すること

それしかないのです。

 

だからこそ、サルトルは言います。

自分の自由が「状況」に依存していると知るとき、わたしは「自分の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる」と。

われわれは自由を欲することによって、まったく他人の自由に依拠していること、他人の自由はわれわれの自由に依拠していることを発見する。もちろん、人間の定義としての自由は他人に依拠するものではないが、しかも状況への参加〔アンガジュマンengagement〕が行われるやいなや、自分の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。

サルトル実存主義とはヒューマニズムである」

 

このような他者の自由をめぐるサルトルの見解と共鳴するのは、アルミンの最終回のセリフです。

争いはなくならないよ

でも...こうやって一緒にいる僕たちを見たら

みんな知りたくなるはずだ

僕たちの物語を (139話)

自由であることを免れず、それゆえにまた意味づけをめぐる争いを免れないのが、人間という存在。

だからこそ人間であるわたしは、他の人間たちを、わたし自身と同じように自由な存在として意味づけることによって、わたしが他者とともに価値ある自由を生きられるように試みずにはいられないのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

 

エレンを自由にした調査兵団

エレンがみずからの選択を実行に移すまで、調査兵団が「人類」の自由のために行動を起こすことはできませんでした。

しかし、逆のこともまた言えるでしょう。

エレンが自由を実現するためには、ほかならぬ調査兵団の自由が、すなわち、誰でもないがすべての人間であるような「人類」に誓いを立てた、調査兵団の理念を体現する仲間たちの自由が、彼には必要だったのです。

 

エレンは、世界によって意味づけられたとおりの「島の悪魔」として終わったのではありません。

彼が自己と世界を意味づけることができる自由な存在であることを、エレンは最後の最後で証明しえたのです。

エレンは知っていました。

「始祖の巨人」の力を行使する彼が、調査兵団に、ミカサに殺されることにより、エルディア人の巨人化の能力がこの世からなくなるという結末が待っているのだと。

しかしながら、この結末に到達するためには、エレンは自分を「島の悪魔」にするしかありませんでした。

彼を止めに来た同期の仲間だけが、戦いの終わりとともに、エレンの真意を知ることができたのです。

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139話「あの丘の木に向かって」

  

こうしてエレンの真意は、すくなくとも部分的には、たんに他者を滅ぼすことではなく、状況を変革し、世界を意味づけなおすことに向けられていたのです。

そのかぎりで、エレンは「島の悪魔」では終わらなかった。

エレンの自由は、最後の最後で、価値ある自由として、「状況」を変革する自由として実現されたのです。

人類の8割を踏みつぶした大殺戮が、そのことによって帳消しにはならないにせよ......。

 

そして、この企てが成功するには、彼みずから選択した「島の悪魔」としてのエレンが、「人類の自由」をあきらめまいとする調査兵団によって、打ち破られることが必要だったのです。 

 

実現されるか分からない次回予告

ようやく、導入部で論じるべきことは論じ尽くしました。

言いたかったのは、この『進撃の巨人』のテーマになっている自由は、通俗的な自由観ではなく「積極的自由」や「実存的自由」といった哲学的な自由観がなければ解読できないよ、ということです。

このマンガを「実存的自由の群像劇」として深堀りするのは、これからが本番です。

 

しかし問題は、こんな哲学マニアしか喜ばない? ような深堀りを読みたがる『進撃』ファンがどれくらいいるのかということ。

まあこれは、ちょっとでも読者がいれば、それでよしとしましょう。

もう一つの問題は、筆者がいつネタ切れになるか、あるいは実生活で時間の余裕を失うか、ということ。

こればかりは、なるようにしかなりません。

途中で「俺たちの戦いはこれからだ!」と放り投げても、それはまあ、ご愛嬌ということで。

 

実現するかどうかは保証できない構想を、いちおう予告しておきますね。 

  1. 「世界は残酷だ そして とても美しい」 ~ ニヒリズムと実存的自由 【エレン、ミカサ、ベルトルト、リヴァイ】
  2. 「何を捨て去れば変えられる?」 ~ マキャベリズム・ニヒリズム・実存的自由 【アルミン、エルヴィン、フロック、エレン】
  3. 「オレには今何をすべきかがわかるんだよ」 ~ わたしを選ぶことの自由と責任 【ジャン、ライナー、アニ、コニー】
  4. 「お前... 胸張って生きろよ」 ~ 内なる声としての自由 【ユミル、ヒストリア、サシャ】
  5. 「エルディア人を 苦しみから解放する」 ~ パターナリズムと自由 【エレン vs. ジーク】
  6. 「待っていたんだろ 二千年前から 誰かを」 ~ 自由を求める奴隷 【始祖ユミル、ミカサ】
  7. 「僕らが知らない 壁の向こう側があるはず」 ~ だれかの自由であるわたしの自由 【調査兵団 vs. エレン】

  

(つづく)

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